理想を望み挑むは、強欲の障壁

神﨑らい

理想の壁


「お人好しは喰われるらしいぜ」

 同僚の羽崎が吐いた言葉が、嘲笑うように脳裏を跳ね回っていた。

 壁を越えれば幸福が手に入る――地元の鍾乳洞に昔から伝わる噂だ。まず、東の鍾乳洞へ入る。望む理想を胸中で反復しながら、壁に手を這わせて奥へと進む。擦り付ける手のひらの皮膚が剥けても、突起に引っ掛かり肉が抉れても、壁から手を離してはいけない。

 そうやって進み続けていると、誘われた者だけが鍾乳石の壁をすっとすり抜けることができる。壁を抜けた先は願望を挑む空間で、試練の壁を越えれば欲望のままに理想を手にできる、と。

 それが水面下で地元に伝わり続ける噂だ。

 試練の壁は越えられない、だから鍾乳洞へ行ってはいけないよ――幼い頃から、誰もが口を酸っぱく言われ続けたことだろう。それでも毎年行方不明者が出るのだ。きっと、試練を受けるために鍾乳石をすり抜けたのだ。

 行方不明者の帰還はないから、誰も壁を越えられていないのかも知れない。越えて、望む能力を手にし、姿を眩ませただけかも知れない。いや、そんなことの前にまずは、鍾乳石の壁をすり抜けるはずがない。きっと一度も手を離さず壁沿いに進み続けると、引き返すことの叶わない危険な場所へたどり着くのだろう。

 出される結論は、夢のない現実的なものばかりだった。世の中、そんなものかも知れない。


 ヨシキは会社の同僚に、噂を検証する――と、啖呵を切り今ここにいる。

 閉鎖的な空間。滑らかな鍾乳石に四方を囲まれ、その一面に小窓が付いている。壁の傾斜は約八十度。窓の位置は床から約五メートル。

 死に物狂いで壁を這い上がったのだろう、爪痕や血の筋が壁に残されていた。生存している先客が十数人いるのだが、誰もが諦め、死人の如く朽ちて隅の方で縮こまっている。目は虚ろで痩せ細り、実際に白骨化した死体もあった。

「全部アイツのせいだ――」

 ヨシキは窓を見上げて忌々しげに吐き捨てた。

 ことの始まりは、ヨシキが幼馴染みのケイタに嫉妬したことだ。ケイタは理想を具現化したような男だった。知性、財力、容姿、身体能力など、全てが高得点。親友だった時期もあるが、今や嫉妬と憎悪にまみれている。上位のエリートと下位の凡人として周囲に比べられ、絶望した。

 俺は障壁を越えたんだ――いつだったか、ケイタが誇らしげに言った。その言葉を真に受けて、ヨシキはこんなにも辺鄙な場所へたどり着いたのだ。俺だって――と意気込んだものの、未だに壁を越えられていない。


 何日経つだろうか――指一本動かす気力もなく、冷たく湿った石の床に寝そべっていた。精魂尽き果て絶望し、案外人間は死なないな、など考えてうつらと目を閉じる。

「ヨシキ――!」

 乱暴に肩を掴まれ揺すられた。揺らすな、眩暈がする――胸中で訴えるばかりで、言葉にできない。掴まれた肩を振りほどこうにも、身じろぎの一つもできず、掴む手を振り払うこともできなかった。ヨシキは込み上げる吐き気を堪え、重く閉じた目蓋を懸命に持ち上げる。薄い視界に入った端整な顔に、ぎょっと目を見開いた。

「なんでお前がいんだよ――!」

 ヨシキは咄嗟に叫ぶ。恨み言を唱えていた相手が目の前に現れたのだ。ケイタ――そう、久方ぶりに絞り出した声は無様にかすれていた。

「羽崎に聞いたんだよ! 噂を検証しに行ったって。お前、バカなのか? なんでこんな危険な真似してんだよ――!」

 そう怒鳴られて再び肩を揺すぶられる。相手がケイタだとわかれば、怒りに任せた気力が湧き、睨みの一つくらい返せた。

「うるせえ! 元はと言えば、お前が俺を騙したからだろ」

 ヨシキが怒鳴り返すと、豆鉄砲を食らったような顔でケイタは押し黙った。怒りの治まらないヨシキは、勢いでこれまでの鬱憤を吐露した。

「これまで俺がどんな思いで過ごしてきたかわかるか? お前の隣に立つことが、どんだけ惨めで情けなかったかわかるか? 俺の苦痛は全部てめえのせいだからな! 俺がここにいるのも、こんな冷たくて暗い場所で死にかけてんのも、全部お前が俺をそそのかしたからだ! チビで弱かったくせに――! ただ壁を越えたくらいで、ズルいんだよ!」

 しばらく押し黙っていたケイタは、うつ向いたかと思えば肩を震わせ始めた。耐えかねたのか、あっはっはっ、と快活に笑い転げ、本当にお前はバカだ――言って、ケイタは再び笑いに興じた。

「あれは比喩だよ。小学生の時、俺って虐められてたじゃん。本当にチビで弱くて泣き虫で――毎日メソメソしてたら、お前キレたろ?」

 そこまで聞いてはっとした。弱いなら強くなれよ、それまで俺が側にいてやるから――なんて格好付けた台詞を、ケイタに吐いたことがあった。

「お前の支えが俺の強さだ。あれがなけりゃ、俺はずっと小心者の虐められっ子だったさ」この壁じゃねえよ――そう言って、ケイタは照れ臭く笑って見せた。

「俺の壁は、俺をいじめていたヤツらと、俺なんかよりずっとずっと強くてかっこいい、お前のことだよ。まあ、越えたって言っても、俺がヨシキを越えられるとは思ってないし、越える気なんか更々ない。ただ、お前の隣で堂々とできる男になるんだって思ってたんだ」

 語り終えてほっと浮かべたケイタの笑みから、ヨシキは堪らず目を逸らす。とんだ勘違いに羞恥が沸いた。

「だからさ、今度は俺がヨシキを救うよ」

 言って、ケイタはヨシキの腕を掴み、力強く引き上げ彼を立たせた。お前を救うために策略を練ってきた――ケイタはヨシキに話す。

 ケイタの作戦は成功した。壁を這い上がれる限界まで自力で登り、そこからケイタを踏み台にする、と言うものだった。ケイタの手に足を掛け、彼が伸ばした腕の反動を利用してヨシキが飛び上がる。

 窓枠へと目一杯伸ばしたヨシキの手は、一発で枠を捕らえ出口を掴むことができた。次はケイタの手を掴み引き上げる――予定だった。

「ぐうえあああアアアアアアアア――!」

 落下したケイタは断末魔の砲口を上げ、狼みたいな影の獣に喰い付かれていた。服ごと肉が引き裂け、脳天を突き破る悲鳴を上げる。見事に鮮やか、噛み千切られた肩口から、コーラの開封を失敗したように血飛沫が上がった。

 ケイタの悶絶する絶叫と、肉をむさぼる猛獣の荒い呼吸とが空間を嫌に裂く。

「ケ、ケイタ――っ!」

 ヨシキは悲痛に彼の名を叫んだ。友人が肉塊になっていく様など見ていられない。

 ヨシキは自身を奮い起たせようとするが、やっと手にした出口から離れられなかった。欲望と良心の呵責に眩暈がする。怖い――幸福を手放せない、助けなきゃ、出口が、降りたくない、戻れない、ケイタが、どうしようどうしようどうしよう――。

「来んなよ!」

 ケイタの怒号が耳に突き刺さる。

「てめえが俺を嫌っても、俺には一番の親友なんだ! ずっとお前だけが俺の親友で、俺の支えだったんだ! だから、俺は――、ヨシキには幸せになって欲しいんだよお――!」

 語気荒く告げられた言葉に、ヨシキは腹を固めた。すがる窓枠から手を離す。肉体が空を切り、気圧の変化にか鼓膜がふわりと浮いた。一瞬、空を飛べそうな幻覚が全身を包んだが、そんなことがあるはずはない。足先から脳天まで着地の衝撃が突き抜け、視界は暗転と発光を物凄い速さで繰り返した。

 約四メートルからのジャンプだ。高所から飛び降りた衝撃に耐えられず、足首と膝がぐしゃりと潰れた。膝から鋭利に裂けた頸骨が突き出し、激痛が全身を駆け巡り脳を引き裂く。堪らず絶叫し悶絶する激痛に転げ回った。

 だが、獣の呻きにはっとし、なんとか堪えて彼の側へ這いずる。ひしゃげた両足は使い物にならない状態だ。肉を突き抜けた骨が鍾乳石の床を引っ掻き、カタカタと音を鳴らした。

 やっとの思いでヨシキの指先がケイタに触れた。瞬間、ケイタをむさぼり喰っていた獣たちは、黒い霧となり消え失せた。

「ケイタ――、ゴメン――」

 四肢はもげ、臓物が離散し、引き裂けた喉には黒々と穴が空いている。血溜まりに横たわるケイタは、既に事切れていた。

 ヨシキは声を張り上げ泣いた。ケイタの身体を抱くようにすがり付き、痛みを消し去るほどに狂い泣いた。

 自身の勘違いで、こんなにも残酷な現実を目の当たりにするとは思わなかった。自身の軽率な行動が、二十年来の親友に凄惨な死をもたらすなど、思いもしなかった。

 ケイタに謝り続け、泣き続けていたヨシキの足先を、誰かが蹴飛ばした。眼球を抉り取り、喉を引き裂くほどの激痛が、足先から頭頂部まで上り詰め、涙を枯らす絶叫をほとばしらせた。あまりにも鋭利過ぎる痛みに、視界はやはりチカチカと点滅し、全身からぬるぬるした汗が吹き出す。誰が蹴ったのか、なにがあたったのか、しばらくは確認することさえできなかった。

 ヨシキは汗と涙と唾液にまみれた顔を上げ、ようやく辺りに目を向けられるくらいに、痛みが和らいだ。ぼやける視界の先に広がった光景に、ヨシキは唖然と口を開き、何事かと狼狽えた。

 死人も同然だった人々が、目を血走らせ走り回っている。他者を踏み台にして我先と壁を登り出していた。

 ヨシキ達の結果を見て、誰かを踏み台にすれば窓に手が届く――と、彼らは知ったのだ。我先にと壁を這い上がり、誰かが誰かを踏みつけ蹴飛ばす。落下した者はめげもせず再び壁を這い、サキニ登る者の足を掴み引きずり下ろした。

 そうやって肉塊が蠢いている内に、一人が窓枠に手を掛け、小さな窓から這い出ることに成功した。夢と希望と理想を手にできる、願望の窓を越え外界へと滑り出たのだ。誰もがその姿を唖然とそれを見つめていた。羨ましくてよだれが出そうだ。

 しばらくそうやって皆が呆けていると、窓の下の壁に扉が現れた。一人が脱出したために他者は解放されるらしい。皆は競って扉を潜り出る。

「待ってくれ――。誰か、助けて――。手を貸してくれ。おいていかないで。頼むから、俺も外に出してくれよ――」

 ヨシキは我先にと扉を潜る人々に助けを求めた。手を伸ばし、助けてくれ、手を貸してくれと懇願する。だが、誰一人見向きもしないし、声が聞こえてさえいないようだった。まるで、ヨシキの存在は、もうそこにはないような侘しさだ。手を最期の一人が扉を抜けて外へ出ると、無機質な音を奏でて扉は閉まった。

「うっ、うぐっ――」

 痛みに呻き、歯を喰い縛って両腕に力を込める。少しずつ、少しずつ這いずって、ようやく扉にたどり着いた。が、寝そべるヨシキにはノブの位置が高すぎて、どんなに背を反らそうが腕を伸ばそうが届かない。

「嫌だ――! 嫌だ、嫌だ、嫌だ! こんなところで死にたくない。届け――、届いてくれ」

 背を反らし必死で手を伸ばす。全身が痙攣しようが痛みに呻こうが、伸ばす手を引きはしない。

 出口はここにあるのに――死に物狂いでひしゃげた膝を立てた。割れて突き出た骨が押し戻され、太ももの内部で肉が断絶する。自身の骨が神経をこれでもかと刺激し、血管をプチプチと千切り、筋肉を引き裂いた。激痛に震えが止まらない。それでも両足に力を込めて上体を支え、ゆっくり身体を起き上がらせた。


 ヨシキは慎重にノブへ手を掛ける。


「ああ――、あははっ――」


 それは無機質な残響を落とし、膝元に転がった。


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