プロローグ②「英雄たちの、その後」

  ✻



 20◯◯年4月7日。


 吹き抜ける暖かな風に乗り、満開の桜の花弁が一つ、また1つと人が歩く通りへと落ちていく。まるで、これから新生活を迎える人達へと「頑張れ!」と応援するように。


 ひと際賑わいをみせる学校の校門前。

 そんな学校から少し離れたお寺へと、朝から赴く1人の少女の姿があった。


 肩から真新しい鞄を下げ、着崩してもいない新品の制服を着用しているその少女は、水の入った手桶、柄杓ひしゃく、それから線香と花束を持ち、ある墓の前でしゃがみ込む。


「……1週間ぶりだね、お爺ちゃん。元気にしてた?」


 優しい声で少女はそう語る。

 彼女の名前は『遠藤えんどうほのか』。今年から中学1年生となる、どこにでもいる普通の少女だ。


 そんな彼女の目の前のお墓には『遠藤信也しんや之墓』と彫られていた。


『遠藤信也』――ほのかの叔父であり、約九年前にその短き命を終えて天国へと旅立っていった。ほのかは実の両親や姉・兄と何かをするよりも、信也と遊ぶことが大好きだった、生粋きっすいのお爺ちゃんっ子だったという。


 だが、ほのかに

 何しろ叔父が無くなったのは、ほのかがまだ3歳の頃。当時、どのような気持ちで叔父のことを見守ったのか、そのときの自身の感情がどう動いたのか……その全てを忘れているのだ。


 まるで、あのときから感情の一部が欠けてしまったかのように。


「お爺ちゃん。今日から私、中学生になるんだよ! 受験する前にも言ったと思うけど、理科のテストが絶望的だったんだよ……正直、通えるって事実にビックリしてるもん。2人みたいに、突出した『才能』なんてないからさぁ。かと言って、同じ学校に通えないなんて嫌だったし。だから、必死に2人から勉強教えて貰って、頑張ってここに入ったんだぁ! 本当、2人に感謝しないとね。それで、今日が学校の入学式なの。今は簡単に掃除とお花だけ生けちゃうね。帰りにまた寄るから!」


 そう言うと、ほのかはその場を立ち上がって掃除に取り掛かる。

 登校中、それも入学式前にここに来ては、叔父の墓参りをする。これが、遠藤ほのかのルーティーンである。


 記憶の中の叔父がどれだけ優しかったか、どんな人だったかも覚えていないというのに、心の中にはいつも叔父がいる。周りからは『少し変わった人』と偏見を持たれていたらしいが、ほのかにそんなものは関係ない。


 彼女は、自分で信じたものだけを信じることを信条としている。


 ――自分の中にいる叔父が本物。それだけだからだ。


 実の叔父がどんな人だったかは覚えていなくとも、心の中に根付いた『記憶おもいで』だけは確かなる証明だ。少なくとも、ほのかにとっての確証は。


「……ふぅ。こんなもんかな」


 一息を入れ、ほのかは額の汗を拭う。

 清掃された叔父のお墓を一瞥し、急いで片づけの準備へと差し掛かる。一通りの片づけを終えて、鞄と荷物を持ち、改めてお墓の前に立つ。


「……行って来ます!」


 目を優しく見開いて、ほのかは叔父のお墓に背を向け、この場を後にする。


 当然ながら、ここは死者達が安らかに眠るお墓。彼女の言葉に対して『行ってらっしゃい』と言葉を発して見送る者など存在しない。

 ……だが、そんな彼女の背中を見守る“もの”がいないとは言っていない。


 ただし、ここではない。彼女自身も覚えていない叔父の魂を受け継ぎ、そっと側から見守るような存在となった――そんな、まか不思議な『愛犬』が存在することなど。


「ワン!」


「……あ、シンヤ! どうしてこんなところにいるの? さてはまた脱走してきたわね?」


「くぅん……」


「ご、ごめんって。冗談だから。……何となくだけど、私にはわかるよ。あまりにも通学路を通って行かないから、心配して来てくれたんだよね。ごめんね、ちょっとお爺ちゃんに報告することが多くてずっと話し込んじゃってた。ありがとう、迎えに来てくれて!」


「ワン!」


 ほのかは腰を落として、愛犬の声を優しい顔で受け止める。

 そんな彼女にモフモフの尻尾を振るのは、茶色の毛皮が特徴の柴犬――今年で3歳となったほのかの愛犬『シンヤ』だった。


 よく家から脱走しては、何故かこうしてほのかの元へと駆け寄ってくる少し変わった犬だったりする。というのも、シンヤは元々捨て犬状態だったのをほのかが発見し、現在は遠藤家の飼い犬として暮らしているのだが、そのときの恩返しなのか、家族よりもほのかのことを異常なまでに好いているらしい。


「あっ! こうしてる場合じゃなかった! シンヤ、先に帰っててね。帰ったらお爺ちゃんのお墓参りついでに散歩行こうね!」


「ワン!」


 シンヤの元気溢れる声を聞き届け、ほのかはその場を立ち上がって走り出す。

 その真隣を占拠するように、シンヤが並行して駆ける。どうやら、家付近に戻るまでほのかを見送るつもりのようだ。


「……まったくもう、シンヤったら」


 少し呆れながらも、満更でも無さそうな表情を浮かべるほのか。

 そして、そんな彼女を真横で見上げ、楽しそうに地面を颯爽さっそうと走るシンヤは……、


「(中学生か……早いもんだな)」と、誰にも聞き取れないほどの声量で呟いた。だが聞き取る聞き取れない以前の問題として、そもそも犬の言葉など、人間にはわからない。


 けど、それでもいい。


 前世でやり残した『孫の成長』を見守ることが出来るなら……それで。と、シンヤは胸の内にその言葉を秘める。



 ――そして今日もまた、シンヤは、ワンと鳴く。

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