プリコーショナリーランディング

ミケランジェロじゅん

第1話 プロローグ

 携帯に保存してある母親から送られてきた二〇一九年九月十日付けの新聞を見ながら、会社のクルーラウンジでLA便びんのブリーフィングが始まる時間を待っている。あれから半年も経ち、世間では新型ウイルスの話題で持ちきりだと言うのに、僕はまだあの事故のことをウィキペディア等で検索している。日本でもニュース番組等で特集が組まれ大きな話題となったため、様々な動画サイトにもアップロードされていた。


 二〇一九年九月九日の羽田空港発はねだくうこうはつ香港国際航空着ほんこんこくさいくうこうちゃく便びんが香港国際空港第二滑走路だいいにかっそうろで着陸に失敗した。香港特有の突発性豪雨の影響で視界が悪い中、着陸にこころみようとした飛行機が、横滑りし北側に大きくれ、あともう少しで前からも横からも海に墜落ついらくしてしまうスレスレの芝生エリアで停止した。


 ほぼ満席だったにもかかわらず、その便は死者を一人も出さなかった奇跡のフライトと呼ばれた。


 その飛行機に僕はキャビンクルーとして乗務しており、事故を体験した張本人となった。そして不運にも客として松田奏太まつだそうた先輩も搭乗していた。


 会社が提供してくれたカウンセリングのおかげで、今では乗務できるようになったが、事故当時は一ヶ月ぐらい経っても「Evacuateイヴァキュエイト Evacuateイバキュエイト(脱出 脱出)」という機長からの緊急脱出の合図が頭の中で毎日の様にひびいていた。乗客じょうきゃく悲鳴ひめいも忘れられなかった。制服を着るのでさえ躊躇ちゅうちょし、飛行機に近づくに連れて鼓動も激しくなっていたのを覚えている。


 ただ、時間というのは魔法の様なもので、時がつにつれ、それらの合図も声もかすれていった。しかし、今でもまだ忘れられない言葉がある。


「お前、確か長瀬一樹ながせいつきか?」


 それは僕の名前を確実に知っているであろう松田奏太先輩からの言葉だった。

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