ある特定の物事に対しての解像度が高すぎるあまりフィクションが楽しめない

 十年ほど前、小説家になろうで「検証『きさらぎ駅』」という日記を書いたところまとめサイトに取り上げられた。(きさらぎ駅関連の記事を検索するとおそらく私の日記を元にしたと思われる記事が結構ヒットする)

 要するに「地元民の目線的には細かい部分での矛盾が目立ち、創作だということが一発で分かってしまう」という内容だった。

 引用元の日記が文章が下手クソすぎて読んでいると悲しくなってくるレベルなので内容をここに要約すると、


・「静岡県の私鉄です」「新浜松からの電車です」というと遠州鉄道の赤電だと確定するので隠す意味があまりない(は離れた場所にあり、浜松市民は遠鉄の新浜松駅のことを「浜松駅」と呼んでも、JR浜松駅と遠鉄バスターミナルのことを「新浜松」と呼ぶことはない)。おそらくスレ主はと私鉄の遠州鉄道が管理するが同じ場所にあると思ったか、そこまで気づいていなかったかのどちらか。

・新浜松駅から出ている路線は各駅停車の赤電一本のみで、「特急とか各停とかの違いじゃないの?」という指摘に対して「ご指摘どおりに乗り間違えた可能性もあるかもしれませんね」と答えてしまっているのが怪しい。

 加えて「いつも通勤に使っている電車なのですが先ほどから20分くらい駅に停まりません いつもは5分か長くても7,8分で停車するのですが停まりません」というのもおかしい。赤電は各駅間の所要時間はせいぜい1分半~2分。

・スレ主が静岡県のことをあまりよく知らず・調べずに創作した結果こうした矛盾が生じたのでは。


 という内容だった。

 まあ、「きさらぎ駅」が割と有名な都市伝説なので、この考察もそれなりに有名になったように思うが、今思うと「矛盾を指摘してやったぜ。へへへ」と得意げになっていただけのようにも思える。

 実際、上記の内容は浜松市民ならだれでも分かるようなことで、知っていたからと言って偉いわけでも何でもない(私は電車オタクでもないので東京や大阪でいい例えが思いつかないのだが、「新宿駅から新幹線に乗って、五時間で京都についた」とか「阪急梅田駅から新幹線に乗った」とかそういうレベルの間違い)

 

 こういうある特定の物事に対して詳しいせいで細かい部分でのアラが目についてしまいフィクションが楽しめなくなる、ということは往々にしてよくあると思うのだが、そういうときに一々「これはこんなにも間違ってるんだ」と声高に騒ぎ立てるのもどうかと思う。


 例えばさっきの例に話を戻して、私がきさらぎ駅のスレ主に対して「浜松のことを何にも知らないくせに適当なこと書きやがって」と怒ったらどうだろうか。浜松市民でもない人に地元民と同じレベルの理解を求めるのはあまりにもバカらしくないだろうか。よほどの鉄道オタクか地理オタクでもない限り、そんなことを知っているはずもない。

 フィクションというのはそもそもある程度大勢の人に向けて書かれているので、一部の人間しか気づかないような事柄にまでは配慮が足りないこともあるだろう。

 そこに怒りを感じるのは個人の自由だが、「それを他人に分からせよう」というのは「浜松市民でもないのに赤電の各駅間の所要時間正しく把握してほしい」というぐらいムチャだと思う。

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