第32話 静止した時間の中で
二者連続三球三振。
一つも遊び球を必要とせず、ストレート以外を必要としない。
明らかな威嚇の上杉のピッチングに、三番打者の樋口はとりあえずバッターボックスに入るしかない。
(本気と言うよりは、怒りだな)
高校時代にわずかではあるが、上杉とはバッテリーを組んでいた。
またWBCの時にも念のために、少しはブルペンで投げてもらった。
これまでももちろんシーズンやプレイオフでの対決はあったのだが、この上杉は全く違う。
あの夏、最後の甲子園で投げていた、本当の上杉。
(初回からフルパワーで、最後まで投げられるのか? いや、中五日で投げられるのか?)
おそらく、この試合が終われば、少し長めに休みを入れるのだろう。
だがそれでも、上杉のストレートが圧倒的すぎる。
上半身が、ぐるんと回転するようなフォーム。
そこから投げられる球はまさに、砲丸のような破壊力を持つ。
樋口に対してもストレートのみで勝負。
スイングしても全く間に合わずに、空振り三振である。
まさか、直史に対抗しているのか。
だが直史は結果的に九球でイニングを終えたが、基本的には打たせて取ることも意識していた。
だが上杉は完全に、一人も打たせないという気迫を漲らせている。
「て言うか、まだ誰もバットにボール当ててないよな」
二回の表のマウンドで、樋口と話し合う直史である。
「完全に切れてるよな。173km/h三連発はどうにもならん」
単なるスピードだけなら打てるはずの樋口が、この弱音である。
「0進行の延長ありえるぞ」
「なら球数を抑えたコンビネーションを頼む」
今日もキャッチャーの方にリソースを割くことになりそうな樋口である。
四番を三球で内野ゴロ、五番を三球で三振、六番を三球で内野フライ。
三球ずつで片付けているのは、別に意識しているわけではない。
本当に省エネピッチングをするならば、二球目でしとめてもいいはずだ。
単純にスターズの打線が、二球目まではあまり打つ気がないだけである。
それを悟って楽に投げさせる、樋口も樋口であるのだが、平然と投げる直史も直史だ。
追い込んでからのボールが、本当に力の入れたボール。
カーブにしろストレートにしろ、ウイニングショットとして機能している。
ギアの切り替えを完全に行い、追い込んでからの球質を変えている。
そんな器用なピッチングに、一巡目のスターズは合わせられないだけだ。
「二巡目からは変えてくるだろうな」
「配球は任せる。今日は一点取られたら終わりになるかもしれないしな」
打撃陣への不信とも取れる台詞は、こっそりと樋口だけに伝える。
それを聞いた樋口も、別に反論はしたりしない。
今日の上杉は、投げることに狂っている。
(最後の夏、球数制限がなければ、この球を受けていたのか?)
樋口にとっては五年目のシーズンであるが、本気の上杉を対決するのは初めてと言える。
プロ入り一年目の上杉、あるいは対ライガースの上杉。
それを今レックスは、初めて体験しているのだ。
選手も入れ替わっているが、首脳陣も入れ替わっている。
一年目の19勝無敗であった上杉、クローザーとして無失点だった上杉を、知る者は少ない。
「おいおいおい、ちょっと待てよ」
「これで五連続かよ」
三振の記録が続いていく。
それもただの三振ではない。
二回の裏が終わったが、全打者が三球三振し、バットに掠りもしない。
「あれで最後まで投げられるのか?」
「あの人なら投げてもおかしくないな」
レックスのバッテリーはそう言って、あくまでも冷静にマウンドに登る。
七番、八番、九番と、直史のボールをジャストミート出来ない。
上杉の打球は高く上がったフライとなり、樋口がキャッチしてこの回は、最後の打者は二球でアウトに出来た。
三回の表までを終えた時点で、26球。
とても正気とは思えないピッチングをしているのだが、上杉はそれをも上回る。
樋口たちクリーンナップで打てないものを、下位打線が打てるはずもない。
バットにボールが当たることすらない、究極のピッチングが続く。
そしてバッターボックスに立つのは直史であるが、珍しくバッターボックスの隅っこには立たない。
打つと言うよりは見るつもりで、平均的なスタンスで立っている。
リリースした瞬間に、加速するように迫ってくるストレート。
通常ならばあるはずの減速が少なすぎて、そのように見えているのだろう。
(これに当てることが出来るのか?)
そう思った直史は、追い込まれた三球目、左手のみで保持したバットを突き出した。
完全に当てることだけを目的として、スリーバント扱い。
バットを弾き飛ばして、ボールはミットに収まった。
(当たることは当たるなら、打てないはずもないか)
当たりもしない三振記録は途切れたが、いまだに三球三振の記録は続いている。
ただバットを差し出すだけという、完全に当てることだけを目的としたプレイ。
バントですら当たらないボールであったはずが、当てるだけのことは出来た。
ベンチに戻った上杉は、周囲に尋ねる。
「佐藤はバッティングもそれなりに打ってたのか?」
直史というとピッチングの印象が強いので、どうしてもそちらばかり注目してしまう。
だがスターズの中にもちゃんと、甲子園や神宮で対決した選手はいるのだ。
「高校時代は甲子園でもそれなりに打ったましたよ。三割ぐらいは打ってたんじゃないかな」
「大学時代もピッチャーの割にはそこそこ打ってた印象がありますね。でもだいたいバッターボックスの奥でじっとしてましたけど」
ピッチャーというのはそもそも才能の塊なので、バッティングが優れていてもおかしくはない。
ただそれもせいぜい高校時代までが限界で、プロで両方に優れた選手はめったにいない。
桑田などはプロの試合で代打に出されることがあったが、甲子園でも五本のホームランを打っている。
直史はそこそこ長打を打ったこともあるが、基本的にアベレージヒッターであった。
入学直後の白富東は弱小であったので、少しでも打てるバッターは打っていく必要があったのだ。
プロ入り後には、打率は0である。
防御率と共に、すがすがしいぐらいの打撃放棄だ。
まあわずかでも死球などの危険性を減らすために、そうしているのだろうが。
最初からパ・リーグに行けと思うのは上杉だけではないだろう。
ただそんなピッチャーが、完全にバットを出して当ててきた。
当てることは当てられるのだと示すと共に、本当にただ当てるだけであった。
(バッティングセンスもそれなりにあるのかもしれないな)
上杉はそう思ったが、さすがにそれは買いかぶりである。
四回の表が始まる。
パーフェクトピッチングんなので、当然一番打者から。
スターズの芥は今度こそ粘っていこうとするが、追い込まれてからストレートで空振り三振をしてしまった。
「ストレートのギアが上がってきたな。追い込まれたら対応しなければいけないボールが多すぎて打てない」
下手に全てに対応しようとして、ストレートに振り遅れた。
二番の明石は普段の自分のポリシーからは逆だが、早打ちを狙ってくる。
だが直史はここで、スルーを投げた後に、ボールになるスライダーを使った。
これにバットが追いつかず、空振り三振。
上杉ほどではないが、直史も今日は三振を取ってくる。
堀越は内野ゴロで打ち取り、パーフェクト継続中。
そして一番からの好打順の、レックスの四回裏が始まる。
四回の頭に一番打者が回ってくるというのは、もちろん好打順なわけではなく、これまでをパーフェクトに抑えられているからだ。
粘っていくつもりの西片が、ファールチップで初めてまともなスイングでバットをボールに当てたことが、めでたいと言えばめでたいことであった。
ただし三振。
続いて緒方もボールに触れることなく三振。
11人連続三球三振であり、ボールにバットが当たったのも、わずか二人。
上杉史上最高のピッチングで、試合はスピーディーに進んでいく。
なにせ打った球を野手がおいかける必要もないし、ボール球を投げることもない。
たださすがに、このあたりで三振以外のアウトになっておかないといけない。
あまりにも低く、それでいて現実的な目標に向けて、樋口は遠い目をする。
彼は基本的に、柔のバッターだ。
年間30本もホームランを打ってしまって、スラッガーと思われることもあるが、あくまでも読みで打つタイプなのである。
そんな樋口にとって、単純に球が速いという上杉は、圧倒的に相性が悪い。
コースをどう投げてくるか、それぐらいしか考えられることはない。
いまどきの野球には反するが、バットを余して短く持って、テイクバックの位置を前よりにする。
これで当たらなければ、本当にどうしようもない。
ストレートばかりを投げてくる上杉だが、ものすごく速いストレートと、それよりさらに速いストレートを投げて、コンビネーションめいたものをやっている。
世界で上杉しか出来ないようなものだが、実際に出来てしまっているのだから仕方がない。
食らいついた樋口であるが、ゆるいゴロが右方向に飛んでファールとなった。
やっとまともに、ボールが一つ飛んだ。
スタンドからはざわめきがもれるが、これで喜ばれていてもどうしようもない。
結局は三振した樋口であるが、上杉に四球を投げさせた。
初めての三球三振以外であるが、それでも頭を抱えるレックスベンチである。
五回の表はスターズは、四番から積極的に打ってきた。
そして直史のツーシームやカットボールによって、わずか七球でスリーアウト。
三振を一つも奪わない省エネピッチングは、あまりにも上杉と対照的である。
さすがにそろそろ、本当に三振以外でいいから、打たなければまずい。
レックスもそう考えてはいるのだが、上杉のストレート押しに対抗できない。
174km/hMAXのストレートに、今度はチェンジアップを混ぜてきた。
これに絞れば、なんとか内野ゴロかフライは打てるはず。
だがそう思って待っていると、ストレートしか投げてこない。
自身の持つ連続奪三進記録を、余裕で塗り替えていった。
速い球と遅い球、そしてとんでもなく速い球。
上杉でなければ出来ない組み合わせだ。
そんな上杉に対して、ついに連続三振記録を止めたのは四番の浅野。
ファーストフライによって、やっと悪夢の時間が終わった。
ヒット一本すらない、パーフェクトピッチング。
だがレックス側は、ベンチも応援団も安堵してしまった。
そして三振は途切れたものの、そこから上杉は変化球を使ってくる。
もっともそれは打たせて取るというよりは、ファールを打たせてカウントを稼ぐというようなものであるが。
この回も一つの三振を奪い、五回までに13奪三振。
高校時代の奪三振マシーンに、完全に戻っている。
コールド勝ちの時は、全打者を三振で抑えたこともあった。
そんな化け物に対して、人間は無力である。
「Q.貴方は神を信じますか? A.神宮で見た」
それは直史が大学生時代、散々に言われてきたことである。
だがまさにこの対決は、神への挑戦に思えてくる。
六回の表、下位打線から始まるスターズの攻撃も、三振と内野フライであっさりと終わらせる。
そしてバッターボックスには、九番打者の上杉がいる。
高校時代には甲子園で通算10本のホームランを打ち、プロ入り後もピッチャーでありながら、毎年五本前後は打っている。
しかしこんな上杉であっても、カーブとスライダーのコンビネーションで粉砕。
ストレートに狙いを絞っていたのだろうが、狙い球が見え見えである。
六回の裏、いいかげんにヒットを打って欲しい。
下位打線では上杉を打てないことは、ほぼ分かっていた。
だがそれでも二者連続三振である。
バッターボックスの直史は、今度はかなり遠い場所に立った。
せめて少しでも情報を得るべしと、じっくりとボールを見ていく。
ドゴン!という野球のボールが出しそうにない音と共に、福沢のミットに白い線が飛び込む。
これは打つ方もだが、捕る方もしんどかったのでは。
予定調和のように三振はしたものの、直史は少しだけ考えた。
キャッチャーを攻めることで、ミスを誘発できないだろうかと。
具体的な方法などは分からない。
だがベンチに戻って首脳陣にそれを伝え、七回のマウンドに登る。
これはプロ野球の試合と思っていいのだろうか。
点の取り合いという、野球の根本的な原則が成立しない。
どちらも点を取られないどころか、打たれることすら少ない。
三巡目の一番からの攻撃を、直史はまたパターンを変えてしとめていく。
スライダーやシンカーの、ボール球を振らせる技術。
三振二つと、スプリットで内野ゴロに打たせた一つで、スリーアウト。
ここでもまたランナーが出ずに、観客は息を止めてそれを見守る。
緊迫した接戦と言うには、あまりにも静か過ぎた。
ほとんどを三振に取っている上杉もだが、直史もその打球が外野に飛んでいかない。
野球という名前は同じだが、全く違うルールで、二人のピッチャーは戦っている感触。
いつまでもこれは続くのではないか。
そう思っていた七回の裏、初めて樋口がボールをジャストミートした。
しかしそれはピッチャーライナーで、上杉は避けることもなくボールをキャッチする。
これは、いつになったら終わるのだ?
応援するはずの旗が止まり、時折悲鳴のように選手の名前が呼ばれる。
神宮球場だけが、まるで違った時間の流れで過ぎていく感覚。
それはテレビで観戦している視聴者も同じかもしれない。
この試合は間違いなく、アクションではなくホラーであった。
七回の裏にレックスがしたように、八回の表にはスターズが、バントの構えなどをして、ピッチャーを揺さぶってくる。
それに対して直史は、ストレートや変化球を投げ分けて、内野ゴロやファールを打たせて、カウントを稼いでいく。
上杉よりは間違いなく、直史の方がフィールディングは上手い。
セットポジションからのピッチングは、投げた後の姿勢も安定している。
ダッシュしてボールをキャッチし、確実に一塁でアウト。
そして高めを打たせれば、内野フライとなっていく。
八回の裏、レックスの攻撃もヒットに結びつかない。
そして九回の表、最後の攻防が開始される。
ただ、ここまでを見ていた者は、既に分かっていた。
この試合は九回では終わらないと。
いやむしろ、当然のように感じていた。
ラストバッターの上杉が、しっかりボールを打ったかと思ったが、その打球はファール。
追い込まれてからのスルーによって空振りし、これで27人完封。
一人の打者も出ない、静かな試合であった。
だが味方側も一点を取らなければ、試合は終わらない。
そしてパーフェクトの記録にもならない。
上杉の球が、マウンドからキャッチャーミットへと吸い込まれていく。
この期に及んでもレックスはまともにボールにバットを当てることも出来ず、スリーバントの試みは失敗。
ある程度の人間は最初から、そして中盤からはかなりの人間が思っていた展開が、決着しようとしていた。
究極と至高ピッチャーが本気を出しすぎると、こういうことになるのか。
ラストバッターの直史は、無理に自分のバットで試合を決めようとはしない。
ストレートを三つ見送ってスリーアウト。
両チームのエースがパーフェクトのまま、延長戦に突入である。
直史にとっては、今季四度目の、実質的なパーフェクトである。
一度目はリリーフで投げたため、パーフェクトとはならず。
三度目はパーフェクトで投げながら、途中で他のピッチャーに交代した。
そしてこの四度目は、間違いなくパーフェクトでありながら、試合の決着がつかないためにパーフェクトにはならず。
あくまでもパーフェクトゲームとは、勝利をした時点で成立するのだ。
ピッチャーの球数を比べてみると、直史が77球で上杉が85球。
全打者を三球三振でしとめたとしたら、81球で試合は終わる。
直史はそれ以下の球数で相手打線を封じ、上杉もほぼそれと同等の数字を残している。
それなのにまったく、試合の行方が見えない。
点の入る空気ではない。
上杉は24奪三振、直史も16奪三振と、奪三振数もすさまじい。
だがその内容を見てみれば、直史の方がバックの守備に頼ったかのように見える。
だが実際のところは、球数では直史の方が少ない。
あえてバックに任せる、という考えで投げているのだ。
どうせ点を取れないのなら、球数を抑えて投げるピッチングにした方がいい。
両軍合わせてヒットどころか、ヒット性の当たりさえ三本。
それも野手の正面に飛んでおり、どのみちどちらも点を入れることは不可能だったろう。
10回の表はまたも一番からの攻撃。
だが点が入る気がしない。
上杉を打てるとしたら、レックスは樋口しかいないだろうと思われた。
確かに一つ、ヒット性の打球は打ったが、それもピッチャー返しで上杉に受け止められた。
この10回の裏にも、どうにかバットには当てたが、内野正面のゴロでアウト。
12回で延長は終わることを考えると、この10回で決めておきたかったのはどちらも同じだ。
この試合は、確かにすごい試合ではあるのだろう。
だが面白い試合とは言えるのだろうか。
延々とアウトを取り続けるだけの進行。
ランナーさえ出ないのであれば、ベンチもまともに采配を振るうことがない。
12回の表、スターズの攻撃は上杉の空振り三振で終了。
そして同じく12回の裏、直史の打席では代打が出た。
もちろん打てることはなく、12回が終了。
両者無失点により、0-0で延長戦は終了した。
上杉は31奪三振、直史は23奪三振。
球数は直史が102球で、上杉が119球。
直史は全員を三球三振でしとめたよりも、球数が少ないという、異常事態であった。
だがこれでも、パーフェクトゲームの要件は満たさない。
ある程度の人間は、この結果を予想してはいた。
防御率から考えれば、0-0のまま終わるのは、予想の範囲内だったのだ。
しかしまともに打球を飛ばすことも出来なかった上杉に、超省エネの直史の球数。
どちらもが圧倒的におかしすぎるピッチングであった。
両者のピッチャーが延長最終回までパーフェクトを達成し、それがゆえに両者がパーフェクトを逃した。
後に、真なる唯一のパーフェクトとなる伝説の試合は、このようにして終了したのであった。
なお一度もエラーをしなかった村岡は、心の底から安堵した。
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