融雪の騎士

 ラインの屋敷での暮らしは、実に平和なものだった。


 子どもたちに囲まれてうろ覚えのおとぎ話を語ってやったり、ラインに請われて槍での戦い方を教えてやったり。農民たちの為に魔獣を少し脅して、森へ逃げ帰らせたりもした。

 長く同じ場所に留まっていれば、人々は守護すべき一つの集団ではなく、守護すべき個々人へと認識が変わり、投げかけられる感謝の言葉に実感が湧いた。

 必要とされているのを実感するのが、こんなにもこそばゆいものだとは思わなかった。

 楽しい。そう、純粋に楽しかった。


 ラインは毎日性懲りもなく不器用に私を口説いては、すっ飛んできたセクントゥスに噛みつかれている。

 ある時など、私に差し出した花を横からすかさず食べられてしまった。歯を剥き出して逃げるセクントゥスと、プンプン怒りながら追いかけるライン。


 その光景があまりに面白くて、私は数年振りに声を上げて笑った。すると、足を止めて振り返った彼は本当に嬉しそうな微笑みをするのだ。


 その優しい緑の瞳を見ると、私は何故か言い様のない胸のざわめきを感じる。居心地の悪さにも似た、奇妙な高揚感。

 それを味わう度に、私は欠けていたものが埋められたような満足を得られた。


──────────────────────


 屋敷の庭で遊ぶ子どもたちは、ラインの一族だけでなく、平民の子も難民の子も入り混じっている。


 彼らが何の屈託もない笑顔で跳ね回っているのを見ると、私は常々、良き国の幸せな民というのはこうあるべきなのだろうな、なんて思う。


 いつも、ラインに槍と騎乗のレッスンをしていると、子どもたちがこちらをじっと遠目に見に集まってくる。飽きっぽい子どものことだから、すぐにパラパラ去っていくのだが、一人いつまでも残っている、十か十二かというくらいの男子がいた。


 彼の存在に気づくと、ラインはにこやかに手を振る。そうしてようやく、その男の子は気が済んで帰っていくのだ。


「弟のユーウェインです」

「似てないな」


 黒髪ではないし、兄に比べて骨格からして華奢に見える。兄弟だというなら彼もいつかは騎士になるだろうが、その時にはきっと随分と違った様になるに違いない。


「血の繋がりがありませんから」

「養子か?」

「内乱が始まってすぐの頃、父が預かってきた子です。実の親については私はよく知りません」


 私に懐いて可愛いんですよ、と目を細める。

「剣も勉強も飲み込みが早い。素晴らしい騎士になると思います」


 似たような境遇で良い思い出のない私は、少し眉をひそめたが、しかし、ここの人々に育てられれば私のようにはなるまいと思い直して首を振った。


「あいつが騎士になったら私がもっと鍛えてやろう」

「はは、ぜひ厳しくお願いします」


──────────────────────


「ライン卿、私は名前が欲しい」

「名前…………ですか?」


 ラインの二十四回目のアピール。手紙を一生懸命書いてきたものの、取り出したところでセクントゥスに体当たりされ、勢いで手放し池に落としてしまった。


 そのまま池のほとりで二人と一頭、座り込んで水鳥が泳ぐ様子を眺めていたとき、私はふと、彼におねだりをしてみようという気分になった。


 私は自分の名前を覚えていない。拾われ子の私にとっては、エルリンテンという家名すらも偽りのものである。だから、彼に呼んでもらうなら、私だけの名前をつけて欲しいと思ったのだ。

 そう伝えると、彼は押し黙ってしまった。


 変なことを言って困らせてしまっただろうか。不安になりながら、彼の言葉を待っている。



「アステリア」



 ぼそり、と呟かれた言葉に目を瞬く。

 ラインは心底恥ずかしそうに、やや早口になって言った。


「ええと、アステリアというのはこちらの方言で『燃え盛る閃光』という意味の古い言葉でして、伝承では水の女神に付き従う、雷の精霊の名でもあります」

「何故、それを?」

「貴女は一見雪のように冷たく見えますが、全てを焼き尽くすような熱情を内に隠し持っておられる。人を魅せ、それでいて何人も寄せ付けぬ様は雷の如くでありましょう」


 私も含めて、貴女を捕まえられる者など誰もいないのです、と騎士は締め括った。

「いかがですか?」

「良い言葉だ。名前負けしないよう、精進せねばなるまい」


 私がそう言うと、ラインは私の顔を見つめ、手を取って良いか、と訊いた。よく分からないままに許可を出す。すると、彼は私の手に、白銀の篭手の上から口付けをした。


「貴女はとても美しく、気高く、そして強い。私はそれが────とても悲しい」


 その表情があまりにも切なそうで、見ているととても苦しくて、それで私は、自分が彼に恋したことに気がついた。

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