第44話

 無。

 まったくの無だった。

 妹に触れられた瞬間、イルヴィスから表情がごっそり抜け落ちてしまったのだ。



「……離れていただけますかな」



 感情を押し殺している声。疑問の形ではあるが、強い拒絶が込められている。それまでは一応でも柔らかい対応をしていたイルヴィスなだけあって、より私を驚かせた。


 その変化に取り乱していた父ですら息を呑んだというのに、妹が気づいた様子はない。相変わらず悲劇のヒロインである自分に酔っている。



「ねえ、ねえ!公爵さまだってお嫌でしょう?」

「オリビア、はしたないわ。離れなさい」

「ほぉら、自分が気に食わないことにはすぐ口を出すんだから」

「私は嬉しいですけどね。やきもちなんて、可愛らしいじゃないですか」



 妹をはがしたイルヴィスは、蕩けそうな笑みを浮かべたまま私を抱き寄せた。恐ろしい切り替えである。

 顔に熱が集まるのを感じたが、今にも飛びかかって来そうなほどの殺気を送ってくる妹の視線に冷静になる。



「……だいたい、なぜ愛称で呼び合っているのかしら!?このわたくしを差し置いて!」



 とうとう妹が、自分がイルヴィスの恋人だと信じて疑わない頭のおかしい人になってしまった。



「お姉さまはわたくしと違って美人でもないし、可愛げもないじゃない!爵位だってない!しかも婚約者ウィリアムさまにだって捨てられているんですのよ!?」



 そこまでまくし立てると、妹はわらった。

 厭味ったらしく吊り上がった目は、私に元婚約者を寝取ったと告げた日とまったく同じだ。



「そうそう、ウィリアムさまって、八年もお姉さまとお付き合いをなさっていたんですの。それなのに、わたくしが想いを告げるとすぐに受け入れてくださったのよ?でも、最近ウィリアムさまと過ごすようになって、あの人って面倒くさいって分かったわ。なにより頼りないですし、すぐに迷うんですのよ?」



 お姉さまはそんな男にすら捨てられる女だ、という声が聞こえた気がした。

 腰に回されたイルヴィスの腕に力が入ったのを感じる。


 優越感に浸るためにさんざん嫌がらせをしておいて、都合が悪くなったらすぐに現実から目を逸らす。自分の欲求に忠実で、そのためなら何でも許されるとでも思っているのか。

 手にさえ入ってしまえば、気に入らなければ、他人の気持ちも考えずに簡単に捨てる。



 憤りが激しい波のように全身に広がり、声を荒げそうになってしまったとき。

 今までどこか余裕があった空気がピリピリと緊迫したものに豹変し、背筋がぞくりとして怒りがしぼんでしまった。



「お言葉ですが、それでは、貴女はどうなのでしょう」



 そう問いかけたイルヴィスの声は冷たい。



「えっ?」

「貴女の言葉通り、ウスター侯第三令息がそれほどにつまらないお方であるなら。そんな男のために姉を押しのけてまで婚約者の座を手に入れた貴女に、どれほどの価値があるというのでしょう」



 その言葉にびくりと肩を揺らす妹。その目は大きく見開いていた。



「わ、わたくしはウィリアムさまに騙されていただけですわ!」

「おや、最近よくその言い訳を聞きますね。流行っているのでしょうか」



 イルヴィスはすっと目を細め、口元にゆるりと笑みを浮かべていた。それは一見見入ってしまうような妖艶さをまとっていたが、その目は一切笑っていない。


 ここまで冷えきった目をするイルヴィスは初めてで、今さら女性が苦手なんだと思い出す。

 なるほど、さっきも妹に触れられたから不機嫌になったのか。



「そうでなくても、婚約者を貶めるような女性は願い下げです。アメリーは彼に裏切られたとき、酔っていても褒めていましたよ。……妬ましいことに」

「っ、なによ、なによ何よ何よッ!!なんでみんな揃いも揃ってお姉さまばかり褒めるの!!ウィリアムさまも、公爵さまも、先生も使用人たちもっ!」



 とうとうイルヴィスの前でも取り繕うことをやめたのか、妹は顔を真っ赤にしてヒステリックに叫んだ。



「絶対にわたくしの方が賢いし、可愛くて綺麗で優しいのに!!未来の伯爵にこんな仕打ち許されると思っているのッ!?」

「オリビア。自分を未来の伯爵だと思うのなら、なぜそれにふさわしい行動をしないのかしら。いつも貴女は理由をつけて逃げてばかりじゃない」

「そんなの、わたくしがわざわざやらなくてもいいからよ!」

「違うわ。オリビアは本当の自分を見たくないだけよ」



 言葉に詰まった妹は肩を震わせている。

 はくはくと口を動かしていたが、紅が塗りたくられたそこから言葉が発せられることはなかった。



「何もしないうちは自分が一番だと思える。嫌なことは全部他人のせいにすれば、辛い思いもしない。そうでしょう?」

「そ、そんなことっ」

「ところで、満足したかしら。人の婚約者に手を出しておいて、もっと素敵な人を見つけたらあっさり捨てる。思い込みで公爵家にきて……本当にいろいろやってきたわね」

「うるさい、うるさいっ!このッ」



 言い繕うことを諦めた妹は、髪を振り乱しながら私に向かってくる。

 そして手を振り上げて――――



「未来の公爵夫人に手をあげるとは、いったいどういうつもりでしょうか」

「いっ!は、離してください!公爵夫人なんて、わたくしは認めませんわ!」



 イルヴィスに阻まれた。

 


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