第61話 道は一つ
野球は頭脳を使うスポーツである。
北米四大スポーツの中では、一番フィジカルの要素は必要ないのではないか、などと他の三大スポーツを知らない樋口は思ったりする。
大介の二打席目は封じたが、あれはあくまで運が良かった。
もっとも単打までならOKだとは、最初から二人で決めていたが。
「例のタイミングずらしは使わないんだな?」
確認する樋口に、直史は頷く。
「あれはプレイオフで使うからな」
「一度使った手がもう一度通用するか?」
「分からないが、ここでは使いたくない」
直史は、後悔している。
大介との勝負に勝つために、かなり多くの切り札を切ってしまっている。
自分で決めたことなので仕方がないが、プロの感覚を分かっていなかったとも言える。
プロ野球において一番大事なのは、自分の成績である。
それがそのまま年俸につながるから、普通の選手であれば、勝ち星など打率だのにこだわる。
だが直史は違う。
直史は、大介を封じるためだけに、この世界にやってきた。
使用期限五年の、限定されたピッチャー。
だがいざ試合に挑んでみれば、負けたくないという本能に支配される。
オープン戦までは、相手の出方を見るという、自分への言い訳がきいた。
しかしそこからは、情動を抑えられなかった。
命がけでもない。生活がかかってもいない。無理もしていない。
それなのに誰よりも純粋な、勝ちたいという欲望。
もちろんまだほとんどのバッターには、これを見切ることはできないだろう。
そもそも投げられる選択肢が多すぎるというのは、いつか攻略が可能なものになるのだろうか。
五回の裏、ライガースの攻撃。
一発のある西郷に対して、甲子園の大歓声が送られる。
基本的には西郷には、外角で勝負するしかない。
ただ外角で勝負しても、ちょっと掠った程度の当たりで、なぜか外野までは持っていったりする。
スイングスピードは大介の方が速いので、エネルギーの法則的には、大介の打球の方が飛んでいきやすいはずなのだが。
西郷相手には緩急と、大きく曲がる変化球が効果的である。
外一杯に入るカーブを投げると、それを高く打ち上げてくれる。
やたらと滞空時間の長いライトフライでツーアウト。
二番目に難しいバッターを打ち取って、バッテリーも一安心。
こういうのの後に、打率の低い大砲に撃たれるというパターンも多いのだが。
五番グラントも三振でアウトとなり、続く黒田も最後は空振り。
三者凡退で、試合も半分を過ぎた。
ここまでいまだに、一人のランナーも許さず。
パーフェクトピッチングが続いていく。
レックス首脳陣もさすがに、直史が試合で消耗するのが、体力ではないことに気づいてきた。
そのピッチングにおいて消耗するのは、集中力。
以前のライガース戦での途中交代や、カップスで打たれたホームラン。
その集中力の持続力が、強敵相手だと激しく消耗するのだ。
限界を超えて投げるというのは、骨や筋肉、腱や靭帯の限界ではない。
その思考力の限界だ。
酸欠にも似た症状で、そのまま倒れる。
あとは糖分であろうか。
純粋に脳は、人間の器官の中でも、特に純粋にエネルギーを集中とする。
糖分に限ったわけではないが、人間のエネルギーとしてはそれが一番分かりやすい。
スポーツ飲料に菓子のラムネ。
直史が試合中に補給しているものだが、樋口も水分と糖分は補給する。
この二人は圧倒的に、頭脳で野球をやっている。
もちろん現代野球は、頭脳戦とは言われる。
難しい話ではなく、バッティングで確実にボールにバットを当てるのに、読みは必ず必要だ。
そういったものがなく、反射で打ってしまう化け物もいるが、それに頭脳を加えれば、更なる化け物になる。
大介の場合、読みの場合と反射の場合を使い分けるので、さらなるハイブリッド型と言えよう。
直史も樋口も、基本的に頭脳で野球をやっている。
実際には頭脳の中の作業を実現できるだけの、肉体はちゃんと作り上げているが。
二人ともゆっくりベンチで休んでいたいが、六回の表にはまた樋口にも打順が回ってくる。
今日はもう一本打ったし、ノルマ達成の気分の樋口は、先頭打者が出なかったこともあって、見送りの三振。
省エネと決めたらとことん省エネをする、潔い姿である。
ライガースの六回の裏は、ここまでパーフェクトに抑えられているのだから、当然ながら七番から始まる。
去年までと比べて、少なくとも圧倒的に打撃力を増したキャッチャーの孝司が七番。
高校時代は変化球攻略のためにお世話になった直史であるが、かといって素直に封じられるわけにはいかない。
とは言ってもやはり打てずに、ここでスローカーブを相手に三振。
バットを早く振りすぎた。
単純に言ってしまえばそれだけなのだが、直史のスローカーブを空振りすると、完全にバランスを崩して尻餅をつく。
それならばむしろ最初から、素直に空振りだけしておけばいい。
そしたら次の打席には、バッテリーに威圧感を与えることが出来る。
空振りを無駄にしない方法。
それは空振りをしても、悔しがる素振りをみせない。
孝司は空振りをして悔しそうな顔はしなかったが、尻餅をついて恥ずかしそうな顔をした。
面子で生きているプロ野球選手は、絶対にリベンジしたくなる。
そういった心理まで、全てデータとして利用するわけだ。
八番の石井は内野ゴロでアウト。
九番ピッチャーの山田は、バッターとしてはピッチャーの中で平均的。
もちろん先発はピッチャーの中でも、バッティングが回ってくる割合は多い。
しかしながらどれだけアマチュア時代には強打者であっても、打たなければ鈍る。
今のピッチャーで一番打力の高いのは、スターズの上杉であろう。
プロ一年目は三割を打ったが、二年目以降はそれに達していない。
だがずっと年間五本以上は打っている。
山田はそこまでの選手では、もちろんない。
ただピッチャーはほぼ、投げるだけで済むのが現在の野球である。
……約一名を除く。
六回が終了した時点で、スコアは2-0とレックスのリード。
直史のピッチングはバッター18人に対して、奪三振8つの57球。
パーフェクトピッチング継続中であり、そして100球内のパーフェクトも達成しそうな割合である。
そもそも直史はパーフェクトを達成した試合もノーヒットノーランを達成した試合も、100球投げていない。
その意味ではいつも通りなのだと言えよう。
直史からすれば、100球以上も投げていたら集中力が続かず、パーフェクトなどできっこない。
パーフェクトはあくまでも、結果である。
直史が目指すのはいつも、出来るだけ球数を投げない、確実な勝利。
するとパーフェクトでランナーを一人も出さないというのは、合理的な理由になる。
甲子園の大観衆は、やかましい応援だけではなく、戸惑いも感じ始めている。
高校野球ファンを兼ねている人間は、過去に直史が二度、パーフェクトを達成しながら、その定義ゆえにパーフェクトを認められなかったのを知っている。
見たいのだ。
佐藤直史が、今度こそ甲子園でパーフェクトピッチングをするのを。
純粋なライガースファンは狂ったように打線を応援するが、静かに見守る観客もいる。
甲子園をアウェイにしてしまわない。
上杉もそうであるが、直史もまた、甲子園に愛されている。
七回の表、レックスの攻撃。
だがそれが始まる前に、二点をリードされた状態で、山田はマウンドを降りた。
球数は95球と、まだ球威もコントロールも落ちてはいない。
しかしここからはシーズン終盤、選手の消耗を考えていかなければいけない。
どのみち今日の展開からすると、山田の負け星は消しにくい。
そう考えるならまだ、次の試合に温存しておいた方がいい。
負けの気配が見え始めたここで、まだ山田に投げさせることは、追加の失点が出て悪いイメージを次に引きずりかねない。
ならばもう、他のピッチャーに経験を積ませる試合にすればいい。
ライガースもまた、勝ちパターンのリリーフは決まっている。
だが先発ローテから外れて、ロングリリーフなどに回っている選手もいるのだ。
なんだかんだ言いながら、プロ野球のピッチャーにおいては、稼げるのは先発とクローザー。
だがクローザーは比較的、選手寿命が短い。
リリーフはセットアッパーでもやはり、選手寿命は短い選手が多い。
先発は一週間に一度のお仕事であるから、楽である。
直史はそんなことを考えているが、それとは別の話として、先発が稼げるのは本当である。
もちろん打算もある。
もしも真田が今季のオフ、FAでライガースから出たとする。
すると確実に、左の先発が一人いなくなるわけだ。
もちろん真田は単に左だというわけでなく、真田なので価値がある。
しかし先発に、左は一枚は用意したい。
現在のライガースには、使えそうな左のサイドスローが二人いる。
ワンポイントで投げたり、谷間の先発を行う品川と青山である。
品川は明倫館から高卒で入り、左のワンポイントや左打者が続くところでは、かなりの実績を残している。
対する青山は、高校時代は二番手のピッチャーであったが、大卒からライガースに入ってきた三年目。
二軍では充分な実績を上げていて、もし真田がいなくなるなら、左の先発枠は埋めるかもしれない。
その青山が、七回の表は三人で抑える。
サウスポーの投げるシンカーで三振も一つ取り、アピールに成功。
ブルペンで待っている品川は、ここまで逆にリリーフとしての実績があるからこそ、必要な時のために待機となっている。
そして七回の裏がやってきた。
大介の三打席目が回ってくる。
粘りたがる毛利は、高めのストレートを打ち上げてしまった。
打つ想定はしていたが、それでも伸びが予想を上回っていた。
ショートフライでアウト。使った球数は四球。
二番の大江は、粘ることなどは考えない。
タイミングが色々とおかしなカーブの、どれかに狙いを定める。
それでは打てないと言われているが、だからこそ狙ってみる。
もしも打てたなら、バッテリーの配球の選択肢を減らせることになる。
そんな大江に対して、バッテリーはカットボールとツーシームで対応。
内野ゴロを打たされて、ツーアウト。
またもランナーなしのツーアウトで、大介の打席が回ってくる。
正直なところ、どうしようか迷っているバッテリーである。
甲子園でライガースを相手に、パーフェクトを達成する。
難易度的に、球場は投手有利と言われているが、そもそもパーフェクトを達成するサンプル数が少なすぎてなんとも言えない。
以前にはピッチャー不利の神宮で、しっかりとパーフェクトに抑えたのだ。
ならば甲子園ならもっと有利では、というほど単純な理由ではない。
ここは敵地であるのだ。
応援もライガースの方が圧倒的に多い。
ただ回が進むに連れて、そのプレッシャーは少なくなってきているかな、とも思う。
これがライガースの、もちろんチームには勝ってほしいけど、目の前でパーフェクトも見たいという、贅沢な心理からでた雰囲気である。
残り七人。
延長まで投げなくてもパーフェクトが出来るというのは、直史にとってありがたいことだ。
高校時代、真田の左打者攻略力が高すぎて、アレクや大介でさえまともに打てなかったのだ。
今日は既に、二点のリードをしている。
あと七人と考えれば楽かもしれない。
だがその中に大介がいると、途端に難しい話になる。
パーフェクトをすることと、大介を一打席抑えること。
どちらが楽かと言われれば、それは大介を一打席抑えることである。
直史だってそう言うが、絶対に達成しなければいけない条件なら、どちらが難しいかは迷う。
主人公体質の大介は、これまでに多くの伝説を作ってきた。
これまで完全に抑えてきても、最後の一打席で放り込む。
それが大介という存在である。
バッターボックスの中に入った大介は、くるくるとバットを回す。
マウンドの上の直史を見る目は、野生の獣より恐ろしい。
だが実際はどうなのか。
(やべえな。攻略法全く思い浮かばねえ)
バッターは三割打てれば一流。
だが大介はここで、確実に一本打ちたい。
そのための確信が全く持てなかった。
もう一方のバッテリーも、切り札なしで大介を、どうやってしとめるか。
確実に通用するようなものはない。
ただのこけおどしの初見殺しなら、大介はあっさり見破ってくる。
(どうする?)
(どうする?)
(どうする?)
ピッチャーとキャッチャーとバッターが、それぞれに考えを巡らせていた。
観客席からそれを見つめる、瑞希とツインズも拳を握り締めている。
どちらが勝つのかと問われれば、おそらく直史が勝つと答える。
しかし前の打席では、大きな飛球を打たれてしまった。
スタンドに放り込む当たりではなかったのだから、あれは大介基準ならば敗北である。
だが同時に直史基準であると、外野にあの当たりを打たれては、勝利と言えないのである。
試合がどういう流れになっても、おそらくこれが、二人の最後の対決になる。
レギュラーシーズンでもう一試合勝負があるかどうかは、首脳陣の戦略にもよる。
瑞希は直史が勝つと感じる。
だがそれは信頼でも確信でもない。
パーフェクトがかかっている。
ただでさえ直史と大介の勝負は熱いのに、この時間帯になると会社から帰って、テレビをつけるサラリーマンもいる。
視聴率の最高値は、更新されてしまうのではないか。
さすがにそれは、テレビの力をいまだに信じる、老人たちの寝言であるのだが。
パーフェクトゲームの価値を暴落させてしまった男。
直史はそう呼ばれつつあるというか、大学時代にはそう呼ばれていた。
もしもここで最強打力のライガースから、今季三度目のパーフェクトを達成するなら、それはさすがに更新のしようがない記録になるだろう。
逆に言えばライガース側からは、なんとしてでもそれは防いでほしい。
大介なら打てるのではなく、大介にしか打てそうにない。
そして逆にもしパーフェクトが途絶えるにしても、大介に打ってその達成を阻んでほしい。
パーフェクトの達成を見たいのか見たくないのか。
大介が打つのを、見たいのか見たくないのか。
希望も期待も渾然となって、甲子園球場の中を漂っている。
どちらも見たい、はありえない。
二者択一の非情な選択肢が、観客や視聴者の前にも、用意されているようであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます