第137話 刻み付ける

 クライマックスシリーズが始まったが、直史は色々とやることがある。

 母がアメリカに行っているので、実家の方に顔を出したりもした。

 そして来年の渡米に関して、大丈夫なのかと心配されたりもする。

 それを言うなら東京の方が実家よりも治安は悪いだろうし、実家周りでも猪だのに怪我を負わされたり、大雨の川で流されたりもする。

 世界にはどこにでも死は転がっていて、あとはそれをどうやって避けていくかだ。


 老いた人々や、病による死とは違う。

 直史も人によって殺されるというのは、しかもそれが自分より年下の人間だけあって、ショックは受けていた。

 ただアメリカに行くのは、大介との約束だ。

 セイバーも危険が出来るだけ少ないよう、場所は選んでくれている。


 本当ならば、瑞希は両親や知り合いの多い、日本にいた方がいいのかもしれない。

 真琴のためを思っても、そちらの方がいいのではと思うのだ。

「でも寂しいでしょ?」

「多分」

 妻と娘を置いた単身赴任で、アメリカに二月から10月まで駐留。

 知り合いの顔も少ないだろうし、ちょっと、いやかなり、一人でいるのは寂しい。

 ただ自分は仕事として野球をするからいいとして、瑞希はどうするのか。

「今はネットがあれば仕事はどこででも出来るから」

 アナハイムはロサンゼルスから近い都市であり、ロスまで出れば日本人も多い。

 その間に色々と依頼されていた、執筆活動などもしようという話だ。


 瑞希は直史にとって、半身のような存在である。

 だが二人の間に生まれた子供のことを考えると、単純に二人で一緒にいようという話にはならない。

 そもそもMLBまで行くというのは、当初の予定にはなかったのだ。

 大介にしても直史とは、日本で勝負をするはずであった。


 色々なことが複雑に絡み合い、そして結果は思いもよらないものとなる。

 今年はアメリカを、大介とイリヤが揺るがした年になるのかもしれない。

 どちらも影響力は巨大だが、イリヤはまだどこかに生きている気がしてしまう。

 もう電話もネットもつながらないのに、それでもどこかにいるような。

 考えてみれば彼女は、生前からそんな存在であった。

 思えばモーツァルトもジョン・レノンも死してなおその影響力は大きい。

 イリヤもまた、そういった存在なのだろう。

 彼女の墓には多くの人々が花束を供えているという。

 多くの人々から信奉される人間だったのだ。


 ただ死者はともかく、生きている人間はどうにかしないといけない。

 一応は桜のほうはもう退院できたが、椿のほうは左足に麻痺が残り、左腕もギプスをはめたままだという。

 腕のほうは再建手術が上手くいったが、足のほうはリハビリがいるという。

 事件はまだ引き続き、椿の体に爪痕を残している。




 直史はこの間に、またセイバーと会っていた。

 イリヤの死は彼女にとっても衝撃的だったらしい。

 おおよそのことは金で解決出来るという哲学を持っている彼女だが、金では絶対に購えないものがあるのも知っている。

 まさかイリヤが死ぬとは思っていなかった、と彼女は確かにショックを受けていた。 

 憎まれっ子世にはばかる。

 イリヤは憎まれる以上に信奉された存在であったが、それでも彼女を守る力が全てではないのだ。


 世界で一番自由な街を歩いていて、そしてイリヤは死んだ。

 セイバーはそういうわけで、直史の心配をちゃんと理解している。

「セキュリティはしっかりとしています。またSPもつけましょう」

 アナハイムは銃を装備したSPが普通に雇える。

 これは直史と球団との契約とは別に、セイバーが手配するという。


 イリヤも仕事中などは、過激なファンから身を守るために、普通にガードはいたのだ。

 それが完全にオフの状態であったため、あんなことになった。

 かなり窮屈かもしれないが、瑞希や真琴にはガードをつける。

 もちろん自分にも。


 生前のイリヤは、普通に銃規制派であった。

 それが銃の規制にうるさいニューヨークで殺されたことで、またアメリカ社会では活発な議論が行われているという。

 少なくとも免許のシステムなどが厳しくなるのでは、とは言われている。

 死亡した犯人も、ニューヨークの外で手に入れた銃を使っていたのだ。


 なんだかんだ言いながら、日本は平和な国である。

 だがアメリカも住む場所さえちゃんと選べば、極端に危険なところは限られている。

 イリヤのようなことは二度と起こさせない。

 それはセイバーにも共通した認識のようだ。




 セイバーとしてはこのあたりで、直史に打ち明けておくことがあった。

 大介を東海岸のチームに送ったが、イリヤがいなくなった今、ツインズの居場所は別にニューヨークでなくてもいいのだ。

 メトロズと大介の契約は二年。

 常識的に考えれば、メトロズは大介との契約を望むだろう。

 あとはサラリーの問題だ。

 大介の初年度の成績からして、二年目は1800万ドルの契約を結ぶのは間違いない。

 それでも今年の成績から見れば格安だ。


 セイバーの決めたチームによると、直史が大介との決戦を行うには、ワールドシリーズに進出しなければいけない。

 だがより何度も戦いたいなら、大介は二年目の契約の後、同じ地区にFAで移籍してくる必要がある。

 NPB時代のように、セ・リーグで何度も対戦したいなら、ヒューストンあたりがいいだろうか。

 だが全てはチームの財政事情にもよる。


 違うリーグの同じ地区か中地区でも、そこそこ試合はある。

 ワールドシリーズでも対決したいなら、そちらのチームを選んでもいい。

 もっとも、野球は団体競技。

 直史が一人で30勝しても、他が負ければ意味がない。

 NPBの日本シリーズの時のような無茶を、果たしてMLBでも出来るものか。

 

 そのあたりの選択は、大介がすることだ。

 直史はアナハイムで三年間、勝ち続ける。

 それが大介との約束なのだ。

(あいつも、見たかったのかもしれないな)

 またここでも、イリヤのことを思い出す。

 MLBにおける直史のピッチング。

 そこから彼女がどういう音楽を生み出すのか。

 それは確かに、考えてみても興味が湧く。


 失われてしまったものは、時間が経過するごとに、むしろその大きさが分かってくる。

 MLBでの二人の対決を見たとき、いったい何が起こるのか。

 彼女が何を生み出したのか、もう永遠に分からなくなってしまった。




 クライマックスシリーズのファーストステージは、ライガースが有利に試合を進めている。

 フェニックスは11年ぶりのクライマックスシリーズで、短期決戦の戦い方を忘れている選手が多い。

 竹中のようなキャッチャーがいるので、安定して数字を残してはいるが、統計的な戦い方しか出来ないのだ。

 甲子園を思い出せば、勝てそうなものである。

 だがあの夏を思い出すのは、なかなかに難しいだろう。

 竹中もまた、全国制覇をしたメンバーの一人であるはずだが。


 直史はわざわざ甲子園までは行かず、自宅のテレビで試合を見ている。

 ライガースはやはりピッチャーもバッターも、全体的にフェニックスを上回る。

 それでも健闘しているのは、やはりキャッチャーの差であろうか。

 今年のライガースは、ほぼスタメンでマスクを被っていたのは孝司だが、おそらく全体的に守備面で竹中の方が上なのだ。

 打てるキャッチャーとしては、孝司の方が上であろう。

 だがこの短期決戦ではキャッチャーが、どれだけ守備を統括しているかが、重要になってくる。


 ライガースとの対戦は、はっきり言ってある程度の成算が立ってある。

 伊達に年間、25試合も対戦しているわけではない。

 全体的に勝ち越しているし、特に終盤の九月に入ってからは、一度も負けていない。

(先に二勝した方が勝てるわけだから、ライガースは有利か)

 真田と山田に、阿部なども先発の三本の柱となり、リリーフ陣も優勢のライガースが勝つだろう。

 そしてそのライガース相手でも、レックスは勝てると思う。


 大介がいないのだ。

 そしてこちらも怪我人さえ出なければ、去年よりも充実した戦力で戦える。

 それよりはむしろ、日本シリーズの相手の方が重要だ。

 福岡が一位、二位が埼玉で三位が千葉。

 今年の交流戦、レックスは全てのチームに勝ち越している。

 ただデータが少ないのは、確かなことなのだ。もっとも試合のデータについては、スコアラーに分析班が確認している。


 一点もやらなければいい。

 感覚は戻ってきているから、ライガースの試合で一度投げれば、おそらく充分なところまで回復するだろう。

 日本においては最後になるであろう試合。

 四連勝で終わればいいが、さすがにそれは難しいだろう。


 コンコルズは今年、シーズンの中で選手を育ててきたという印象が強い。

 また二軍から上がってきた選手もいるし、そもそも直史は対戦していない。

 ジャガースならばまだ、去年も対戦しただけに分かりやすい。

 ただ戦力の移動を考えれば、やはりコンコルズが上がってくるのが妥当だろう。




 瑞希は試合の方はさほど興味がないらしく、それでもリビングのテーブルに座って、パソコンをぽちぽちと叩いていた。

 今はまだ弁護士事務所の方で、仕事をこなしているのだ。

 来年はアメリカに行くので、そのあたりも考えないといけない。

 アナハイムは治安はいいが、それでもアメリカだ。

 イリヤのことを忘れることなど、絶対にできないだろう。


 クライマックスシリーズも日本シリーズも、直史には絶対に勝とうという気持ちはない。

 去年までのように、大介に必ず勝って、そして最強を証明しようという、モチベーションが欠けているのだ。

 既に気になっているのは、どういう条件でアナハイムに移籍するのかということ。

 ただセイバーが、日本シリーズで必ず優勝するように、と言っていたことが気になる。


 直史の去年と今年の成績を見せれば、どれぐらいの条件になるかは分かるだろう。

 大学時代を通じても圧倒的な成績で、プロ入り後も何度パーフェクトを達成したことか。

 特に去年の日本シリーズ最終戦、連投で完全にあちらの打線を封じた。

 直史はごく普通に金銭欲のある俗物ではあるので、出来るだけいい契約がほしい。

 ただし単純な金銭よりも、待遇などの方が重要だ。


 そのあたりを考えて、セイバーはアナハイムと下交渉を終えている。

 過去の日本人ピッチャーと比べても、直史の活躍度合いは比べ物にならない。

 それでいて単純な年俸ではなく、インセンティブをつけていくのだ。

(せめてあと一年……)

 アメリカで自分が投げて、大介と対決する。

 その姿を、見せてやりたかった。


 何かがあるごとに、つい思い出してしまう。

 生きている間は忘れていたのに、死んでからの方が思い出すことは多い。

 これが彼女の影響力というものなのか。

 生きていても死んでしまっても、その影響力だけはなお残っている。


 とてつもなく厄介な、直史のファン。

 面倒だとは思っていたし、今でも色々と面倒を残している。

 それでも憎めないと思うのは、やはりあの季節を共有したからか。


 去年の夏の甲子園でも、イリヤの作った応援曲は流れていた。

 作曲者が死んでしまって、その遺産はより大きなものになっている。

 おかしな話だが多くのミュージシャンが、彼女の曲のカバーをした。

 それは日本のミュージシャンも例外ではない。


 いまいち集中しきれないまま、観戦を終えた。

 初戦はライガースが勝利して、ファイナルステージへとあと一勝となった。




 ライガースは今年こそ優勝を狙っている。

 いや、今年は優勝しなければ、大介がいないと勝てないと言われるのか。

 もっともMLBでさえ無茶苦茶な記録を残した大介が抜けたのに、今年もライガースはペナントレースを二位で終了。

 そしてクライマックスシリーズの初戦も、真田の七回一失点の好投があり、無難に白星スタートとなった。


 大介はMLBで成功したため、日本に戻ってくるのは遠い先の話になるだろう。

 あるいは日本には戻らず、そのままMLBで引退する可能性すらある。

 もう一度大介と対戦したいと思っていた真田だが、その機会はどこにもありそうにない。

 

 MLBの公式球には、真田の手は合わないのだ。

 なんとか克服できないかと思ったが、わずかに大きく重く、そして滑りやすい。

 無理にこれで投げていたら、肘などに大きな負担がかかるだろう。

 もちろん肩にもだ。

 真田はここまで、完全に故障なくこれたわけではない。

 高校時代にも小さな故障はあり、プロ入りしてからも三年目は長期離脱し、復帰してからもリリーフが主であった。


 共に戦うことも、対戦することもない。

 ならばせめて、もう一人の宿敵には勝利したい。


 直史に勝ちたい。

 高校時代からずっと数えても、真田は直史に一度も勝てていない。

 チームを勝たせることがエースだと、真田は思っている。

 直史はその意味では、最もエースということばに相応しい存在だ。


 プロに入って二年、なぜ一度も負けないのか。

 スペック的に高くても、実際はバイオリズムの変調などで、ピッチャーはパフォーマンスを存分に発揮できないことがある。

 上杉でさえ何度かは、負けることが普通であった。もっとも上杉は無茶なペースで投げていたが。

 ただ今年の直史は、シーズン中盤からは、その上杉並のペースで投げていたのだ。

 それでいてやはり一つも負けていない。


 パワーではなくテクニックとコントロール。

 それは直史についてよく言われる特徴だ。

 だがこのコントロールとは、コンディションのコントロールや、メンタルコントロールのことも示すのではないか。

 とにかく直史に一勝でもしないことには、真田の執着が消えることはない。

 もっとも直史に勝つには、まず味方に点を取ってもらう必要があるのだが。


 シーズン中に直史は、三失点している。

 とはいえ一点は自責点ではないので、防御率はとんでもないことになっている。

 10試合以上を完投して、ようやく一点を取られるかどうか。

 これをどうにかするには、特定のバッターだけに頼るわけにもいかない。

 去年の場合はプレイオフでは、大介でさえ直史からヒットを一本打っただけ。

 せめてどうにか引き分ければ。


 野球はチームスポーツだと、無援護だと痛感する。

 もっともライガースの場合は、そういったことはほとんどないが。

 その直史に限れば、無援護が多い。

 他のチームにしても、ほとんどまともに直史は打てないのだが。

(絶対に、あれを超える)

 そう真田は思っているが、そもそも直史を超えるというのはなんなのか。

 上杉に対したよりも、大きな敵意を、直史には感じてしまう。

 いつかこの甲子園球場で、直史に勝ったとき、ようやくこのもやもやは消えるのではないか。

 真田はそう思っているのだが、実はそんな機会はもう二度とないとは、さすがに想像もしていなかった。

 真田だけではなく多くの人間が驚く、直史のMLB移籍。

 それはまだこの時点では、実はレックスの現場首脳陣でさえほとんど知らないこと。

 レックスフロントも、どうにか防げないかなと、思っていたりする。

 もっともそれを止めるだけの理由はない。直史は金でも義理人情でもあまり動かず、ただ約束だけには縛られるものだから。

 一方的に直史だけが知っている、真田との最後の対決。

 それはもう目の前に迫ってきていた。

 いやもちろん、まだライガースのクライマックスシリーズのファイナルステージ進出は決まっていないのだが。

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