第119話 投手五冠

 NPBの投手タイトルは六つある。

 最多勝利、最高勝率、最優秀防御率、最多奪三振、最優秀中継ぎ投手、最多セーブ投手の六つである。

 現実的に考えて、同時に取れるタイトルは先発投手の四タイトルまで。

 これに最多完封を含めて、投手五冠というのが一般的だ。


 これまでに投手五冠を達成したのはわずか10人で、複数回達成しているのは上杉のみ。

 その複数回が五回という時点で、上杉の能力の逸脱具合が分かる。

 去年沢村賞を取った直史だが、最多奪三振のタイトルだけは取っていない。

 例年では、というか上杉登場以前であれば余裕で取れていた奪三振数だったのだが、武史が歴代でも有数の奪三振を記録してしまったため、投手四冠で終わっているのだ。

 上杉の投手五冠も、武史のプロ入り以降は一度だけであるのだから、この弟の空気の読めなさというか、レコードブレイカーっぷりはまさに歴代でも屈指のものであろう。


 ただ、この直史の奪三振を見て、多くの者が思った。

 その気になれば直史は、奪三振のタイトルも取れるのではないかと。

 また奪三振のタイトルなど、価値がないとさえ思っているのではないかと。

 その通りである。


 直史が重視するのは、ピッチャーの信念やエースの矜持などではない。

 そんなものは勝利に比べれば、どれほどのものでもないのだ。

 勝利のついでそういったものを奪っていく、お前が言うなと思われても仕方がないが。

 そもそもセイバーにおいては、勝利数も勝率も防御率も、ピッチャーの真の価値を示すものではない。

 分かりやすいから今も存在するが、サイ・ヤング賞の近年の受賞者を見ていけば、いかにそれがあやふやなものかは分かるだろう。

 そのセイバー指標についても、本場アメリカでも数種類の基準がある。

 それに突出度などを考えても、なかなか真の価値は見出せない。


 上杉がすごいのは、スターズの打線が貧弱であった時代に、それでも勝ち星を積み重ねていったからだ。

 それに比べればライガースの真田や山田は、防御率はともかく勝利数ではかなり有利になっている。

 防御率に関してもライガースなら、センターラインの二遊間が強力だった。

 大介がショートでいることで、一試合あたり三本や四本のヒットの数が変わっていたはずだ。


 極端な話、ピッチャーの価値は奪三振、与四球、被本塁打の三つだけが重要だなどとも言われる。

 直史には良く分かる。中学時代に打ち取った当たりを、散々にエラーで台無しにされてきたからだ。

 ただし三振を奪ってもキャッチャーがパスボールをしたのでは、それもやっぱり意味がない。

 このあたりが直史の、三振も取れるが基本はゆるいゴロや内野フライを打たせることへの、執念につながっている。


 やはりピッチャーの価値というのは、使えるコンビネーションの広さなのだろう。

 スピンレートの高いストレートを投げるのを、チェンジアップなどと上手く混ぜて活用する。

 沈む球を何種類も見せられた後だと、フォーシームで空振りする。

 直史のピッチングというのは、そういうものなのだ。




 さて、そんな直史は、その気になれば三振もかなり奪えることを証明してしまった。

 上杉のいない今、武史さえどうにかしてしまえば、投手五冠は狙える。

 日本プロ野球史上、11人目の投手五冠。

 ……日本野球史上の記録を色々と持っている直史が、今更そんなものまで手に入れる意味はあるのだろうか。


 ちょっと頑張って、奪三振のタイトルも狙わないのか、とマスコミに聞かれたりもした。

 直史としてはその「ちょっと」というのは、マスコミが直史に気軽に質問するぐらいの、ほんの「ちょっと」なのかな、と意地悪く思ったものだ。

 普段よりも30球ほども多く投げたのだ。

 それも下手に合わされないように、スピードのある球と、変化量のある球を主体に。

 もちろん負荷は余計にかかり、翌日には普段よりもかなり疲労が残っていた。

 そこまでして野球をやる必要は感じない。

 そこまで疲労するのは、もう大介と対決するときぐらいにしておきたい。


 直史のマスコミ嫌いは、球界でも屈指のものである。

 そもそも瑞希の縁以外では、ろくにインタビューも出来ない。

 その瑞希であっても、夫の職業の特殊性は理解している。

 休みになったら直史は、弁護士事務所の事務を手伝ったりしている。

 いざ弁護士に復帰になったとき、色々と忘れていると困るからだ。

 もっとも来年からアメリカに行くので、そのあたりはとても困っている。

 単身赴任も覚悟したものだが、瑞希も一緒に来てくれるので、そこは安心したものだが。


 五月が終わった時点で、直史の奪三振は96個で、これがこの後のシーズンも続くとなると、およそ300前後の奪三振となる。

 去年は303個だったので、それほどの誤差はないだろう。

 だが今年、武史は五月の終わった時点で、既に140個の三振を奪っている。

 直史の五割り増しの奪三振能力に、これから追いつくとは思えない。

 追いつこうとして無理をする気にもならない。

 去年はわずかながら離脱があったとはいえ、それでも武史の方が奪三振は多かった。

 そこを自分のピッチャーとしての性質を曲げてまで、数字を残そうとは思わないのだ。




 ファルコンズの選手たちの精神に巨大な傷跡を残しながらも、普通にシーズンは続いていく。

 ちなみにファルコンズはこの直史にボコボコに蹂躙された試合から、18連敗して優勝争いから消える。

 次は神宮球場にて、前年の日本シリーズを争った、埼玉ジャガースとの対戦である。

 ジャガースは今年、上杉正也が抜けたこともあって、リーグ戦は三位。

 もっとも首位から2ゲーム差までに、4チームがひしめく激戦を展開している。


 この間、直史は全くチームの状況は確認せず、自分の体調の回復に努めた。

 やはり単純に、球数を多く、力を込めて投げるのは疲れる。

 こちらには武史を先発の一枚に持ってきてある。

 ここまで九連勝と、武史は負けなし。

 もし負けがつくとしたら、あちらもスーパーエースクラスを持ってきた上で、速球に強いバッターで一点か二点を取るぐらいのパターンになるだろうか。

 直史と違って武史は、ここまで全ての試合を完投している。

 ただし完封の数は少ない。


 本当ならば武史も、もう少し休ませて使うべきなのだろう。

 だがリリーフ陣を疲労なく回すためには、直史と武史が、完投するのが望ましい。

 武史は毎試合、120球から140球前後を投げることが多い。

 中六日での運用なら、武史は150球までは問題ないと、高校大学時代の経験から分かっている。

 実際のところはバッターに合わせて、ペース配分を考えるようになったら、200球ぐらいまではなげられなくはない。

 佐藤兄弟に、ピッチャーの肩肘は消耗品という概念はない。


 そんな武史は失点こそしたものの、ここでもまた一試合を完投勝利。

 直史に続いて10勝目を上げる。

 そしてこのカードの残り二戦は、珍しくもレックスのリリーフが崩れた。

 それでも一試合は追加点を取って勝ったのだが、利根に今季二敗目がつく。

 だがこれでようやく、交流戦一敗目となった。


 レックスのリリーフ管理は徹底している。

 セットアッパーの豊田から利根、クローザーの鴨池まで、今季は50試合が終わった時点で、おおよそ15登板前後。

 回またぎの試合はなく、三連投も豊田が一回だけ。

 この三人は年俸も一億を超えており、長期契約を結んでいる者もいるため、壊すわけにはいかない。

 そもそも壊すような運用をしなくても、充分に勝っていけるのだ。


 選手の年俸の話をするなら、レックスは樋口と武史が最高クラスの年俸で、外国人にはさほどの高額年俸はいない。

 長年働いていたワトソンが退団し、モーリスはまだ若いこともある。

 逆にパットンは盛りを過ぎたメジャーリーガーだが、打率は少なくても一発があり、下位打線に仕込んでおくと面白い。

 投手陣がやはり、高給取りなのがレックスの特徴だ。

 そしてリリーフ陣では、越前と泊が二年目から、かなりの活躍をしていることも大きい。

 もちろん一番の二年目は直史だが。




 ある意味直史にとって、プロ入り後の一番待っていた試合がやってきた。

 昨年は果たせなかった、このカード。

 千葉マリンズとの対戦だ。

 これ自体は去年も投げているが、今年はそれとは全く違う。

 舞台が神宮ではなく、マリスタであるのだ。


 高校野球夏の選手権、千葉県予選は準々決勝からマリスタを舞台に行われる。

 千葉県の高校球児にとっては、甲子園までは目指せなくても、ここでプレイするのは夢なのだ。

 日程の関係上、一回戦から使わせてもらえるチームもあったりするが。

 またSS世代の人気絶頂期には、夏の大会以外でも使わせてもらったことがある。

 現在のマリスタはマリンズの本拠地と言うよりは、あのSS世代が活躍した場所、という意識が地元の高校生にはあったりする。

 神宮も似たような感じなので、あまり違和感はないが。


 ただ、神宮は大学野球が本来専用の球場として作られているもので、大学のリーグ戦がプロの試合よりも優先される。

 レックスは春と秋のリーグ戦の間は、短い練習時間でその日の試合に臨まなければならなくなったりする。

 さすがにマリスタはそんなことはなく、ちゃんと予定通りにプロの試合は行われる。


 そこに直史が戻ってきた。

 マリンズは基本的に、観客動員数こそそれほど多くはないものの、地域のファンからは愛されるチームだ。

 この八年間は連続でAクラス入りを果たし、リーグ優勝も一回。

 だが日本シリーズへは進めていない。


 試合の始まるずいぶんと前から、マスコミ各社は人を送り込んでいる。

 ジャガースとの試合で予告先発で直史が確定してから、かなり気合を入れて記者を送り込んでいるのだ。

 なんとか直史から試合前のコメントをもらえないか。

 だがその直史は、ブルペンで調整した後は、ロッカールームから出てこない。

 その中まで入り込もうとするマスコミを、球団関係者は排除する。

 今日は観客の熱狂が危険水準に至る可能性があるため、警備のために警察を手配していたりする。

 さすがに法律的に武装した警察官に、マスコミが勝てることはない。

 加えて映像をしっかり撮っているので、後から歪めて報道することも出来ない。


 記者連中はそう思っていたが、実際のところ直史は、普通に人通りの少ない、マリスタの中を歩いていた。

 勝って知ったるというほどではないが、高校時代には20試合以上はしたであろうか。

 これがこの球場で行う最後の試合。

 そう思うと感慨深いものもある。

 両チームの練習が終わり、観客が入ってくる。

 それを見て直史は、ロッカールームに戻る。

 何も目的はなく、ただ歩き回る。

 直史にしては珍しいことであった。




 マリンズの先発の斉木は、社会人から入った三年目のピッチャーだ。

 大学時代までは完成度がいまいちで、それでもその潜在能力を買われて、社会人に進んだ。

 その二年目に都市対抗で活躍したということを、直史はわずかに知っている。

 年齢的には直史の一歳年下だからだ。


 190cmを超える長身に、そのくせ投げるのはサイドスロー。

 クロスファイアーを武器に、右打者からは圧倒的な三振を奪っていくタイプだ。

 大学から社会人というルートをたどり、ようやくプロへと到着した斉木。

 直史の経歴を知っていると、自然と対抗心が湧いてしまう。


 同じ年ではあるが高卒からプロ入りした鬼塚とは、それほど仲がいいわけでもない。

 なんだかんだ言って鬼塚は、二年目からはほぼずっと一軍。

 タイトルを取ったりオールスターに選ばれるほどではないが、プロの一軍でスタメンでいつづけることは、野球世界ではエリートなのだ。

 鬼塚が試合に出られるわけは、ある程度のユーティリティ性にもよる。

 基本はレフトを守っているが、センターやライトに回れなくもない。

 また内野にしても、たいがい外国人か長距離砲を入れるファーストと違い、サードかセカンドも守れなくはない。


 そんな鬼塚は考える。

(ナオさん、もう怒ってないよな)

 前回の投球を見れば、そのあたりが気にかかるのも無理はない。


 プロとしてどうかとは思うが、プロだからこそ勝てないだろうと見切りもつけている。

 マリンズは今年、またクライマックスシリーズ進出を目的としている。

 ファルコンズが落ちていっているので、その点ではありがたい。

 ただ今年は、育成から上がってきた選手などで、戦力の充実したコンコルズが、リーグ優勝の本命だろうとも言われている。


 勝つための気迫は、確かに持っていなければいけない。

 プロを名乗るなら、それに相応しいプレイを見せるべきだ。

 だが同時に、ある程度の割り切りも必要になる。

 難しい試合は捨てて、勝てる試合は確実に拾う。

 そして後に響くような試合をしてしまってはいけない。


 今年の直史は既に、パーフェクトを二回、ノーヒットノーランを一回記録している。

 残る七試合のうち四試合がマダックスで、実は世界のマダックス通算記録を更新している。

 もっとも日本においては、マダックスなど浸透していない記録だが。

 10試合に投げて9試合を完投したのに、まだ球数が1000球に到達していない。

 武史は10試合に投げて全て完投しているとはいえ、既に1200球を超えている。去年はおおよそ2800球ほどだ。

 MLBでは年間、ピッチャーの投げる球は、3000球をおおよその限度として考える。

 その理屈ならば直史は、どれだけの記録を残せるのだろうか。


 MLBのスーパーエースクラスは、一年間フルに活動したとして、200~230イニングほどを投げる。

 去年の直史も、219イニングを投げている。

 もっとも上杉などは、250イニングほどを投げたりもしていたものだ。

 スタミナと耐久力においては、直史は上杉にかなわない。

 しかし直史はポストシーズンに、52イニングも投げているのだが。

 まあそんなものは一般人からすれば、モンスター同士の比較で何も慰めにならないのだが。




 スタメンのオーダーが表示されて、スタジアムは盛り上がってくる。

 今日はパ・リーグ側の開催のため、直史は投げることだけに集中できる。

 打てるキャッチャーのいるレックスは、こうなると強い。

 特に樋口などは、普通に打てる程度ではなく、あらゆる打撃指標がトップ10に入っている。


 一回の表、一番西片が出塁し、二番の緒方は進塁打を打った。

 一塁が空いているので、歩かせてもいいぐらいのつもりで勝負するべきである。

 ただマリンズのキャッチャー武田は、樋口に対して強打者というイメージをあまり持っていない。 

 プロ入り後の記録を見れば、明らかに好打者ではある。

 だがワールドカップで同じ代表に選ばれたとき、樋口は出番がすくなかったこともあるが、ほとんど打っていなかった。


 クラッチヒッターではあるのだろう。

 そうは思うが武田も、右打者に対して強い斉木に、あまり消極的なサインを出したくはない。

 そしてそんなバッテリーの心理を、樋口は洞察していた。

(アウトローに必ず一球は投げてくる)

 それを見逃してはいけない。


 今日はあまり風も強くなく、マリスタとしてはホームランを打ちやすい状況だ。

 日によって風の影響が大きく違うので、マリスタを嫌いだと言うピッチャーもバッターも多い。

 バッターボックスに入った樋口に対して、まずは胸元に一球。

 右のサイドスローとしては、かなりのコントロールだ。

(これでアウトローに投げてくるはずだが)

 武田のリードは基本的に、オーソドックスなものだ。

 もちろんそれだけだと打たれるばかりであるので、時には外してくる。

 だが一回の表から裏をかくのは、武田のリードではない。

 そもそも胸元の後のアウトローは、分かっていても打ちにくいのだ。


 ただ、樋口は狙っていた。

 クロスファイアの左右の角度をつけて入ってくるアウトロー。

 ちゃんと踏み込んで、そこから一点を目指してフルスイングした。

 バットに当たった打球は、追いつけるかとも思ったが結局はスタンドへ。

 先制のツーランホームランである。


 そして樋口は思っていた。

(よし、これで今日のバッターとしての仕事は終わりだ)

 キャッチャーとしてのリードで、この試合は終わらせてしまおう。

 あまり打って、肝心なところで勝負してもらえなくなったら困る。

 トリプルスリー達成者の樋口は、今更ながらそんなことを考えていたのであった。



×××


 ※ なお投手五冠を達成しているのに沢村賞をもらえなかった投手がいたらしいですよ。江川っていうんですけどね。パのその年のタイトルと比べても、勝率以外は両リーグ通じて最高の成績だったんですけどね。

 大学進学時の慶應の試験の難易度がおかしかったり、九州にあったライオンズが消滅したり、空白の一日でプロ野球が崩壊しかけたりと、本当にとんでもない選手でありました。そして沢村賞の選考自体が変更されてしまったという。

 個人的にはそこそこ天然なところはあったものの、ヒールとは思っておりません。ただ才能が巨大すぎて、それに周囲の思惑が関係したゆえの悲劇だと思っています。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る