第25話 ピッチャーの立場から
ピッチャーから見た直史というのは、どういう存在であるのか。
あれは人間ではない、とよく言われる。
スターズの玉縄は、直史が人間であった頃を知っている。
一応は投げ勝ったとさえ思っている。
球速が140km/hを超えなかった高校二年生の夏。
だがその前の年の秋の、欠点を完全に補っていた。
体力不足である。
当時から既にドラフト上位指名間違いなしと言われていた玉縄と投げ合って互角であったが、最後はスタミナの差が出た。
しかし秋の課題を、その翌春には解決してきているのが直史であった。
結局のところ玉縄、そして本多などは、直史の成長をかなり身近で見ることが多かった。
最初からコントロールはよかったのだが、次には体力。
そしてその次にはさらなるコントロールと、さらなるスタミナ。
なぜプロの道に進まなかったのかとはよく問われていたが、高校を卒業した段階では、まだ球速が140km/h台前半しか出ていなかった。
それでも充分に通用しただろうが、玉縄などの目から見ると、完全な回り道をしていた。
元々、プロに進む気はなかったのだという。
だが大学入学後の成長曲線と数字を見れば、むしろ高校時代の伝説こそが、単なる序章にすぎなかったのではないかとさえ思える。
自分が大学の野球リーグに入って、当たり前のようにノーヒットノーランが達成出来るか?
無理だ。おそらく四年間を通じて、運が良くても二回程度だろう。
玉縄は球威があるが、それ以上に打たせて取るピッチングもするだけに、直史の異常さが分かる。
技巧派であるほど、分かりやすいのだ。
おそらくは現在のピッチャーにおいては、コントロールで最も優れている。
そのくせ速球も150km/hを出し、スピン量も高い。
(ミスをしない限りはとても打てないが……)
ミスをしないその最後の部分は、メンタルである。
直史はジンとセイバーの薫陶を受けて、正しい練習を正しい順番で行うことをモットーとしている。
ただその正しさというのは、自分の感覚を一番に考えている。
セイバーによる徹底的な検査により、下手に球速を上げるのは危険だと判断されれば、まずはスタミナをつけた。
そして球速ではなく、制球のために投げ込みを行った。
肩や肘は消耗品と言われるが、直史はそうは思わない。
個人差があるし、ある程度は投げなければ、実際に使う筋肉などは鍛えられない。
下手に筋肉だけを鍛えると、その力に腱や靭帯、そして軟骨などが耐えられないことはある。
武史がその肩の駆動域の広さから普通に投げられるボールを、直史は苦労してようやく投げられるようになったものだ。
球の出所が分からない。そういった部分なども、ピッチャーの投球術である。
セットアップからのクイックによるピッチングも、バッターの呼吸を見極めて行うものだ。
直史と対決するとき、バッターがどうしても力が入りきらないのも、そのタイミングの問題である。
結局野球というのは、エースが物を言うスポーツだ。
とは言ってもちゃんと間隔を空けるなら、その間にエース以外のピッチャーが負けるということでもある。
そうすると抜群の完封力を誇る直史は、確実に一年目から15勝を狙っていけると言われる。
樋口的にはもうちょっと、勝てるような気がするのだが。
開幕一ヶ月で既に五勝しているのだ。この調子でローテを全て完投していけば、打線の最低限の援護で、24勝ほどは出来るだろう。
以前の上杉の、26勝には体力的に届かないだろうが。
玉縄は六回までを一失点に抑えながらも、ここで降板。
その後にマウンドを引きついたピッチャーから、レックスは追加点を上げる。
三点差となって、これでさらにピッチングの幅を広げられる。
そして七回終了時点で、まだ一人もランナーが出ていない。
つまり、残り二イニングを抑えきれば、パーフェクトの達成である。
日本プロ野球史上、パーフェクトを二度もやった人間は一人もいない。
上杉あたりはもう一回ぐらいやるのではと思うが、もし達成したら、史上初の快挙になるのだ。
実はMLBでも二度のパーフェクトを達成したピッチャーはいないので、もしもこれが達成されれば、リーグが違うとは言え、アメリカでも話題になるだろう。
直史はワールドカップやWBCでも、公式戦無敗の男である。
特にWBCの、球数制限が厳しい中で、一人で決勝を完封した試合は、多くの野球選手が無視できなかったはずだ。
アマチュアの学生がプロに混じり、3Aやスーパーザブクラスのバッターを完全に封じ込める。
あれでMLB球団は直史に関心を持ち、そしてNPB球団より早く離れていった。
アメリカの方が人生の選択肢を複数持つ、ということに対して想像力が働いたからである。
弁護士になって稼ぐなら、その報酬は日本よりもはるかに高くなることがあるのがアメリカだ。
だからプロスポーツではなく、そちらを選ぶのだろうと。
それでも運命は直史を、野球の世界に引き戻した。
ベンチの中の雰囲気がぴりぴりとしてきた。
特にサード村岡は、明らかに様子がおかしい。
ここのところ、他の球団で野手がミスをするたびに、村岡かよ、などと言われていたことが影響しているのだろう。
本来は守備力の高いサードなのだが、佐藤兄弟のピッチングの足を引っ張ったという印象が強すぎるのだ。
サード方向には打たせたくないな、と樋口は考えているが、それだとコンビネーションの幅が狭くなりすぎる。
直史の隣に座って、小声で問いかける。
「右に打たせたいんだけどヒットになってもいいか?」
その質問に直史は首を傾げる。
「考えすぎかもしれないけど、サードに打たれたらまずいことになるかもしれない」
「……なるほど」
直史もそれは察知する。
パーフェクト記録が途切れたとき、本当に顔を青くして謝っていた村岡だ。
直史としては試合にさえ負けなければ、それで仕方がないとは思えるのだ。
野球は確率のスポーツで、プロの世界だとなかなかノーヒットノーランも出来ない。
ここで村岡の調子が落ちてしまうのが、チーム全体としては避けたいということか。
「お前がそう判断したなら構わない」
直史としてはチーム全体のことは、樋口にすっかりと任せている。
レックスに入って直史が感じるのは、樋口の存在の大きさだ。
単にその目の前の試合だけではなく、シーズン全体の流れを見ているようなことが分かる。
感情を見せず、チーム全体を見ている。
おそらくこういった人間が、プロの監督に向いているだろうと思うのだ。
大学にしても樋口の卒業後は、武史はほとんどノーヒットノーランをしていない。
キャッチャーとして傑出しているだけでなく、チーム全体を把握し動かしている。
村岡はサードのスタメンで、傑出してはいないが、穴のない選手だ。
今はサードを守っているが、内野ならばどこでも守れるというユーティリティ性に高い。
打順も五番までを抑えたピッチャーから、気の抜けた球を打つ六番。
替えがきかない選手と言うよりは、他の選手の穴を埋めることが出来るたいぷなのだ。
叩かれすぎて、調子を落としてもらっては困る。
それはあるいは直史の記録以上に、大切なことなのだろう。
八回の裏、右バッターの外に集中した球を、そのまま流し打ちされる。
追ったセカンドのグラブの先で、ボールは地面に着地する。
ヒットが出て、パーフェクトもノーヒットノーランも途切れる。
歓喜というよりは安堵のため息が、スターズのスタンドやベンチからは洩れた。
(すまんね)
(まあいいさ)
代わりと言ってはなんだが、このランナーは殺す。
そう思った樋口であったが、ツーアウトから出た六番打者が、そうそう走ることなどもありえない。
次の七番に代打も送られなかったことで、仕方なくバッター勝負となる。
3-0というのは、樋口から見れば安全圏の点差だ。
そしてこの点差であれば、コンビネーションの幅は広くなる。
結局は七番バッターを内野フライでしとめて、ランナーは残塁。
あとは九回を抑えればそれで勝利である。
樋口のリードが右バッターにとっては外に偏ったのは、スターズも気づいていた。
だからこそ外の球に狙いを定めて、ライト前へのヒットが打てたのだ。
だがそこからはまた、コンビネーションの幅が戻る。
まるで公式戦で、何かを試したかったかのように。
実際のところは、一人の野手の選手生命を、念のために守ったというものである。
わざわざそんなことまで考えて、試合を運ぶ樋口は大変である。
だが樋口に言わせれば、そんな状況でもヒットを打たれたことに動じず、後を切ってしまう直史の方が、メンタル面では意味が分からない。
九回の表には点は入らず、そして九回の裏。
また投げられる球種が多くなった状態で、直史は投げる。
スターズも下位打線には代打を送ってきたが、初対決となるような代打には、直史のコンビネーションは打てない。
結局は打者28人に対して、被安打一の99球で完封。
連続マダックス記録は継続中である。
ゴールデンウィークをはさむと、ピッチャーの登板間隔がずれる場合がある。
ここでもまた直史に、そのズレが当たってしまっている。
この間も中五日で投げたのに、また中五日か、とは思わないでもない。
だが他のピッチャーからしたら、一試合に100球も投げていないではないか、ということになる。
この調整というのは、先発としても難しいものなのだ。
人間であるからどうしても、バイオリズムには変化がある。
一応中五日と言われていた直史であるが、あまり気は進まない。
他のチームならばともかく、相手がライガースなのである。
上杉と投げ合う前に、大介との勝負が回ってくる。
四月の投手部門では直史が選ばれた月間MVPであるが、打者部門では大介が選ばれている。
打者部門では圧倒的に歴代一位の大介。
その大介を擁するライガースは、現在セ・リーグの二位にいる。
圧倒的な勝利を積み重ねると言うよりは、チャンスを確実にものにして、レックスは今年の成績を出している。
とにかく守備に関しては、ピッチャーの成績も含めて、五点以上取られた試合が五つしかない。
直史が全試合を完封しているというのが大きいが、他のピッチャーもかなり頑張っている。
先発が五回投げられなかった試合というのは、開幕戦の武史が、先頭打者の打球で交代した試合だけである。
だが得失点差まで見ると、かなり顕著な傾向が見える。
レックスは守備の堅いチームであるが、それでも得点が失点の倍以上もある。
スタートダッシュには、完全に成功した。
ライガースもいいスタートダッシュなのだが、レックスがそれ以上に隙のない試合運びをしているのだ。
直史は先発の翌日、軽く散歩などをしてから、寮に戻る。
関東圏の試合であると、寮から行けばいいだけなので、本当に楽だなと考えたりもした。
直史は次の先発に向けて調整をしているのだが、チームはフェニックスとの試合のために名古屋へ遠征だ。
その三連戦が終われば、戻ってきて神宮でライガースとの三連戦。
試合をするのはもちろんそれなりに大変だが、この移動の方がしんどいのではないか、と直史は思ったりする。
日本はまだいいとして、アメリカのMLBなどは、球団のジェット機で北アメリカを移動する。
連戦も日本より多く、ほぼ同じ期間で160試合以上の試合を消化する。
しかもチーム数も多いため、あちこちを飛び回ることになるのだ。
地元大好き人間ではないが、極めて保守的な考えをする直史としては、地元の人に愛される野球をしたい。
ただ直史にとっての地元は、やはり千葉なのである。
東京は確かに五年間以上も住んでいたが、人の集まる場所ではあっても、地元感はあまりない。
それでも神宮球場に対しては大学以来の結びつきで、本拠地という感覚は強い。
一軍選手で主力の直史であるが、試合のない日は神宮ではなく、埼玉の戸田グラウンドか、寮に隣接した室内練習場で、練習をすることが多い。
投げるだけなら室内で、それもキャッチャーも座らせずに投げてもいい。
人間相手に投げないと鈍るという人もいるが、直史は元々、壁に向かって延々と投げていたのだ。
フィールディングに関しては、さすがにノックを受けるしかない。
中学生の頃から、敵のバッターには打ち損じのボールを打たせて、自分が捕る。
そういったことをずっと続けてきたので、直史は守備も自然と上手くなった。
三振を奪えるピッチャーは、パワー頼りで守備が疎かになることもある。
上杉などはその弱点として、フィールディングが上げられるぐらいだ。
別に下手なわけではないが、他の全てが傑出しているだけに、強いて言うならそこが弱点に見える。
直史は弱点をなくしていく。
自分の武器は、とんでもないストレートが、分かっても打てない変化球ではない。
コンビネーションだと思っているから、弱点を潰していく。
まして次の登板は、大阪ライガース。
現在でもリーグナンバーワンの得点力を誇っている。
そしてその要因としては、打率やホームランの数でも一位なのだ。
大介と西郷の二人で、100本以上のホームランを打っていく。
三番から五番までで、150本近くのホームランになるクリーンナップなど、他にはない。
それに打率や盗塁を含めて、とにかく大介をどうにかしないと止まらない。
(やっとなんだよな)
シーズンオフの練習には、付き合ったことがある。
だが公式戦となれば、そもそもあの準公式戦とでも言える、壮行試合しかない。
高校の時も何度も、紅白戦であれば対決した。
だが練習試合と公式戦では、やはり違うのだ。
中五日。それは確かにいつもとは違う調整になる。
だがそれを言い訳にするほど、消耗してはいないのだ。
やっとだ。
全ての力を使い尽くして、それで勝てるかどうか。
パーフェクトだの完封だの、そういったことさえも求めない。
純粋に試合に勝つことだけを考え。そしてその中で、大介には打たせない。
(やっとだ)
感慨に耽る直史であるが、大介はその日の夜もまた、調子よくホームランを打っていたりする。
ライガースの試合はネットチャンネルの配信で見る。
珍しくもと言うか、一人で生放送で見る。
四月度は14本も打っていた大介は、今年こそ70本を打ってくるのか。
五月に入っても調子よく、70本のペースを落とさないらしい。
こいつが、自分をプロの世界に引きずり込んだ。
誰もが認める、日本で最強のバッター。
それがわざわざ、もう野球から遠ざかっていた直史を、誘った理由。
(俺からは一点も取れてないと思ってるのか)
バッピをしている分には、いくらでも打たせているのだが。
対決の日は近い。
そしてこの対決こそ、もはや直史が意識的に捨てた、バッターの恐怖との対決になるのかもしれない。
プロに入って初めて、直史は全力で投げることになるだろう。
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