第8話 約束された日

 佐倉法律事務所には、五人の弁護士が所属している。

 言うまでもなく瑞希の父である所長に、その後輩弁護士が二人。

 独立しないのと聞いても、弁護士のくせに書類手続きなどがめんどくさいと、そのまま基本給と成功報酬インセンティブで、それなりの生活を維持している中年が二人。

 あるいは瑞希の父が引退したら、そのまま事務所を譲ってもらおうと考えていたのかもしれないが、瑞希が弁護士を目指し、婚約者を作った時点で、その夢は絶たれている。

 それでも一国一城の主とならないのは、純粋に居心地がいいからであろう。

 ただし街の弁護士であるからには、そうそう大きな案件は入らない。


 直史と瑞希が入ってきた時は、なんでこんなところにこんなやつが、とは思った。

 弁護士になる側ではなく、弁護士を雇う側ではないのかと。

 ただ普通に優秀ではあったため、まあこの夫妻が弁護士であるなら、自分たちも高齢になるまで勤めるか、などと思ったものである。

 佐倉法律事務所には、定年というものは存在しない。

 退職金制度はあるが、この二人が辞めない限りは、そうそう使うこともないだろう。


 などと色々と考えてたら、瑞希は妊娠して離脱するし、直史は何やら特殊な案件を抱えている模様。

 弁護士は同じ事務所の人間相手でも、守秘義務があるので教えなくてもいいのだ。もちろん所長は把握しているのだろう。

 どうせプロ野球選手の離婚調停か何かかと、ずっと思っていた。プロ野球選手の中でもトップレベルの選手と、直史はつながりがあるのだから。


 その日も、直史は朝からいなかった。

 佐倉法律事務所の人員は、弁護士五名に常勤の事務員が二名、そして時々アルバイトで法学部や大学院の学生を雇うことがある。

 だがこの日は見知った顔ばかりであり、少し外にでる用事がある者もいた。

 朝には所長からの伝達があった。

「今日は夕方から色々と電話がかかってくるだろうから、連絡の必要がある人には、顧客用の電話番号を伝えておいて」

 少し不思議な指示であったが、それをわざわざ追及する者はいない。

 そして夕方になると所長は、事務所の一画にあるテレビをつけた。


 チャンネルを変えると、そこではプロ野球のドラフト会議が始まろうとしていた。

「ああ、今日がそうでしたか」

「佐藤君、ドラフト候補だったんですよね?」

「いや候補どころか、プロ志望届出したら、全球団から一位指名受けてもおかしくなかったんだけどね」

 またまた、という顔をする従業員だが、千葉県がとんでもないことになっていたのはもう10年近く前だ。

 普通に甲子園に優勝しただけでは、あんなことにはならない。

 思い出して言葉を飲み込む。


「野球といえば、最近やってませんな」

「また町内会の人誘って、試合やりたいねえ」

「佐藤君投げたら誰も取れないから、壮絶に無駄だよね」

 打てないのではなく、捕れないのである。

 草野球としては、当然のレベルだ。


 所長はそんなに野球好きだったかな、とは思いつつも、実は三人とも野球経験者である。

 事務の女子二人は、全く興味はないのだが。

 ただ大学時代の直史は、色々とやらかしすぎて有名になっていたので、その顔を実際に見たときは驚いたものだ。

「お、始まるな」

 司会者がドラフト指名の選手を読み上げていく。

「これってどういうものなんですか?」

「来年からほしい選手を、チームが指名していくんだよ。一位指名は複数のチームが指名したらクジ引き」

「へえ、じゃあ佐藤君もまた呼ばれたりするんですか?」

「いや、さすがにそれはないよ」


 何も知らないということは、幸せなことである。

『えっ……ん、失礼しました』

 テレビの中でプロの司会者が、そんな声を発していた。

 来るな、と思っていたのは、日本の中でも本当に数人。

 わずかに震える声で、読み上げる。


『第一巡希望選択選手 大京レックス 佐藤直史投手 佐倉法律事務所』


「え?」

「え?」

「え?」

「なんか佐藤君呼ばれてますよね?」

「うちの佐藤君?」

「法律事務所だから、うちの佐藤君ですよね」

 画面を見つめる所長は、それに答えようとはしなかった。




 その瞬間の会場内のざわめきは、控えめに言うこともなく、すごいものであった。

「なんでだ!? 佐藤はもう野球は辞めたはずだろ!?」

「いや、地元のクラブチームに入ってはいたはずだけど……」

「まだ投げられるのか!?」


 自分が仕掛け人の一人とはいえ、またとんでもない騒ぎだな、と鉄也はどこか他人事であった。

 息子を通じて話されたので、この件は本当にほとんどの人間が知らない。

 球団内部の人間でさえ、そう同じスカウトさえも知らないのだ。


 知っているのはスカウト部長、編成部長、GMに自分の、ほんの四人だけ。

 それを一位指名する理由はあるのか、もっと下位でも取れるのではとは、何度も議論された。

 だがどこからか洩れて、二位でも指名されたら、そちらに持っていかれるのは間違いない。

 大金がいるのだ。

 ならば一年待つなどという、悠長な考えは通らない。


 一線級の舞台からは、もうずいぶんと退いている。

 だが弟である武史以外にも、白富東の出身選手などが、オフの間にはかなりバッピとして世話になっているのは確かだった。

 そしてその能力は、少なくともバッピとしてならば、ほとんど落ちていないだろうと、去年の段階では言われていた。

「佐藤のコメントを求めろ!」

「佐藤は今どこにいるんだ!?」

「法律事務所ってどういうことだ!?」

「いやそれより、レックスはどういうつもりなんだ!?」


 プロ野球ドラフト史上、最強の隠し球。

 かつてのエースがその限界までの球を、まだ投げることが出来るのか。

 それを調べるために、マスコミ各社は動きだす。

 だが直史の居場所を、知っている者がいない。


 ドラフトはまだ続いているのだが、マスコミなどからの騒音が多く、司会も中断する。

 会場から出入りする者が多く、特にマスコミは半狂乱になっていた。

 収拾がつかない状態で、司会からのマイクを奪ったのはセイバーであった。

『会場の皆さん、佐藤直史選手については、SBC千葉にて記者会見を行います。夜七時からを予定していますので、それをお待ちください』

 かなり会場の音量は下がったが、まだ囁く者はいる。

「あの発言、つまり事前に接触してたってことか」

「タンパリングじゃないのか?」

「いや……佐藤はアマチュア社会人扱いのはずだ」

「野球連盟との関係はどうだった?」


 まだ一位指名が全て明らかになったわけではない。

 なのでセイバーとしては、完全に安心してはいないのである。

 だが、他に直史を一位指名する球団はなかった。これでやっとレックス関係者は肩の荷をおろせる。

 それはほんの一時休憩に過ぎないのだが。

「それでは私は会見の会場へ」

「頼みます」

 セイバーは席を外して、直史の案件に集中する。


 ドラフトがまだまだ続く。

 だがその話題は、既に一つのことに埋め尽くされていた。

 ちなみにレックスは第四位で、小此木を指名することに成功する。

 もっともその指名された小此木は、喜びよりもむしろ、直史が指名されたということで、頭が一杯になっていたが。




 現役選手の中で、直史のこの選択を知っていたのは、大介一人である。

 だが他の全ての因縁を持つ者たちが、驚愕すると同時に奇妙に納得していた。

 来たか。

 終わっていなかった。

 待っていた。

 今度こそ。

 聞いてないよ。

 身内でありながら、完全に蚊帳の外に置かれていた者もいたが。


 樋口は数える。

 相棒であり、同じレックスに入るものでありながら、全く知らされていなかった。

 情報の漏洩を最大限に防いでいたことであるだろうが、それはそれとして色々と考える。

 もし直史が、弁護士になってからプロに挑戦するなら、最短で去年のドラフトでもよかったはずだ。

 ドラフトで指名されてから司法修習を終了し、次の、つまり今年の春からプロで。

(それだと鍛えなおしている時間がなかったからか?)

 直史からは何も聞いていない。

 一月からの新人合同自主トレで、直史ならばなんとかならなかったのではないだろうか。

 いや、そもそも去年の時点ではまだ、プロに来る気などなかったのか?


 何か事情がある。

 自分にも知らせなかった事情は何か。

 それはこの後の記者会見で、明らかになるのかもしれない。

 新人合同自主トレに、割り込んで参加するつもりが満々の樋口であった。




 無言のまま、テレビを睨み続ける大介。

 周囲には他にも、暇つぶしのようにそれを見つめている、老若男女がいる。

 大介の両の拳は、強く握り締められていた。

 待っていたのだ。

 本当の、本気の、勝つことに真の意味がある、この対決を。

 大事な試合ではおおよそ味方であり続けて、本格的に対決したことはない。

 そしてその対決では、ほぼ完全に自分が負けていると言ってもいい。


 ここからが本当の勝負だ。

 プロという世界。あるいは本当の対決は、プロでないアマチュアでなければ、色々と介在することがあったのかもしれない。

 だが直史は大学の頃から、明確にプロ意識というものを持っていた。

 本気の直史と、大舞台で戦う。

 大介がずっと夢見てきて、そして夢のままに終わりそうであったものだ。


 そんな大介を、わざわざ呼びに来てくれる看護師がいる。

「白石さん、もうすぐ産まれますから、着替えてくださいね」

「あ、はい」

 大介の長男は、このドラフトの日の夜に生まれることになる。




 スマートホンに数々の着信があって、武史は混乱していた。

「どうしたの?」

 エプロン姿で夕食の準備をしようとしていた恵美理は、それに対して普通の質問をする。

 武史はメッセージを見ながら、テレビのチャンネルをつける。

 ドラフト会議は、ちょうど一位指名が全部終わったところだった。


 レックスが一位で、直史を指名している。

 カクン、と顎を落としてから、武史は兄との連絡を取ろうとする。

 だが電話がつながるとは思えない。なので家族間用のアドレスへと送る。

『兄ちゃん、プロに来るの?』

『ああ』

 メッセージが返ってくるのはずいぶんと速かった。


「お義兄さん、指名されたの? でもプロには行かないって」

「今確認したら、来るんだって。俺の後輩になるのか……」

 なんだかとんでもなく、奇妙な感じがする武史である。

 どういうことなのか、と二人は少し話し合いたい気分になったが、それを妨げるのが赤ん坊の声。

「この泣き声はオシメかなあ」

「お願いしてもいい?」

「うん、料理の方に集中して」

 我が子をあやすことに頭がいっぱいになり、すぐに兄のことを忘れる、はなはだ薄情な弟であった。




 左手でくねくねと動き回る我が子をあやしていた上杉は、驚きと共に喜びがあふれてくるのを抑えられなかった。

 その扱いがぞんざいになっているのを見て、明日美は太い腕から、それを救出する。

 上杉がここまで何かを気を取られるのは珍しい。

 感情を分厚く隠すその瞳が、炯炯と輝いている。


 これは喜びだろう。

 明日美にとって直史は、親友の夫の兄であり、微妙に近くも遠くもある関係性だ。

 だが実際のところは、それなりに会ったことが多い。何より同じ球場で、投げ合って戦った仲だ。

 それも含めて妹とも、接触は多かったので。

 子供が生まれてからは、やや疎遠になっているが、恵美理の方にも生まれてからは、また共通の話題が増えた。


 上杉は、直史とまともに勝負したことがない。

 国内の代表戦など、準公式戦などともいう試合で投げ合ったことはあるが、本格的には投げ合っていない。

 プロなのだから、金にならないところで無駄に投げてはいけない。

 あるいは、観客がいないところで投げてはいけない。

 そういう判断を上杉はしていたが、ずっと考えていたのだ。

 日本で最高のピッチャーは、世界で最高のピッチャーは、本当に自分でいいのかと。


 国内では、一シーズンや一時期は、他のピッチャーに負けることもある。

 だがおおよそ、上杉の方が明らかに上であると言われる。

 直史とは、比べあう機会がなかった。

 甲子園での記録だけなら、基準が微妙に違うのだ。

 一年生から甲子園にチームを連れてきたのは、確かに上杉である。

 だが上杉は一度も、優勝は出来なかったのだ。


 直史はその最終学年で、神宮から国体まで、全てを制覇した。

 チーム力の違いはあるが、その後の大学野球で残した実績は、まさに空前絶後のものだ。


 武史は案外あっさりと、チームの勝利を優先して、上杉との対戦を避けてくるきらいがある。

 その点では本多や真田の方が、正面から対決してくることは多い。

 海外に目を向ければ、上杉は国際戦無敗である。

 現役バリバリのメジャーリーガーが出てくることは少ないと言っても、上杉から全く打てなかった選手が、次の年にはメジャーで普通に通用していたりする。

 上杉が唯一、勝利を確信できない相手。

 大介とはまた違った意味の好敵手が、ついに相応しい舞台へと上がってきた。

 これほど嬉しいことはない。




 多くの野球人が、それを待っていたし、もしくは恐怖していた。

 特に同期で、同じ六大学リーグであった者などは。

 開幕の時点で26歳の直史は、間違いなくオールドルーキーだ。

 さすがにこれから、各種の投手記録を抜いていくことはないだろう。

 だが、その短いであろう選手生活で、何を残すのか。


 SBC千葉のミーティングルームは、多くのマスコミを収容していた。

 こんなに多くなるなら、近くの会館などを借りたほうが良かったかな、とセイバーは考えている。 

 現在は仕事着であるスーツに身を包んだ直史は、やはり野球選手らしくはない外見をしている。

 なんだかんだ言って直史は、高校からクラブチームまで、仕事着としてユニフォームを着たことはない。

 クラブチームは、直史の仕事ではなかったのだ。

 だがこれからは、ユニフォームを着て、取材に応じることが多くなるだろう。

 スーツのネクタイの感触が嫌いな直史は、そこだけは嬉しいかなとは思っている。


 午後七時となった。

「準備はいい?」

「はい」

 正確にはどうにも、気分は乗らないのであるが。

 待っていたとしても、変わることはないだろうと考える。

 直史はセイバーと共に二人で、会見に臨む。

 入室した瞬間から、多くのシャッターが写真を捉えてきていた。

 どうせ使う写真は、もっと後のものであろうに。


 臆したわけではない。直史にはそういった部分でプレッシャーを受ける神経はない。

 ただマスコミの無遠慮な視線に晒されるのは、昔と変わらず嫌いなのだ。

 変につきまとってくるやつがいたら、次々に迷惑防止条例やストーカー規制法で、訴えてやろうかと考える直史である。

 戦う弁護士というのは、恐ろしいものであるべきだ。


 直史がマウンド立つのは、翌年のシーズン。

 だが実質的なプロ野球選手としての直史は、この日が誕生日であったと言っていいだろう。

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