南へ 5
一方──
ダリュスカインは祠を訪れた日の夜、不思議な夢を見た。
<どこだ?>
必死に記憶を辿り、やがて思い出した。そうだ、あれは自分が北へ山を越えて渡ってきた時に滞在した、ダムスの街だ。
<やはり、南へ渡ったのか?>
それは、記憶と執着が見せたものなのか、現実のことなのかは分からない。そのはずだが、彼の勘は、単なる夢ではないと訴えていた。そしてその朝もまた、存在し得ない右腕の先に、冷ややかな違和感を覚えたが、それはまたすぐに消えて行った。
あれが現実なら、やはり一刻も早く山を越えなければならない。何かに憑かれたように、その思いは強まった。
それから数日の間に、彼は片腕での生活を、驚くほど器用にこなすようになっていった。魔術は幾らかの助けにはなるが、各属性の気を集めて術を施すには、己の生命力から導かれる魔力も消耗する。ゆえに普段の動作は、やはり自力でできるようにしておいた方が無難だ。とは言え、それを短期間である程度こなせるようになったのは、ダリュスカインが魔術のみならず、相当の精神力の持ち主であったからに他ならない。いや、魔術とて、その精神力でここまで鍛え上げてきたのだ。
その日、宗埜は早朝から麓の集落に物資の調達へ出かけていた。食事の支度をしていた結迦が、それとなく振り返ると、奥の間ではダリュスカインが腰を下ろし、左手で
互いにすぐに目を逸らしたが、ダリュスカインが伏せた目線を再び上げると、結迦もこちらを見ていた。
少しの間、二人は黙ったままで視線を重ねた。
ふと──
「明日にでも、行こうと思う」
ダリュスカインは、落ち着いた口調で告げた。静かだが、その声に死への覚悟が乗っているのを、結迦は感じ取った。彼女は言葉もなく目を伏せると、小さく頷いた。
「母の、瞳と似ていてな」
まるで独り言のように、ダリュスカインが沈黙を破った。結迦は顔を上げる。その横顔は、見たことがないほど儚げで、何か言葉をかけたい気持ちがこみ上げて思わず口を開いたが、声は出なかった。もう、自分の声は、存在すらしていないのかも知れない。
「世話になったな」
また沈黙が降りた。
何も、できるはずがない。結迦は彼の横顔を見つめた。彼は心を決めているのだ。そして恐らく──祠を通り抜けられずに死んでもいいとすら思っているのだろう。生きていても苦しいだけならば、いつ終わらせてもいいのだと。自分がどこかで、そう思っているように。
けれど──
結迦はたまらず、ダリュスカインのそばへ駆け寄ると、彼が身を引くより早くその手をとり、両手で包んだ。その途端、波動が手のひらから伝わってくる。だがそれは、彼女が怖れる憎しみや哀しみの情念ではなく、初めて感じる──
「──!」
次の瞬間、ダリュスカインが振り払うように手を引いた。
「よせ」彼は目を逸らした。
結迦はしばし何かを訴えるようにそこに佇んでいたが、やがて深々と頭を下げると立ち上がり、さっと踵を返して部屋を出ていくと、また支度に戻った。
その姿を視界から追い出すように、ダリュスカインは背を向け、今しがた結迦が包んだ左手を見つめる。
<俺は、ここにいるわけにはいかないのだ>
自らに言い聞かせ、その温もりを砕き消すように、拳をきつく握り締めた。
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