対峙 1
自分の中に
言い伝え通りならば、淵黒の竜は地中深くに骸となって封じられ、もはや原型も留めていないはずだ。
魔物は、従来から存在する闇の気から生まれている存在ゆえ、淵黒の竜との関連性は薄いとされているが、蒼空の竜の加護を利用して境界線が設けられて以降、長らくその範囲内だけに存在し、稀に出てくるものはあれど、魔石狩りのハンター以外に、遭遇することは殆どなかった。イリユスの神殿に置かれた<
継承者がいなくなって、二十年近く。
魔物は境界線を難なく越えるようになり、町の近くでも遭遇する確率が上昇し、刻々と人々の安全が脅かされつつある。イリユスの神殿でイルギネスと
宿屋に入り、男三人とリナの部屋で別れる前に、
「リナ、魔の刻石の反応がどの辺なのか、今一度、慎重に探ってみてくれないか」
もしそれが近くなら、男が見たのはやはりダリュスカインなのかも知れない。そうでないとしても、何かしらの手を打たなければ、得体の知れない被害が広がる恐れがある。
「うん。読み解いたら、そっちのお部屋に報告しに行くわね」彼女は快諾した。
リナの返事を待つ間、啼義は愛剣の手入れに勤しんでいるイルギネスと
先ほど幻覚のような光景を見てから、心臓よりもずっと深いどこかが、それとなく疼く気配がある。それが、ともすれば自分を駆り立てようと、不思議な衝動を伴って突き動かそうとしている。
<竜の加護の何かなのか?>
それはもう、自分の意志だけではない気がした。
突然──
「大丈夫?」
リナが至近距離で覗きこんでいたので、啼義は心臓が飛び出そうなほど驚いた。
「わあっ」
あまりの動転ぶりに、今度はリナが慌てる。
「ごめんなさい。驚かそうと思ったわけじゃないの」
「い、いつの間に?」
「ノックしたらちょうど扉が開いて──イルギネスたちは、外で打ち合ってくるって」
「……」
啼義は唖然とした。二人が出て行ったことにも、リナが入ってきたことにも、全く気づいていなかった。
「反応に、変化はあったか?」
呼吸を整えて啼義が聞くと、リナはテーブルに広げられたままの地図の上、一点を指差した。カルムに入ってから手に入れた、この周辺を細かく書き込んだ地図だ。
「波動は今、ソダナより少し東あたりに感じるわ。この先に、集落がある」
啼義が、地名を口に出して読む。
「ルオ……」
やはり、真っ直ぐ自分に近づいているわけではない。それどころか──啼義はリナの顔を見た。リナが頷く。
「前から動いている気配を、ざっくりだけどこっちの地図で当てはめてみたの。波動の動きは、集落の位置をなぞっている」
その数、ルオを入れて三つ。一つがソダナだ。「これは、偶然なのか?」
偶然にしても、その一つが消滅しているとすると、あとの二つはどうなのだろう。ルオはまだ、無事なのだろうか。
リナは地図から視線を上げ、啼義を見つめた。
「ねえ啼義。集落を焼き払えるほどの炎なんて、淵黒の竜の伝説みたいだって、言ってたわよね」
見つめられて、やや高鳴る鼓動を気づかれないよう、啼義は務めて冷静にリナを見返す。
「……うん」
「私、イリユスの神殿で聞いた話で、もう一つ思い出したことがあるの」
「なに?」
「淵黒の竜は、人の魂を糧にするって。助かったあの人が見た、仲間が煙になって吸い込まれた話──もしかしたらそれは、
啼義の背中を、ひんやりと冷気が撫でた。
魔の刻石の波動と情報を照らし合わせれば、
二十年近くもの間、封じられた淵黒の竜を制御している継承者が不在の今、影響は、魔物の増加だけなのか?
最後に対峙した際の、彼の狂気めいた赤い瞳を思い出す。彼は何か、別のものに魅入られたのではないか。そして、一連の情報を集めて考えられる答えは──
<そんな
しかし、どう否定しようとしても、残念ながらその推測は核心に近づいてきているように、啼義には思えた。
「ソダナじゃなく、ルオの方へ向かうべきか?」
冷えた指先を地図に置いたまま、啼義が独り言のように呟く。
「そうした方がいいと思う」
リナが啼義に向けた眼差しには、迷いがなかった。それを受けた啼義の心からも、不思議と迷いが消えていく。
「イルギネスたちに話そう」
そこにダリュスカインがいるのか、はたまた別の何かがいるのか──しかし、どちらにしろ進まなければならないのだ。それにこれは自分の使命においても放置できる内容ではないと、本能が警告していた。
<なんだか分かんねえけど、これが竜の加護の何たらだって言うなら、従ってみるしかない>
リナが一緒に来てくれたことで、それまでどこか無理矢理に言い聞かせて成り立っていた覚悟が、いつの間にか自主的な、確固たる覚悟へと変化していた。そう、リナがいるから、前に進む勇気が湧くのだ。
「あのさ」
突然、そんな思いを伝えたい衝動に駆られたのは、こんな時だからこそなのかも知れない。啼義は自然にリナに視線を合わせていた。リナが「なに?」と彼の黒い瞳を見返す。
どう伝えたらいいだろう。啼義はちょっとの間、逡巡した。
<イルギネスみたいに、そのまま言えばいいんだ>
心の内を。
「リナ、ありがとう。どうなるか分からないけど、リナのおかげで、俺は惑わずに道を選べる。だからこれからも、力を貸して欲しい」
かえって率直すぎるほどの言葉に、リナは意表をつかれて瞬きをしたが、すぐに「もちろんよ。任せて」と、その瞳に理解を示し、微笑んだ。
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