隠し事

あべせい

隠し事



「一昨日はどこかに行かれたのでしょう?」

「あなたの知らないところ……」

「というと?」

「だから、あなたが知っても仕方ないところ……」

「と、いうと?」

「ちょっと、あなた。そんなことを言っていたら、きょうでわたしたち、終わりにするわよ」

「ごめんなさい。つい、あなたのことが知りたくて」

 30代半ばのカップル。2人は、職場で知り合って1ヵ月足らずに過ぎない。職場といっても、大手自動車メーカーの工場だから、3千人余りが働いている。

 女性は、管理部門に異動してきた佐東哲世(さとうてつよ)、男性は開発部門の技師、津島充(つしままこと)。2人の部署は、工場内の西と東、それぞれ両端に位置しているため、勤務中すれ違うことは滅多にない。構内の中央にある食堂も管理と開発では利用時間が一時間ずれていることから、顔を合わせる可能性は、まずない。

 そんな2人が、出会ってしまった。

 所は、上りの新幹線車内だった。

 2人掛けのシート。哲世が窓側の席に腰掛けていた。そこへ途中から乗車した充がやってきて、見ず知らずの哲世と並ぶことになった。

 といっても、終着の東京までは約1時間。2人は最初にちょっと顔を見合わせただけで、あとは互いに避けるように視線を外していた。

 列車が東京駅に着き、2人はそのまま別れた。

 ところが、その翌日、充が開発部でキーボードを叩いていると、脇にひとの気配がする。

 部のフロアは30畳ほどで、15名の部員が机を並べ、思い思いにパソコンをいじっている。

 充が、新人の女性がコーヒーをいれてくれたのかと思っていると、

「忘れ物です」

 聞きなれない声に、充は脇に立った人物を振り仰いだ。

「?……」

 充は、全職員に課せられている白いユニホーム姿の女性をみて、すぐに思い出せなかった。しかし、女性が手にしている物を見て、

「アッ、それは……」

 それは、「津島充様」と記された封書だった。

 しかし、どうして、目の前の女性が持っているのか……と不思議に思いながら、もう一度女性の顔を見て、ようやく思い出した。

「あなたは、昨日、隣の座席におられた……」

「そうです。あなたのシートにそれがあったので。失礼します」

 女性はそれだけ言うと、一つ仕事を片付けたといった安堵の表情をみせ、すばやく去っていった。

 彼女も同じ会社の人間だったのか。

 充は不思議な感覚に襲われた。

 しかし、どうしておれが同じ会社にいることがわかったのか。そうだ。彼女は、この中のお袋からの手紙を読んだのだ。充はようやく合点がいった。

 充は、宇都宮からの日帰り出張の帰り、出かけに届いていたお袋の手紙を列車内で読んだ。それには、彼が勤務している自動車メーカーの名前が書いてあった。

 充は、開発部を訪れた彼女に、その場で名前こそ聞かなかったが、彼女の胸の名札はしっかり頭に刻み込んでいた。

 あれから1ヶ月、デートは2度した。しかし、哲世のほうは積極的ではない。どちらでもいい、仕方ない、といった調子だ。

 このため、今夜は3度目のデートだが、冒頭のような、

「昨日はどこに行かれていたのですか?」

「あなたの知らないところ……」

 の、会話になっている。

 ここは、2人が初めて落ち合った池袋の喫茶店。駅から10数分かかるが、近くには雑貨を扱う大型店舗などがあり、人通りは多い。

 この店を選んだのは、哲世だ。

「昔、バイトをしていたことがあるの」

 と打ち明けたのは、ぎこちない会話が続かなくなって、哲世がしびれを切らしたからだった。

 以来、2度目も同じこの喫茶店で待ち合わせた。

 充は、この店が気に入ったわけではない。彼はどこでもよかった。哲世が承知してくれるのなら。

 しかし、この日、やって来るなり、哲世は、

「あなた、ほかにお店を知らないのッ」

 と、かなり険しい調子で、充に言った。

「ごめんなさい。ぼくは、大塚近辺しか知らなくて」

 充は、大塚駅から徒歩8分の、3部屋しかない、小さな小さなアパートに住んでいる。

 学生時代からだから、10数年になる。

 充が、メールでこの日の待ち合わせ場所を告げたとき、哲世から返ってきたメールは、

「いいわよ……。」

 だった。

 充は、「……」の部分が気にはなったが、彼女の癖だろうと軽く考えた。それがいけなかった。

 充は、哲世の気持ちを早くなだめなくてはと思い、

「きょうは曇り空だけれど、一昨日の祝日はいいお天気でしたね。どこかに行かれたのでしょう?」

 と言ってしまった。

「どこかに行かれました?」なら、よかったのだろうが、「どこかに行かれたのでしょう?」は、余計なお世話と言われたても仕方ない。

 哲世は一瞬、眉をぴくつかせ、

「あなたの知らないところ……」

 と返した。

 充は、それでもしつこく、

「というと?」

 と、やってしまった。

 もうデートの雰囲気ではない。

 充の悪い癖と言ってしまえば、それまでだが、これまで彼はこれで何度も失敗している。

「もう、帰りましょう」

 哲世は、しばらく沈黙が続いた後、しびれを切らしたようにそう言って立ち上がった。

「エッ……」

 フラレたッ!

 充は、好きになった女性に見限られたことを悟った。6人目だ。これでも、彼は、諦めはいいと自覚している。

 店の外に出ると、哲世は、無言で駅とは反対側のほうに歩き出した。

 充も、買い物を思いつき、哲世と同じ方向に行くつもりだったが、後をつけるようになるのがいやで、逆方向の駅のほうに歩き出す。

 あとで戻ってくればいい。充はそんな男だった。

 と、

「充ッ、どこに行くの!」

 充はびっくりして振り返る。

 哲世が、険しい声とは正反対の、男ならうっとりするような、やさしい笑みを浮かべ、10数メートルの距離から充を見つめている。

「ど、どこって……」

 充は、哲世の真意がわからず戸惑っている。

 すると、哲世は小走りで駆け寄り、

「きょうはデートでしょ。楽しまなくちゃ。ね……」

「そ、そうですね」

 充は女心がわからない。哲世と出会って、ますますその度が強くなった。


 充は、幼い頃、祖父から、

「あの子は秘密が多過ぎる……という歌が流行っていたな」

 と聞いたことを思い出した。

 メロディは忘れたが、哲世はまさにそういう女性だ、と充は考えている。

 充は、哲世に自分のことを知って欲しくて、洗いざらい私生活を打ち明けているが、哲世は話さない。話しても、おぼろげにしか言わない。

 充が哲世について知っていることと言えば、氏名と職場くらい。あとは、漠然としか……。

 例えば、住所は、西武線の「村中橋駅」。家族は、「多いわ」。年齢は「見ればわかるでしょッ」。

 充はもっと詳しく知りたい。当然の欲求だが、哲世にはそれが理解できない。

「わたしのこと、知ってどうするの。結婚するわけじゃないし……」

「結婚したら?」

「わたしと? 後悔するわよ」

「結婚が前提のつきあいなら、きみのことを知りたいぼくの気持ちはわかるでしょ?」

「だから、結婚したら、いやでも互いのことはわかるじゃない。だから、いまは知らないほうがいいの」

 いつも、こんな会話で誤魔化されてしまうのだ。

 充は考えた。哲世から直接知ることができないのなら、彼女の周辺から聞き出せばいい、と。

 哲世の友人はどうか。しかし、充は彼女が親しくしている女性を知らない。彼女はふだん、どんな生活をしているのか。

 3度目のデートから3日後の、この夜。

 充は哲世に送るメールを書いている。

 彼は、哲世を知ってから、送ることもないメールを書き溜める癖がある。癖というより、楽しみだ。いつか、送るときが来れば、と。異なった状況を頭に描いて、さまざまなトーンのメールを書いている。中には、つい興奮して過激になったものもあり、楽しんでいるに過ぎないのだが……。

 と、ドアを叩く音が。

 時計を見ると、午後7時34分。こんな時間に訪ねてくるのは、下の大家さん以外にない。このアパートは、10年前、2階だけリフォームして、アパートにしたと充は聞いていた。

「いま、いきます」

 充は、ひとのよい、年齢からはとても考えられない、色気と気品を備えた夫人の顔を思い浮かべた。

「お待たせッ!」

 充は勢いよく、薄い引き戸を開けた。それはいつものことだったが、

「あっ」

「アッ」

 最初は哲世の、続いて充の反応だった。

「哲世さん、どうされたンですか」

「とにかく、中に入れて」

「はい、どうぞ」

 中といっても、六畳一間だ。台所もトイレもない。洗濯は外の廊下沿いにある幅一メートルほどの共同流しですます。

 トイレも勿論共同。ただ、トイレを含め、共同設備についての清掃は、すべて大家さんがやってくれる。

 充の部屋は、調度としては冷蔵庫と机、茶箪笥だけ。収納設備はほかに、押入れ、半間のクローゼットがある。

 といっても、家自体が築三十年以上の代物だから、備え付けの押入れやクローゼットは、ベニヤ板が所々欠けるなどして、開け閉めがままならない。

 ところが、哲世の第一声は、

「意外と広いのね」

 だった。

 そんなことを言われるのは初めてだったが、充は哲世のことがますますわからなくなった。

 もうすぐ夜の8時。こんな時刻に、哲世のような美形の女が、男の独り住まいを訪ねる。哲世はそんな軽薄な女か。それとも、相手が充だから……。

 それはありえない。手も握らせない男に、心も体も許すわけがない。

「もう少し広いところに越したいのですが……」

「なに贅沢言ってるの。これで充分じゃない」

 哲世は、ちゃぶ台代わりの小さなテーブルの前に腰を降ろし、六畳の壁をゆっくり見回している。

「何か、飲み物はないの?」

 充は哲世に言われて、客用の湯吞みもコップもないことに気がついた。

「ちょっとコンビニに行ってきます。コーヒーでいいですか?」

 すると哲世は、充を見つめて、

「わたし、ここに越して来てもいい?」

 充は、絶句した。

 すぐには何と答えていいのか、わからない。勿論「OK!」なのだが、突然過ぎて、哲世の真意がつかめない。 

「ダメなの。そうよね。わたしのような女、ダメよね」

 哲世は、呆気にとられている充を前に、しょんぼりとなった。

「わたし、帰る。ごめんね。こんな時間に来て……」

 哲世はそう言うと、力なく立ち上がる。

「哲世さんッ。待ってください。ぼくには突然過ぎて。どう返事していいのか、何も思いつかないのです。ぼくの返事は、『いい、いい』文句なしに、オッケーですよ!」

 充は、頭一つ分もない至近距離から、哲世に言った。


 3ヵ月がたった。

 哲世と充の生活は、思いの外順調に運んでいる。

 2人一緒にアパートを出て、同じ電車に乗り、1度乗り換え、会社の最寄り駅で下車。そこから職場まではさすがに肩を並べるわけにはいかず、充が少し前を歩く。

 哲世は会社にバレてもいい、と言ったが、充が嫌がった。

 退社時刻が同じ日は、最寄り駅で待ち合わせ、途中食事をして帰ることがふつうになった。

 退社が異なる日は、早く帰宅したほうが夕食の仕度をする。仕度といっても、炊事場は共同だから、手の込んだ料理は作れない。スーパーで買ってきた惣菜に、味噌汁を添えるくらい。ご飯だけは電気炊飯器で2人分を炊いた。漬物を入れてどうにか一汁三菜。

 それでも、哲世も充も不満はなかった。

 哲世はそれまで、車で20分ほどの、私鉄沿線沿いのアパートに暮らしていた。充のアパートに移ったとき、自分のアパートはそのままにしていたのだが、充は、アパート2部屋分の家賃を払う代わりに、別に部屋を借りようと提案した。哲世に、異存はなかった。

 ところが、そんなある夜。

 近くの銭湯で入浴をすませ、布団に体を入れて一緒にテレビを見ていると、かすかに声がする。外の路上からのようで、充は妙に気になった。

 すると、哲世が急に布団から出て、ガウンを羽織ると、

「ちょっと、待ってて……」

 と言い、充を見ることもなく、そっと部屋を出た。

 充にとっては、初めて見る哲世の姿だった。つらそうで、哀しそう。体がひとまわり小さくなったように見えた。

 時計を見ると、11時近い。こんな時刻に、どんな用事があるンだ。充は、そう詰問しなかった自分は、何なのか、と思った。

 哲世を困らせたくないと考えたのか。単に、これから起きることが怖くなったのか。

 そして、かすかに聞こえた声が、

「テツヨ……」

 だったことに気がついた。

 そうかッ。そういうことか。

 そのとき充は、哲世がたまらなくいじらしくなった。あいつは、離しちゃ、いけない。かけがえのない大切な女だ、と。

 5分か、10分、たったろうか。実際よりもっともっと長く感じられた。

 哲世は隠れるように戻ってきて、黙って元の布団のなかにもぐりこんだ。

 充は黙っていた。ここで尋ねるのは、哲世を苦しめるだけだ。

 充は、哲世の過去を知りたいと思わなくなった。そんなことを知ってどうする。例え知ったとしても、どうすることもできない。充にも、触れて欲しくない過去はいくらもある。

「充、もうケリをつけてきたから」

 哲世は、充に背中を向けたまま、ささやくようにそっと言った。

 充は、路上で、深夜、ガウンを着たまま、哲世が前の男に別離を告げている姿を想像して、胸が痛くなった。おれは、哲世をその男から奪ったのだろうか。

「合いカギを返してもらったから」

 カレは、哲世のアパートのカギを持っていた。2人は、そういう間柄だった。当然だろう。哲世ほどの女だ。しかし、何かの事情で、2人は一緒に暮らすことができないまま、きょうまできた。

 充は、哲世という女の過去に触れ、哲世がいっそういじらしくなった。もういい。黙っていていい。過去を告白して、どうなる。

 おれたちの生活は、これから始まる。互いの過去は、砂時計の砂が、落ちるように少しづつ、自然に明かされていく。それでいい。例え、明かされなくても、なんの支障もない。

 だから、哲世、黙っていてくれ……。

 充は、小さくなった哲世の背中に、そっと手を触れた。

 哲世が寝返りを打って、充に向き直った。

 充は、はにかんだ哲世の頬に、やさしくキスをした。

                 (了)

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隠し事 あべせい @abesei

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