第116話 よくみのほどをしれ

 成功した人間の中で、最終的にその人生の最後まで、成功者でいられるか、それとも全てを失いまた失敗するか。

 それを分ける条件の一つとして、自分が成功した原因の一つに、運の良さがあったことを認められるかどうかがある。

 この運の良さというのは、人生の正しいタイミングにおいて、適当な人間と出会い、適切な助言や助力が得られるか、というものも一つだ。

 全てが自分の実力の結果であり、過程はどうであれ最終的には成功していたと思う者は、いずれ全てを失う可能性が極めて高い。


 真の敗者というのは、敗北した者ではない。

 敗北した後に、立ち上がることが出来なかった者を言う。

 その意味ではクラブチームという、日本のプロ野球を目指す上では寄り道とさえ言える道を行きながら、最終的にはプロ野球選手になった能登は、たとえここで負けたとしても、また立ち上がることが出来るだろう。

「俺がプレッシャーを感じない理由の一つは、たとえ負けて、そして負け続けてどうにもならなくなっても、他に道があるからなんだな」

 直史は樋口に、そんな素直な理由を告げたことがある。


 直史はプレッシャーに動じない。

 そもそもプレッシャーを感じる部分がないのではとも思われるが、少なくともプレッシャーでコントロールミスなどをしたことはない。

 大学に入学後も、そしてプロ入り後も、プレッシャーは感じていない。

 わずかに感じたものがあるとすれば、それは対決すべき相手と対決したときの闘争心だ。


 その意味で今年の直史は、競う相手がいなかった。

 世間的には兄弟による、しかも同一チームの中での、沢村賞レースが話題になっていたりもする。

 直史からしてみれば、さすがにまだ気が早い。

 武史は年に一度ぐらいはポカをしてくれるし、どちらかがどうしようもない故障をする可能性もある。

 ただ直史はそれとは別に、ライガースを相手にしては既に四試合35イニングを投げているが、打たれたヒットはわずかに八本、失点は西郷のホームラン一つだけ。

 既に省エネで投げる配分を、つかみつつあった。

 武史は一試合当たりに投げる球数が、直史よりもずっと平均して多い。

 シーズンの途中でガス欠するとすれば、それは武史の方であろう。


 そんな直史が、他に少しでも気をつけるとしたら、同じセよりは情報が入ってきにくいパとの交流戦。

 基本的に直史は、選択肢が多いために、相手の情報が多ければ多いほど、弱点を攻めやすくなる。

 逆にデータのない相手ならばそれなりに打たれるのかと言うと、それはあちらも直史の変化球を知らないわけで、えげつなく曲がるカーブやスライダーなどに手が出ない。

 まずレックスが当たるのは、北海道ウォリアーズ。

 この五年ほどはクライマックスシリーズの出場を争う程度には勝ってきたが、今年はエースの島が移籍してしまった。

 ただ打線の方はそれなりに育成が出来ていて、直史の知っている顔もそこそこある。


 今のNPBの主力層は、若手から突然変異的に現れた数名を除くと、上杉から後の数年の選手が、かなりの数になっている。

 たとえばウォリアーズの主砲の後藤、そしてライガースのエースの真田。

 また同じくライガースの毛利に、フェニックスの竹中や福島と、あの当時の上杉に勝利した大阪光陰メンバーや、その後の白富東に勝てなかったメンバーが、多く主力となっている。

 この時代の選手が甲子園や、また神宮などで競い合い、アマチュアの段階でレベルが上がっていたのだ。

 その中でも特に強力な、真田の代は一度も甲子園を制することはなかったが。

 SS世代と、その後が強力すぎた。


 若いうちが伸びるのは本当で、ただし壊れやすくもある。

 直史の知っている選手の多くが、高卒や大卒で入ったものだが、その半分以上はもう名前を聞かない。

 自分はもう28歳で、プロ野球選手の引退の平均年齢となっている。

 そう思うと多くのプロ野球選手は、一番働ける年代を過ぎてしまって、ここからは栄光の残滓だけで生きていくことになるのか。


 スポーツ選手は、特に興行として多くの選手がいるプロスポーツは、やはり博打だ。

 そのトップにいることを自覚していても、いまだにこんな不安定な職業に、己の若い時間をかけることは理解しがたい。

 まだしも大卒ならばいいが、今時は高卒では人生の選択肢が少なくなる。

 ただその中の例外中の例外が、直史が全力をもって戦わなければいけない大介などになるのだ。




 高卒や大卒から、ぽっと出でプロになった選手と、クラブチーム上がりではそのハングリー精神が違う。

 高校や大学でも24時間野球漬けなどという生活を送った人間は多いだろうが、それはあくまでも学校に守られた環境にあっただけだ。

 クラブチーム上がりであると、まず自分の生活を、働いて維持しなければいけない。

 そして仕事以外の時間で、どうにか野球をするのだ。

 白富東のような、体育科であっても普通に授業を受けさせた学校と違い、私立の強豪校などは、授業の一環に野球がなっていたりする。

 そんな生活を送っていて、果たして将来はどうなるのかと、直史は思ったものである。

 実際は高校で野球を終えた人間は、大学にも社会人にも進めなければ、コンビニの店員などになっている例が多いとも聞く。

 野球以外に何もやってこなかったため、何も出来ないからだ。


 それでも後悔はしないのかもしれない。

 直史としてはもちろん、そんな人生は送りたくはないが。

(なんだかんだいって、ここまできたわけか)

 神宮で練習をしている、ウォリアーズの姿を見る。

 能登の姿は見えない。

「ナオさん」

 記者席を通して廊下から見ていた直史に、その声はかけられた。

 記憶の中にある能登の声で、振り向いてみれば昔に比べて、一回りがっちりした体格になっている。

「お久しぶりです」

「元気そうだな。筋肉付けすぎじゃないか?」

 皮肉でもなく心配して、そんなことを言ってしまった直史である。


 直史の信念の一つに、筋肉はつけすぎるな、というものがある。

 筋肉はパワーを生み出すものだが、筋肉ばかりが発達していると、骨や腱、靭帯に負荷がかかる。

 こういった部分は基本的に、鍛えるのが非常に難しい。

 直史の個人的な感想では、柔軟性を維持して筋肉によるパワーを上手く逃していくしかない。


 ただ能登の場合、それで筋肉の量は適切なのだろう。

 直史は縦の身長に対して、横の筋肉がかなり薄いのだ。

「ウエイトしてMAX156km/hまで出るようになりましたんで」

「球速はあまり重要じゃないけど、まあいいか」

 ピッチャーはコンビネーションが大事。

 それに能登は今年、勝ち星が先行していて、いい感じで投げてきてはいるのだ。




 直史は慣れ親しんだ神宮を歩き、能登に缶コーヒーを奢ったりはする。

 別に直史は、コミュニケーションが取れない人間なわけではない。能登は顔見知りではあるし。

「今年は二桁勝つつもりですし、昨日の負け星は取り戻しますよ」

「そうか、まあ頑張れ」

 レックス打線を七回三失点ぐらいに抑えれば充分かな、というのが直史の能登の評価だ。

 ナチュラルに見下していると言うか、これはおおよそ正しい評価だろう。


 今のウォリアーズが直史から点を取るとしたら、クリーンナップの一発というのが一番出会い頭の事故になりやすい。

 ただウォリアーズのロースターを見る限りでは、そうそう対応の難しい選手もいないのだ。

「冗談じゃなくて、今は同じ立場ですからね。勝負させてもらいます」

 気合は充分な能登であるが、気合で直史は倒せない。

 それに勝つためには、勝負するのは直史相手ではないだろう。

 直史が注意するのは、神宮で行われる交流戦のため、自分がバッターボックスに立つ必要があること。

 デッドボールには注意しないとな、という程度である。


 能登としては完全に、下に見られている気分であったろう。

 事実そうであるし、客観的に見ても間違いない。

 ただ、本気で「やってみないと分からない」と思っているなら問題だ。

「今って通算成績どのくらいだっけか?」

「う……30勝37敗ですけど、今年は勝ちが先行してますから」

「ハーラーダービートップの俺に、本気で勝ちにくるのもいいけど、無理をせずにちゃんと数字は残せよ。クオリティスタート決めたらそれで、年俸交渉の材料にはなるんだから」

「ナオさん、ちょっと甘く見すぎてないですか?」

「そう言われてもなあ」

 別に直史は、甘く見ているわけではない。

 単純に野球でしか食べていくつもりのない能登を、それならそれでちゃんと評価されるように投げろと言いたいだけなのだ。

 他のチームであっても、たとえば岩崎や淳のことは気にしている。

 純粋に過去の縁から、そういう気遣いをしているだけなのだ。


 能登の年俸は、今日は事前に調べていたが、今年で2900万。

 レックスのスタメンの中で能登よりも年俸が低いのは、今年が二年目の小此木だけだ。

 その小此木にしても、去年から倍増以上の2500万。

 今年の出塁率は極めて高いので、またかなり上げるだろうと思われる。


 直史としては、野球以外の選択がある自分は、常に精神的な優位にあると思っている。

 事実は野球にしがみつこうとする人間の方が、より高いパフォーマンスを発揮するのかもしれない。

 だが別に人生を賭けているわけでもない直史は、常に冷静な判断が出来る。

 二つしかない選択の時も、失敗してもまだ余裕がある。

 この余裕があってこそ、無駄なプレッシャーにさらされることもなく、スペックどおりの力を発揮できるのだと思っている。

「まあ対抗するんじゃなくて、普通に学ぼうとするところは学ぶべきだな」

 ナチュラルに煽り倒して、直史は試合に臨むのであった。




 直史のピッチングの基本的なことは、初球からストライクに投げてくることが多いというものだ。

 もちろん単純なストレートではなく、カーブからゆっくりと入ったりもする。

 初球に変化球でストライクを取ってくるというのが、一番多いと言っていいだろう。


 この日の初回は、先頭打者による出会い頭があった。

 初球のカーブを打たれて、いきなりノーヒットノーランまでが消えたのである。

 プロに入ってから初めて、初回の初球をヒットにされた。

 アマチュア時代から数えると、いったいどれぐらい久しぶりのことだろうか。


 ストライクから入れ、というのは直史が言われたことであり、誰かに対しても言っていたことだ。

 だいたいバッターというのは、初球からフリースイングしてくる選手は少ない。

 特にこの20年ぐらいは、ピッチャーの球数を投げさせるという意味もあって、初球から振ってくるバッターは少なくなっている。

 もちろん大介や、あとアレクのような例外もいる。

 あとは樋口も意外と、初球から振っていくことが多い。


 直史が徹底していたことを、能登がチームの中で喋ったのだろうか。

 そう思った直史は、二番打者からはフロントドアのスライダーや、ストライクからストライクに変化するスプリットを使ってみた。

 凡退してはいるが、かなり積極的に振ってきている。

 確かに直史はボール球が少ないので、それも一つの手ではある。いや、統計的には間違いなく正しい。

 だが振ってくるというなら、それはそれでやりようがある。


 塁に出た先頭打者は、これまた内野ゴロの間に三塁までは進んだが、そこが限界であった。

 打たれた後は内野ゴロ三つで、直史は一回の表を終わらせる。

「かなり早打ちだったな」

「能登はクラブチームで、かなりフォアボールは出すなって教えたからな。それが向こうに伝わっているのかもしれない」

「あとは土方も向こうにはいるしな」

 ウォリアーズには高校時代はともかく、大学時代のチームメイトは他にもいる。

 それが早稲谷で一緒だった土方だ。

 今日は二番を打っていて、初球のスライダーに手を出してくれた。


 直史の攻略を考えるに、そのあまりの球数の少なさから、待球策を考える者は多い。

 だがゾーンに投げてあっさりと追い込んでしまうことも、直史は出来るのだ。

 追い込まれれば、際どいボールにも手を出すしかない。

 審判は直史のコントロールの良さを知っているので、ボール球でもストライクになりやすい傾向がある。


 なので対策としては、まだしもゾーンに投げてくることが多い、ツーストライクまでを狙っていくというのはありである。

「どうする? ボール球を振らしていくか?」

「いや、さっさと終わらせよう。早打ちしてくれるならさっさと終わらせて、少しでも家族との時間を作りたい」

「家族想いなやつだなあ」

 皮肉の含まれた樋口の言葉だが、直史の話していることは嘘ではない。

 ベンチでこの会話を聞いている他の選手やコーチなどは、どうにも理解しがたいらしいが。

「じゃあちゃっちゃと点を取って、さっさと終わらせるか」

 樋口までがそんな気分になってしまったのであった。




 直史がプロ入りしてからこれまでの試合で、最も少ない球数で完投したのは、去年の日本シリーズの80球である。

 そして早打ちをしてくれるウォリアーズという条件がそろったために、その更新を目指してみた。

 とにかく落ちる球で、内野ゴロを山を築く。

 だが粘られそうだと思ったら、あっさりと三振も奪いにいく。

 バッターの気配を察するのが上手いバッテリーがその気になれば、こういうことも出来るのだった。


 そしてあからさまに粘ろうとしてくるなら、打たせてしまってもいい。

 そう粘り強くカットを連続できるバッターなど、そうはいないのだ。

 次のバッターに内野ゴロを打たせてダブルプレイにすれば、一人分の投げる球が浮く。

 打てそうで、そして実際に当たるのだが、ジャストミート出来ない。

 これにレックスの現在の内野守備があれば、多くのゴロを打たせることが出来る。

 内野陣はいい練習になったろう。

 実戦に優る経験はないのだから。


 試合の途中から、解説とアナウンサーが、過去の記録を探し始める。

 NPBにおいて一試合の最少投球数完投は、まだリーグが分かれていなかったころの67球。

 ただしこれは、八回を投げての球数であったらしい。

 九回を投げてのものは、71球が最少。

 ただし延長に入っての九回までなら、70球というものがある。


 ウォリアーズのベンチも、この球数の少なさには気がついていた。

 それでも早打ちをしていくかどうかは、監督の判断に任された。

 少なくとも三振の数は、普段の直史の試合よりも少ない。

 それに終盤までに、三本のヒットを打っている。

 そのうち二つは、ダブルプレイで無駄にされてしまったが。


 ウォリアーズは、屈辱には耐えられなかった。

 八回に入ってからは、早打ちを控えるようになったのだ。

 そして出来るだけ粘れと。

 それは勝つための指示ではなく、チームの士気を落とさないための、もうどうしようもない後ろ向きな指示であった。


 この日のレックスは六回までを投げた能登から三点、その後のリリーフから二点を取っていたため、確かに逆転の目は薄かったろう。

 そして初球攻撃をしなくなったウォリアーズからは、直史も気楽な感じで投げることが出来る。

 九回28人に投げて77球。

 被安打は三であったが、ダブルプレイが二つあった。

 そして奪った三振の数は、直史がプロ入りしてから完投したレギュラーシーズンの試合では、もっとも少ない五つとなったのである。


 途中までは、記録が更新できるかな、とも思っていたバッテリー。

 だがこういう記録は、やはり対戦相手やスコアなど、他の要因も大きく関わってくるのだ。

 マダックスどころではない球数で、この試合を完封した直史。

「90球未満の完封をサトーとか言ってなかったっけ?」

「ナオってるとか言われてるの、あれどういう条件だったかな」

 のんびりと会話するバッテリーは、本日も味方にさえ、畏怖を振りまいているのであった。



×××



※ 本日高校編183話に主人公が出張しております。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る