第3話

 翌日の夜。

 その日パパは、引越しの片づけを終わらせてしまう為と言う名目で、いつもよりも早く、お仕事から帰って来た。予め示し合わせていたんだろう、ほぼ同じ時間に帰って来た美沙希と二人で、残っていた段ボール箱を次々と開けていった。

「邪魔にならないように、どこかで遊んでな」

 作業開始前に、パパより戦力外通告を受けていた私は、大人しくソファの定位置を陣取り、段ボールが壊されていく様を粛々と眺めていた。残っていた段ボールの数も少なかった為か、掃討戦は見事、パパと美沙希の軍の勝利で幕を閉じる。

「ヒメ、大人しくしてて偉かったぞ」

 何もしていない事を褒められると言うのは不思議な気分だ。

 そして今、私はその褒美として、お風呂上がりのパパの膝の上でくしくしと頭を撫でて貰うと言う、至福極まりない時間を過ごしていた。

 ――うにゃぁ~、気持ちい~、幸せ~。

 身も心もとろけるような夢見心地とはまさにこの事だ。

「たっだいま~!」

 その穏やかな空気に薄いひびが入る。

 ひびの主、ソラは、外から帰って来るや否や、そのままキッチンで調理をしている美沙希の元へと飛んで行った。

「ママ! ママ! ただいま、ママ! ねぇねぇ、腹減ったよ~!」

 早々に食事をねだるソラ。

「ソラ、ちょっと待ってったら!」

 困ったような美沙希の声が、キッチンから漏れ出て来た。

 ――何やってんだか……。

「ねぇママ! 腹減ったったら~!」

 ソラの声が執拗に美沙希を追いつめる。

 ――ったく、仕方ないなぁ。

 五月蠅くて仕方が無い為、不本意ではあるが、パパの膝を降りてキッチンへと向かう事にした。

「もう満足したのかい?」

 パパの声に、思わず後ろ髪を引かれる。

「違うのよパパ、またすぐに戻って来るから、ちょっとだけ待っててね」

 一刻も早く事態を収拾させるべく、私は小走りでキッチンへと向かった。

「ちょっとソラ、少し黙りなさいよ」

 ピーピーと喚き続けていた腹減り小僧に声をかける。

「おう、ヒメ、ただいま」

「ただいまじゃないわよ。お腹空いてるのは分かるけど、美沙希の邪魔してたら、それこそご飯遅くなっちゃうわよ?」

 彼の行っている行為の愚かさを説いてやる。

「どうした、お前頭ボッサボサだぞ? 何があったんだ?」

「うるっさいわね! それはどうでもいいでしょ!」

 パパの頭撫で撫で攻撃は、その気持ち良さとは裏腹に、撫でられた部分の毛がぐしゃぐしゃになってしまうのだ。女の子としては勿論気にならない訳では無いが、あの心地よさの代償だと思えば、安いものである。

 寧ろ、パパの手によって作られたこのスタイルこそが、一つの完成形だとすら思える程だ。

 いや、きっとそうに違い無いのだ!

「そんな事より、大人しく待ってた方が、結果的には早くご飯にありつけると思うわよ」

「ちぇ、しょうがねぇなぁ」

 説得の甲斐あって、「じゃあママ、急いでね、お願いだよ」と言う捨て台詞を残して、ソラはキッチンを出て居間へと向かって行った。

「ヒメちゃんのお陰なのかな? ありがとね」

 私に目線を合わせる為に、美沙希は膝をかがめた。

 ――別に、あんたの為にやった訳じゃないわよ。

 ただ、五月蠅くてしょうが無かったから、仕方なく、仕方なくなのだ。

「それにしても、ヒメちゃん頭ボサボサね。幸一ったら、撫でるの下手なんだから」

 美沙希が微笑みながら、私の頭に手を触れようとしたので、咄嗟に後ずさり、彼女と距離を取った。

 ――触らないでよ……。

 例えボサボサの頭だったとしても、パパに撫でて貰ったままが、このままがいいのだ。

 そう、これはこれで、一つの完成形なのだから。

 それに……、

 ――それにあんたには、触ってほしくないの……。

 私が距離を取った事には頓着せずに、美沙希は、「すぐにご飯にするから、待っててね」と、くすりと笑った。

 何を隠そう、私のお腹の中も充分ガラガラだった。

「……早くしてね」

 それだけ言い残して、再び居間へと戻った私の目に、とんでもない光景が飛び込んで来た。

 パパの膝の上に、先程まで私がいた場所に、ソラがいるのだ。あまつさえ、パパの撫で撫で攻撃を受けて、目を細めてすらいるではないか。

「ちょっと! 何やってんのよ!」

 当然の如く抗議をする。

「おう、これヤバいな。これならボサボサになるのも仕方ないって感じだな」

 ――のたまいおってからに!

「降りなさいよ、そこは私の指定席なんだから!」

 不法侵入を許してなるものか。ソラをパパの膝からどかそうと思い、手を伸ばした時に、再び私は、パパの撫で撫で攻撃を食らってしまった。

 ――はふぅ~、気持ちいい~。

 怒りの風船が萎んでいく。

「ご飯出来たわよ~」

 居間に戻って来た美沙希が、私達を見て笑った。

「あら、皆して仲良しさんね」

 違う違う、全然そんなんじゃないのだ。パパと私は仲良しだけど、こいつはそんなんじゃないのだ!

 だけど、身体はパパの手によって齎される快楽に溺れてしまう。

「さぁ、ご飯食べようか」

 パパの撫で撫で攻撃がそこで止んだ。ソラはすぐに、「そうだった! メシメシ~」と言ってパパの膝を降りていったのだが、私はなんだが、まだパパの膝を離れたく無かった。

 この膝も、パパの手も、撫で撫で攻撃も、全部全部、私だけのものだったはずなのに……。

 心の内のモヤモヤが、じわりと、膨らんで行く気がした。


 そしてある日、風船は割れる。

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