ヒメゴコロ

泣村健汰

第1話

「ほらヒメ、ここが新しいお家だぞ。今日からここに住むんだ」

 そう言うとパパは、私の頭をそっと撫でた。ニコニコとした笑顔を向けられると、文句を言う気も失せてしまう。

 住み慣れたアパートを離れるのは寂しかったけど、それはしょうがない。だけど、一番の問題は他にある。私と、パパ以外の部分に問題がある。

「幸一、ちょっといいかしら?」

「ああ、今行くよ」

 あの女がパパを呼んだ。パパは、「今日は忙しくなるから、邪魔にならないようにしててくれよ」と私に告げると、ほいほいとあの女の元へと行ってしまった。

 面白い訳が無い。

 ――何よ、何よ、何よ……。

 苛立ち紛れに、新居の中を歩く。沢山の段ボールが、各部屋の至る所に並べられている。パパの字が書かれた段ボール。あの女の字が書かれた段ボール。

 今日からここで暮らす。あの女と一緒に……。

 薄ら寒い気がした。

「いよっす!」

 その時、不意に後ろから声を掛けられた。

 振り向くと、私と同い年位の男の子が居た。


 パパがあの女、美沙希を初めて家に連れて来た時から、何か嫌な予感がしていたのだ。

「あら、可愛い。こんにちは」

 初対面の時、人の良さそうな笑顔を顔に張りつかせて、私のご機嫌を取ろうとしていた美沙希。そんな手には乗らない。私はその挨拶を無視して、部屋の隅で蹲る事を決めた。

「嫌われちゃったかな?」

「そんな事無いよ。初めての人にはいっつもああだから、すぐ慣れるよ」

「あの子、名前は?」

「ヒメ」

「ヒメちゃんか、可愛い名前ね」

 ――あんたに褒められても、嬉しくもなんともないわよ。

 一緒の部屋にいるのも気が詰まる。私はその日、抗議の意味も込めて、早々とベッドの中に潜り込み、不貞寝を決め込んだのだ。

 それからと言うもの、美沙希は図々しくも、時折我が家へと足を踏み入れるようになった。すぐに帰る時もあれば、ずっといすわる時もある。そしてその頻度が段々と増して来たある夜、パパに抱きしめられながら告げられた。

「今度、美沙希さんと一緒に住む事になったんだ」

 ――嫌だなぁ……。

「だから、もうすぐこのアパートともお別れだ」

 ――すっごい嫌だなぁ……。

「新しいお家は、ここよりももっと広いんだぞ」

 ――でもパパ、すっごい嬉しそう……。

「楽しみだな、ヒメ」

 パパの手が私の頭を優しく撫でる。その手はいつものように、とても温かくて、とても気持ちがいい。だけど、もうこの温かな手は、私だけのものじゃ無いんだ。きっとパパはこの手で、美沙希の頭も撫でているんだ。そう思うと、今までパパに撫でられる度に感じていた幸せな気持ちが、温もりを感じる度に溜まっていった幸せな気持ちが、まるで風船に穴が空いたように、するすると萎んでいくのを感じた。

 それはもう、二カ月も前の話になる……。


「いよっす!」

 彼は私の顔を見ると、もう一度同じ調子で声を出した。

「何、あんた?」

「何って事はないだろ? 俺の事聞いて無いの?」

「全然」

「あれ? マジで?」

「ってか、あんた何なの?」

「俺? 俺はソラ」

「名前なんかどうだっていいわよ」

「あんたはヒメだろ?」

「だから何よ?」

「ママが、可愛い子と一緒よ、ヒメちゃんって言うのよ~、って言ってたから」

 話が見えない。

「でも、実際そんなに可愛くねぇな。ちょっとがっかりした」

 瞬間、私はそいつに跳びかかった。条件反射のように、奴が後ろに、文字通り逃げるように跳ぶ。

 ――ちっ、素早い!

「あっぶねぇ! 何だよ急に!」

 攻撃はかわされたが、そのまま怒鳴りつけてやる。

「誰が可愛く無いって言うのよ! パパだって、ヒメは可愛い可愛いっていっつも言ってくれるんだから! 大体ね、いきなり出て来て、人の事可愛く無いだのなんだのって、失礼にも程があるわよ!」

「まぁ、ちょっと落ち着けって」

「問答無用!」

 再び跳びかかると、奴は器用にも横に跳ねて私の攻撃をかわした。

 私はと言えば、勢い余ってそのまま後ろにあった段ボールにぶつかってしまった。

「何の音?」

 私達の声を聞きつけたのだろう、美沙希が部屋の中へ飛び込んで来たが、はっきり言ってお呼びじゃない。

「ママ、こいつなんとかしてよ!」

 奴が美沙希に助けを求める。

 ――ママ? 美沙希が?

 その時、美沙希の後ろからパパが顔を出した。一瞬だけ困ったような顔をした後、パパは私を抱き抱えた。

「どうしたヒメ~。喧嘩してたのか?」

 優しい声が響く。私はそこで、漸く少し冷静になった。

「ソラ、喧嘩しちゃ駄目じゃ無い」

 美沙希があいつの頭を撫でる。

「ママ、俺何にもしてないよ? あいつがいきなり飛びかかって来たんだよ」

 その言葉にまたむかっ腹が立ったが、パパによる頭撫で撫で攻撃を受ける事によって、私は何とか落ち着きを取り戻す事に成功していた。よって、再び跳びかかるような事はしない。ありがたく思って欲しいもんだ。

「こんな風に、暴れる子じゃ無いんだけどなぁ」

 パパが私の頭を撫でながら、若干驚いたように言った。

「慣れるまでは、ちょっと心配ね。怪我でもしなきゃいいんだけど」

「まぁ、大丈夫だろ。一緒に暮らしてたら、すぐに慣れるって」

 頭上で行われる会話を無視して、私はあいつを睨みつけた。

「まぁ、これから仲良く頼むぜ、ヒメ」

 さっきまでのやり取りなんて無かったかのように、あっけらかんと言葉を放ってくる。

「真っ平御免よ!」

 哀しいかな、こいつと一つ屋根の下で過ごす事は、決定事項らしい……。

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