楠の木町の塾長ちゃん

夏瀬縁

塾長ちゃん


シャッターが閉まってばかりで、空いているところを1度も見たことがない商店街。

閑静な住宅地があったと思えば、そのすぐ隣にはボロボロなアパート。


辺りには小さな里山ひとつ見ることは出来ず、その変わりに街路樹がぽつり、ぽつり。



学校の子供たちの騒ぐ声が響くこの町の、駄菓子屋さんの奥の坂を越えて、右に曲がったところのすぐ近く。



真新しい学習塾がひとつ。



『2週間体験授業無料!』



そうでかでかと書かれたポスターと共に、出来たばかりであるということを知らせるための広告も窓に張り付いている。




「よしっ!やっと、やっとこの日が来た…!」


震える握りこぶし。真新しいスーツに身を包んだ小さな背丈。


だいたい身長140センチ程のそれは、中学生の頃からそれはもうまったく変わらない。

おつかい偉いわね。

買い物の度に舐めた数多の苦渋が、その纏う雰囲気の中に淀んだ何かを一雫。

薄いメイク、目の下にくま。


そこで初めて我々は気づく。

こちら側の人間であると。

見た目以外は。





今日、桜の花びらとともに、ここ楠の木町に学習塾がやってきた。


ここの気弱(?)で生真面目な小さな塾長ちゃんと、そこに訪れる生徒さんの特別な一年。

これから先、この学習塾では様々なことが起きるのだ。


袖をまくったワイシャツ。大きくてぴかぴかの窓の中と目があった。


きりり、決め顔。

僅かに力抜けた臙脂色えんじいろのネクタイを直した。


「…ふぇっくしゅ!」


塾長ちゃん、前途多難。

まずは花粉を撲滅することから始めようと鼻をすすった。















荷物を運び込む業者さんの、大きなトラックから様々な備品がやってくる。


それは学習机から始まり、パソコンにストップウォッチ、鉛筆削りに照明にと次から次へと大きいものから小さいものまで、多種多様な道具たちがある。


「あ、あの、なにか手伝いましょうか?」


「大丈夫です!任せてください。私たちの仕事なので!」


「あ、はぃ」


大舟に乗ったつもりで!

にっこり白い歯の青年に塾長ちゃんは縮こまった。

惨めである。さながら塩を前にしたナメクジの様相であった。


実は彼女、人と話すのが苦手だ。

何も怖くない反発心の塊である学生時代を思い出し、勇気を振り絞って話しかけてみたまでは良かった。


あ、はい邪魔ですよねごめんなさい小さくて…。


ひとりふたりの友達とおすすめ小説を密輸しあっていた記憶。

ブックカバーを念入りに確認して、びくびくしながらやったものだ。


見た目も何も、彼女は変わっていなかった。


仕方なく、すみっこに移動して縮こまっていることにした。

世間一般では陰キャだと言うらしい。

というかとっくのとうに彼女自身、分かってる。


そんな人が塾長で大丈夫なのかと言われてしまいそうだが、やると決めたのだ。


やるしかない。

ふんすとモワモワなカーペットが敷かれた床から顔を上げた、と同時。


「むわっ」

前髪が消し飛ぶ。


開きっぱなしの自動ドアから爽やかとまでは言えない強風が吹き込んだ。



あ、保護者面談とか大丈夫かな…。


唐突。

そんな決意を胸にした矢先、これから先の不安が浮かび始める。

いくら頑張ろうと思ったところで、突風と同じように不安の種は尽きないものなのだ。



オーライ、オーライと声が響く駐車場の隅。

ぴーぴーと点滅する光がガラスに反射する。


ふと、腕時計に目をやった。


もうそろそろ14時50分をまわる。

背伸びして辺りを見渡してみても、作業員さん以外の人影は見えない。

今日の15時から、この塾のチラシを一緒に町で配って周る約束をあの先生としていたはず。


もうそろそろ来てもいい頃だと思うんだけどなぁ。

小走りでうんともすんとも言わない自動ドアを飛び出した。


が、見つけたのは私の足に寄ってきた野良猫だけ。


「ナァ」

「…なんですきみは。貴方も待ち合わせですか?」



彼女がしゃがんで手を伸ばすと、もうひとたび、ナァとだけ返ってきた。

しゃがんだ彼女の目の前でおすわり。

愛くるしい目を向けた。

ゴハンチョウダイ。

目が合った瞬間、塾長ちゃんはこの猫が脳に直接語りかけてきた声を感じた。


「そ、そうは言ってもですね。

私は今なんの食べ物も持ってないんですよ」


によによ口角が緩む。

意味もなしに人差し指を猫の前でゆっくりと左右。


「それに私、人を待ってるんですね」


今度は何も言ってこなかったが、変わりにしっぽがぴんと立った。


「あの〜…お忙しいところ申し訳ないんですけども、一緒に待ってくれませんか?」



猫はにゃむにゃむと毛繕い。

そして体を起こして、私を見るとひと鳴きした。ツカエネーナ。



「あ…」



するりと抜け出した茶色。


茶色の綺麗な毛並みの野良猫は何か言い残して、去っていってしまった。


「あ、机搬入するんでそこどいてくださーい!」


「あ、ごめんなさ…い」

カニ歩きで自習室用の仕切り付きの机が運ばれていった。


ふと時計を見れば、15時10分。

どうやら猫だけでなく、先生にも見放されてしまったらしい。


仕方ない、と立ち上がって沢山の広告が入った紙袋を持ち上げた。



まず向かうのは、楠の木町の西区である。



ここから1番近い。

というよりここ自体が西区。

住宅街や団地があり、なんとも静かで住みやすそうだ。


事前に調べて印刷しておいた地図を片手に、

紙袋を抱える。


「ちょっと出かけます。ハイ。」


「了解です、お気を付けて!」


若い作業員さんに指示を飛ばしていた、中年のリーダーさんに一声掛けておく。


約束、ほっぽかされちゃったなぁ。

割と急な坂を上る。

重い紙袋を抱えて。


「…よいしょ」


おじさんくさく呟いて、一歩一歩と確実に。小休憩と顔をあげれば、まだ坂の中腹ぐらいであった。


もう大人になってこんなところに注意しつつ進むなんて、ちゃんちゃらおかしい話だと思いつつ、それでも悪い運動神経。

頭をよぎった良くも悪くもない関係の両親を僅かばかりにらんだ。


が、しょうがない。

ため息ひとつ、足を進めた。


大丈夫だ。

さすがにこれだけ時間をかければ失敗することは無い。

ない胸を張ってやや得意げな気持ちで上る。


どうだ、見たか大地よ。

もう失敗を積み重ねる私では無いのだ。

しかし悲しいかな、彼女はフラグという概念を知らないのだ。


満足気に上をむく。

がっ、となにかにつまづいた。



「う、うわわわっ」



コケた。



怪我をするような派手な転び方でなかったのは、不幸中の幸いか。


しかし、安心どころか焦りが募る。


目の前を見てみれば、放り出された紙袋から大量の広告が我先にと逃走を開始。



それを呆然と見つめる、無表情の彼女。

嗚呼、印刷費。



結局いつでもどこでも、安定という言葉とは縁がないイキモノみたいだ。

どうやら、広告を配るよりも先に拾い集めることから始めなくてはいけないらしい。


はぁ、とまた出たため息。


桜の花びらがゆらゆらと揺れて、胸ポケット辺りに付着したのを振り払う気力もなかった。


そんな彼女を包み込んだ影がひとつ。


「ああ、大丈夫ですか?」


錆びまくりなくすんだ赤い自転車を、乗るでもなく手で押している。


悪びれもなく散らばったチラシを眺める男性。


「えぇ…」


彼女、塾長ちゃんこと七瀬ななせ むぎ


冷静な彼になんとも声が出なかった。



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