第120話 最後の機会
マリスタの直史が用意した座席に、祖父母が座っている。
それだけではなく両親もそろっている。
なんだかんだと言いながら、なかなか直史の試合を直接は見に来ない。
だがマリスタで投げるのは、マリンズが日本シリーズに進出し、レックスと当たる以外にはもうない。
それが分かっている直史は、強いるでもなく自然と誘い、それに祖父母も頷いた。
おそらくこれが直史がこのスタジアムで投げる最後の試合になる。
日本シリーズまで進むのは、おそらくコンコルズかジャガースだからだ。
樋口もそう分析しているので、おそらく間違いはないだろう。
直史は自慢の孫である。
孫は他にも可愛いものが色々いるし、曾孫はさらに可愛いものだが、誇らしいと思えるのはやはり直史だ。
佐藤家の長としての役割を、既に果たしているような気さえする。
土地を、畑を、山を守る。代々続く家を守る。
時代錯誤と言われ様と、それを気にする直史ではない。
そのために生きているとさえ思える直史が、わがままらしきことを言ったのは、自らの娘のためのみ。
この国の国体が続く限り、その名を記されるであろう孫よ。
三万人の大観衆に加えて、テレビの向こうでもどれぐらいの人間が、この孫の一挙手一投足に注目しているものか。
佐藤家の誇りと言うよりは、もはや郷土の誇りである。
まさにその一身に備わった力でもって、日本中にその名を知らしめた。
賢く、強く、優しく、正義の天秤を司る我が誇りよ。
海の彼方まで駆けて、その名を知らしめてこい。
初回に二点を取られた時点で、鬼塚はもう勝つことは諦めていた。
あとはどう負けるかだ。
そして、どう挑むかだ。
プロというものは、勝つだけではいけない。
そして負けても、見せ方というものがあるのだ。
一回の裏、二番鬼塚は直史のスライダー対策に、かなりベース寄りに立っていた。
だがその内角ぎりぎりに、投げ込んでこれるのが直史である。
わずかに退こうとする己の足を、バッターボックスの中の地面にこすり付ける。
逃げない。それは決めている。
投げられた球は、内角のゾーンをわずかに沈んでかすめていった。
ヘボな審判か、あるいは独善的な審判なら、ボールとコールしただろう。
だがその沈むスルーは間違いなくゾーンを通っており、鬼塚は手も出なかった。
(今の俺は、どれだけ近づけたのか)
あるいは、さらに遠ざかってしまったのか。
実力差は、正直なところありすぎるのではないか。
達成した数々の記録が、直史の持つ技術の突出具合を示している。
チェンジアップに手が出ずに、最後はストレート。
お手本のような配球で、振っていったがバットはボールの下をくぐった。
三球三振となったが、どこか満足もしてしまっている。
このマリスタで、直史と対決したということ。
永遠に手が届かない存在は、そのまま遠い憧れのままでいてくれるらしい。
勝負を賭けるのは二戦目以降。
直史には勝てないというのは、レベル差がありすぎるから当たり前なのだ。
(それでも、いずれは)
一本のヒットを打ちたい。
だが鬼塚の願いは、かなうことはないだろう。
レックスの打線の弱点は、自軍の監督である布施は、かなり正確に把握していた。
打つか打たないかはともかく、樋口がその気にならないと、一気に得点力が落ちる。
必要だと思ってしまったら、樋口は平然と送りバントもする。
その状況で何をすればいいのか、分かっている選手なのだ。
そしてそれを達成する能力がある。
やりすぎないところが、樋口の最も優れた資質であろう。
ただこの年からは、下位打線でも点が取れるようになっている。
上位打線と下位打線で、二つの得点パターンを作ってあるのだ。
それにこの試合は、パの球団で行われるがゆえに、DHの使用が可能である。
思ったよりも圧倒的な展開にはならない試合を続けるレックスにとっては、これがバカにならない。
この日は九番の小此木が、一打席目からヒットを打っていく。
プロ二年目でもいまだに線が細い印象を受けるが、下位打線の割には打率も上がってきて、得点圏での打率は高い。
ならばもっと前の打順に持ってくれば、とも思うかもしれないが、他のバッターも皆がいいのだ。
なので普段は、次がピッチャーになる八番に置いておくことが多い。
ショートほどではないが守備負担の多い、セカンドをしっかり守ってもらう方が重要ということだ。
3-0とリードを広げて、試合は中盤に入っていく。
いつものことであるが、直史と対戦するチームは、ヒットが出ない。
対戦経験が少ないほどピッチャーが有利というなら、パのチームはそうそう打てるはずもない。
ウォリアーズには三本のヒットを打たれたが、まるでダブルプレイの練習をさせているかのように、奪三振はわずか五つで、28人で完封。
ファルコンズはもう、致命的なダメージを受けた、25奪三振という記録を作った。
そして今、相手は出身地である千葉のマリンズ。
やはりと言うべきか、まだ一人のランナーも出ていない。
故郷に錦を飾るつもりでもあるのだろうか。
出身地の地元のチームであるだけに、手加減するという選択肢もあるだろうか。
だが東京のレックスのチームであるという以前に、直史は白富東の直史。
マリンズを応援するよりも強く、直史のピッチングを見ていきたいと思う。
ただ、土地の神はきまぐれだ。
あるいはさすがに、ちょっと遠慮しろと思われてしまったのか。
風の影響を受けやすい、マリスタの特殊条件。海からの風が、あるいは海への風が、ボールの行方を曖昧にする。
センターに飛んだ珍しい外野フライを、西片が捕球体勢に入る。
だが向かい風が、そのボールを押し戻す。
慌てて追いかけた西片は俊足なので、本来なら追いついただろう。
だが芝に足を取られたところで、転倒する。
ボールはグラブに当たったものの、そこから転がって捕球失策。
スタンドからは「ああ……」という残念そうな声が多く聞こえた。
マリンズという球団を応援しているファンは、もちろんいるだろう。
だがこの球場で活躍した、直史の姿を知っている者も、間違いなく多い。
比較的新しい球場の中では、収容観客数があまり多くないマリスタ。
ファンも平均して、それほど多くが観戦に来るわけではない。
だがそこに、地元の出身で、甲子園優勝投手で、WBCのMVPで、プロのシーズンと日本シリーズのMVPでと、とにかく肩書きが山盛りのピッチャーがいれば、それは誰もが見たくなるだろう。
ほとんどのチームを圧倒的に完封して、既に今年も二度のパーフェクトを達成している。
年間に二度のパーフェクトで、ここから三度目も狙えたものだ。
「悪い」
西片は顔を歪めてそう言うが、立ち上がれずに担架で運ばれていく。そちらの方がよほど深刻だ。
「ここはそういう球場ですよ」
ひどい怪我ではないと思うが、痛みが取れないのは間違いなく問題だ。
シーズンもまだ長い。圧倒的な強さを誇る今のレックスは、西片の離脱も仕方がないと言える。
むしろこれを機会に、次代のセンターを鍛えるべきではないのか。
西片の代わりに出てきたのは、元々外野が本職の山中であった。
何度も代打や守備固めでは出ているため、特に緊張などはない。
ただ、プロの世界で、ノーヒットノーランを続けている直史の後ろを守るのは、これが初めてである。
ただしクラブチーム時代には、いくらでも同じことをやっていた。
あるいはここが、山中にとっては人生の分岐点になるかもしれない。
打撃はそこそこ、守備力は高め、俊足。
めぐり合わせによってはいくらでも、スタメンの機会はあっただろう。
西片はもう40歳にもなるので、センターを広く守るのは辛くなっているはずだ。
それでもベテランの安定感はあるが、マリスタの風を読み違えるとは、その感覚も鈍くなっているのかもしれない。
体をほぐして、センターの守備に就く山中。
既に三点のリードがあるので、直史が投げているならほとんど心配はない。
ランナーはいるが、それも一塁にいるだけだ。
直史のクイックと樋口の肩を考えれば、盗塁はおろか送りバントさえ難しい。
七回の裏が終わり、残りは二イニング。
パーフェクトは途切れてしまったが、ノーヒットノーランは継続中である。
パ・リーグのルールで投げるのは楽だな、と直史は思っている。
直史の場合は、おそらくパで投げる方が、成績はより安定する。
それは打撃に割くリソースが、より少なくなるからだ。
普通に考えると、楽に打ち取れるピッチャーがDHになるため、むしろ大変だと思うのがセのピッチャーだろう。
だが直史は相手が強くなるかよりも、自分の調子を乱さないことを重視する。
極端な話、打席に入ってしまえば、デッドボールで当てられる可能性が出てくる。
一割も打率のない直史だが、打つ気になればさすがに一割は打てるだろう。
だがそれよりも、当てられて肉体のバランスを崩すことを恐れる。
それに塁に出てしまって走る可能性があるセでは、全力疾走の可能性もあるのだ。
この試合もずっと、ピッチングに集中していられる。
あるいはこういった感覚の醸造が、セパの勝敗の優位に表れてくるのか。
もっとも今のレックスは、史上最強レベルで強く、セパの強弱など全く感じられない。
内野のエラーがまた一つあったものの、ノーヒットノーランは継続中。
すると九回の裏は、二番の鬼塚がラストバッターとなる。
さて、空気を読んで凡退してくれるだろうか。
バットを握った鬼塚は、執念に満ちた目で直史を睨んでいる。
(まあ、お前はそういうやつだよな)
だからプロの世界に到達したし、そしてこうやって一軍で野球をやっている。
打率も長打も守備も走塁も、真ん中よりも上の水準でまとまった選手。
意外と長いプロ生活になるのかな、と直史などは考えている。
この試合で打てなければ、次にいつ機会があるか分からない。
そう考える鬼塚は、必死で食らいつくことを考える。
だがその執念は、悪く言えば執着だ。
メンタルをフラットに保たなければ、直史は打てない。
高めのボール球のストレート、膝元へのシンカー、そして最後にスライダー。
ファールを二つ打たせたが、全てボール球だった。
空振り三振でゲームセット。
ノーヒットノーランの成立である。
空振りした鬼塚は、そのままヘルメットを取る。
そしてマウンドの上で、もう既に弛緩した表情の直史へ、軽く会釈した。
自分を導き、そしてはるか彼方に存在するそれは、まだ遠い。
おそらくはたどり着くことはないのだろうと、それも分かっている。
だがそこで諦めたら、もう自分はプロではいられないであろう。
(日本シリーズだ)
日本シリーズにまで進めば、まず直史と対決することも、一試合は用意されるだろう。
そこで勝てるとは言わないが、挑み続けなければいけない。
ノーヒットノーランを達成した直史へ、敵地ではありながらスタジアムの全面から拍手が浴びせられた。
花束の贈呈など、そういえばこういったものは、いつどうやって用意しているのだろうか。
試合が終わった直史は、すでに神経を緩めている。
そしてまた次の登板に向けて、調整していくのだ。
9回29人95球15奪三振。
エラー二つによる出塁だけで、ノーヒットノーラン。
もっともあの西片が落としたボールは、ヒット扱いになってもおかしくなかったものだが。
球場の記録員による忖度が、なかったとは言わない。
スタンドに向けて、わずかに笑みを浮かべて手を振る直史。
祖父母に両親がそろって、その様子を見ていた。
瑞希も真琴を連れて、やはり手を振っている。
直史が守らなければいけないものは、それぐらいのわずかなものだ。
11先発にして11勝。
そしてノーヒットノーラン二回と、パーフェクトゲーム二回。
まだシーズンは半分も終わっていないが、圧倒的な成績だ。
これで怖いのは、あとは故障ぐらいだろう。
直史の場合、無理をして故障というのは、まずありえないものだが。
チームとしてもこれで、交流戦は12勝1敗。
マリンズ相手の次の先発は、金原が登板する。
そして第三戦は、やはり地元が千葉出身である青砥の予定だ。
今年のレックスも、去年と全く変わらないか、あるいはそれ以上に強い。
吉村に西片と、長く主力となってきた選手は離脱したが、それでもそこを埋める戦力はある。
なお西片の怪我は、左膝十字靭帯損傷であり、復帰には二ヶ月ほどかかるというものであった。
もちろん本人としては不本意だろうが、これは球団としては、戦力の新陳代謝をするいい機会だ。
なんだかんだ言って、名球会入りの資格も満たした西片。
それが引退の花道を迎えるのに、二年連続の優勝というのは、ちょうどいいものだろう。
六月が過ぎていく。
大本命に対抗するチームが、全く見えてこないシーズンが続く。
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