北へ 3
アディーヌの家に戻ると、
「先日の治癒のお礼だって、肉屋の親父さんが持って来てくれたんだよ。上質のタラス肉だ」
驃が嬉々として説明する。タラスとは、水牛のような大きさの動物で、ミルファより少し内陸の、やや標高の高い山地で盛んに飼育され、流通している肉の一種だ。枕ほどの大きさの艶のある赤身が、まな板を余裕ではみ出して乗っかっている。
目の前の光景に半ば唖然としている
「タラス肉は知ってるか?」
啼義は、どこどなくおぞましげな表情を浮かべたまま、
「名前は知ってるけど……あんな大きさは、見たことがない」
「柔らかくて旨いぞ! 食べ盛りのお前にはうってつけだ」
イルギネスは笑顔で歩を進めると、手を洗って、そこにあった普通サイズの包丁を手にした。
「切り分けて近所に配るんだろう。俺がこっちを切ろう」
驃が分けた塊の一つを指差した。驃は「おう、頼む」と手を止めずに答える。
「啼義、お前も」言いかけたイルギネスが、はたと顎に手を当て、啼義を見つめた。
「ん?」啼義が、怪訝な顔で見返す。「何だよ」
するとイルギネスは少し首を傾げ、こう聞いた。
「お前、包丁を使ったことはあるか?」
それから半刻ほど、啼義は生まれて初めて包丁を握って、肉を捌くのに付き合わされた。二人の年長者たちは、驚くほど器用に包丁を使いこなしている。その手際に驚いてばかりの啼義に、イルギネスがにこやかに釘を刺した。
「これくらいは出来ておかないと、やっていけんぞ」
「う……」
どうにもたどたどしい啼義の手つきを見守る二人は楽しそうだが、本人には楽しんでいる余裕などない。今にも自分の手を切りそうな位置に刃を下ろす包丁は、剣とはまた違う恐ろしさがあった。
そんな啼義もやっと包丁の扱いに慣れてきて、まさに最後の切り分けをしているところで、リナが現れた。
「わあ。みんなで仕分けてくれたのね。ありがとう」
啼義の目は反射的に、嬉しそうなリナの笑顔に持って行かれた。その途端──
「いてっ!」
手にしていた包丁が左の人差し指を掠め、彼は痛みに顔を
「大丈夫?」
心配そうに尋ねるリナと、隣で「目を離すからだ」と口元を上げてやんわりと余所見を
「だ、大丈夫っ!」
啼義は思わず手を引っ込める。
「血が出てるじゃないか。見せてみろ」
ひょいと、横から驃がその手を掴んだ。動きを封じられた啼義の手を覗きこんだリナが、ほっと安堵の息をつく。「良かった。ちょっと切っただけね」
「うん」油断した瞬間、啼義の左手の傷を、リナの右手が包み込んだ。予期せぬ温かな感触に、啼義は思わず全身を硬直させたが、リナの意識は啼義の傷に集中していて、全く気づいていない。
そのまま、リナが小さく何かを唱えた。ふわりと小さな光が生まれ、すぐに消える。手を離したそこにはもう、出血の跡が残っているだけだ。
「このくらいは、本当になんてことないんだな」
まだ固まっている啼義の隣で、イルギネスが素直に関心している。
「確かに、これくらいの小さな傷ならある程度いくらでも治癒できるけど、さすがに限界はあるわよ」
「どのくらいの怪我まで行けるもんなんだ?」と、驃。
「そうねえ……」リナは、考えを巡らすように視線を彷徨わせた。
「相手の生命源によるところも大きいけれど、切断とかでなければ、怪我してすぐなら、後遺症が残らない程度には──でも私一人の魔力じゃ、そんな大怪我だった場合、術を施せるのは一日に一回か二回が限度ね」
「そりゃそうだな。まあ、そんなことは、そうそうないだろうが」
イルギネスが笑う。隣で、やっと緊張が解けた啼義が、自身の指をまじまじと見ながら
「一瞬でこんな……凄えや」
魔術師が攻撃術に長けていれば、やられる前に相手を撃退できるので、治癒が必要な機会は減る。ゆえに治癒については、二の次で良いという考えが一般的であることは、ミルファに来てからの周りの話で理解した。だが、ここのところ出没する魔物は、明らかに強さが増していると聞く。先手必勝が約束されない事態になれば、リナのような高い治癒力を持つ魔術師は貴重だろう。あるいは──
<ダリュスカイン>
啼義の脳裏に、眉目秀麗な金髪の魔術師の顔がよぎった。再会したとて、どのようになるか見当がつかないが、
<なに考えてんだ。そんな危険な場所に、連れて行けるわけがないだろう>
すぐに、啼義はその思考を追い出した。
自分がリナを伴えるとすれば、ダリュスカインとの決着がついたあとだ。そのためにも、この身体のうちに眠る"竜の加護"をなんとか、一日でも早く使えるようにならなければ。
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