第53話

 ユリアが呼び出されたのはいつもの場所だった。


 自宅とは反対方向にある――つまり、奴らの帰り道の途中にある――古びた屋敷の中だ。


 もう長い事取り壊し予定の札が立ったまま放置されている。錆びた門は特に鍵もかかっておらず――錆びて壊れたからだろうが――入ろうと思えば苦もなく入ることが出来る。


 そこそこ広い庭は完全に荒れ果てていて、背の高い雑草が入口を隠している。そんな状態なので、柄の悪い生徒の隠れ家のようになっており、人の目を気にするような事をする時は大体ここと決まっていた。


 一階の広間である。と言っても元からあった内装は取り払われて、彼らが持ち込んだ中古のソファーやらが僅かにあるだけだったが。


「ちゃんと金は持ってきたんだろうな」


 ユリアの相手をする時、彼らは大体ニヤニヤ笑いを浮かべている。誰が誰でもどうでもいいような心地ではあったが、言ったのは二年生のマッケンだった。剣術クラブの腕自慢で、華奢なユリアと比べると体重は倍以上あるだろう。


 なんにしろ、もう一言だって彼らと口を利きたくなくて、ユリアは無視を決め込んだ。


「おい、聞いてんのか!」


 ニヤニヤ笑い以外で彼らがユリアに見せるのは、犬が威嚇するような脅し顔くらいだろう。言ったのは一年生のシュルトで、特にクラブには入ってないが、太っていて身体が大きい。汗臭いニキビ顔の少年で、モテもしない癖にいつも上から目線で女子の容姿に点数をつけている。女みたいな顔をしたユリアは一部の女生徒に人気があり、うっかり女子と話している所を見られると酷く殴られる。


「ユリア。てめぇ、舐めてんのか、あぁ?」


 彼らが発する言葉は、ユリアには簡単に予想がついた。大体いつも同じ事しか言わないからだが。見た目は違うが、中身は大差ない。同じだったとしても驚きはしないが。


(……そうさ。こいつらは人間じゃない。中にはきっと邪神の魂でも詰まってるんだ)


 最後の一人はリーダー格のバイロンで、ユリアと同い年だが見た目だけは大人顔負けだ。三人の中でも一番大きく、顔も体も岩のように厳つい。親は勇者官のお偉いさんだというから、この街には正義など存在しないのだろうとユリアは思う。そんな事は分かりきっていた事だが。


 ともあれ、言う事を予想できるくらいだから、行動だって見当がついた。と言ってもこれも大したバリエーションは存在しない。というか、こういう場合にやる事は――つまり、なんにしたって気に入らない場合だが――ただ一つ。


 ユリアが泣いて謝るまで――それで機嫌が直ればだが――暴力を振るうだけだ。唯一バリエーションが豊富なのは暴力の種類くらいだろう。見える場所に痕を残さないよう苦痛を与えるテクニックに関してだけは、彼らはちょっとしたものだった。そんな技術が役立つ職業など想像もつかないが、どのみち余計な心配だろう。


(だってお前らは、ここで死ぬんだからさ)


 全員は無理だろうが、一人くらいはやれるはずだ。出来れば三人ともやりたい所ではあるが。


(そのくらいの権利は僕にはあるんだ。あんな、馬鹿そうな冒険者の女の子に言われるまでもなくってさ!)


 昨日の事を思い出してユリアは泣きそうになった。悔しかったからだ。そんな感情はとっくに擦り切れたと思っていたのだが。まだ自分には、女の子にあんなことを言われて悔しいと思えるだけのプライドが残っていたらしい。


(そうだよ。簡単な事じゃないか。ナイフで一刺し。たったそれだけだ。身体の大きさなんか関係ない。あとは、やるかどうかの問題だろ!)


 それについては一晩悩んだ――が、思い返してみれば、そんな事を思ったのは初めてというわけでもなかった。というか、妄想でなら毎日のようにしていたと思う。ただ、本気になって考えてみたのは初めてだったが。


 両親を悲しませる事になるのは分かっていた。他にも、こんな事をするべきでない理由はいくらでも思いついた。けど、だからどうしたという話だろう。こっちは死ぬほど追い詰められて、実際に邪魔が入らなければ死ぬところだったのだ。


(父さんも母さんも、気付いてなんかくれなかったじゃないか。大体、相談したからってどうなるっていうんだよ!)


 諦めという名の重石が外れてしまえば、その下で抑えつけられた憤怒が噴き出すのは当然でもある。あるいはそれは恨みと呼んだ方が正しいかもしれない。目の前の不良達に対する恨み、先生、友達、親、こんな奴らを生み出しておいて助けてもくれない神様、不条理な世界、彼を苦しめ――あるいは見捨てた――この世界――全てに対する激しい憎悪。


(壊してやる――殺してやる――みんな――死ね――死んでしまえよ!)


 決心さえしてしまえば、ユリアの心はこれまでにない程穏やかになった。今まであんなに恐ろしかった明日が――そして朝が――久しぶりに待ち遠しくなった。


 そして今、バイロンはいつも通り――そして予想通り――ユリアの胸倉を掴んでぶら下げている――無防備にもお腹を晒して。


 ユリアが戸惑ったのは、それが想定していたよりもずっと簡単そうに思えたからだ。見え見えの罠に引っかかりに行くような心地で、隠し持っていたナイフを腹に突き刺す。刃は呆気なく根元まで刺さり、その瞬間ユリアの頭に立ち込めていた熱病のような黒い霧が晴れた。


(――やった――やってやった! 僕は、本当にやっちゃったんだ!?)


 震える程の達成感が心を満たし、数年ぶりにユリアは誇りを取り戻した。同時に、激しい罪悪感にも苛まれたが。


 身も蓋もない例えを持ち出すなら、それは初めての自慰に似ていた。心地よさと達成感と、罪悪感と自己嫌悪と、そのような相反する感情が怒涛の勢いで押し寄せて彼をなぎ倒す。


 実際、バイロンが倒れた今、解放されたユリアは腰が抜けて立つのも覚束ない状態だった。


(やらなきゃ――後の二人も――殺して――じゃないと――見つかっちゃう!)


 こいつらを殺して自分も死ぬつもりだったのだが、実際に刺してみると、その後の事を考えて恐ろしくなる。人殺しになる事、それが色んな人にバレる事、勇者官に捕まり、裁判にかけられ、牢に入れられ、処刑されるかもしれない。処刑されなくても、罪人として生きなければならない。それはある意味、死ぬよりも恐ろしい事のように思える――死ぬつもりであったとしてもだ。


 マッケンとシュルトが呆気に取られて立ち尽くす中、ユリアは床を這ってバイロンの腹に深々と刺さったナイフを抜こうとした――が、簡単に刺さった割には、強張った腹筋に挟み込まれた刃を引き抜くのは難しかった。バイロンもまだ息があり、激しく抵抗してくる。


 仕方なく予備に用意していたナイフを抜くと、マッケンとシュルトはバイロンを見捨てて逃げ出してしまった。


「――て、よ……待てよぉおおおおお!」


 強張った喉をこじ開けるように叫んだ。あまりの声量に喉が裂けたのか、血の味が広がる。


「逃げられちゃった……僕はもう――おしまいだ」


 絶望して涙が溢れる。これなら、飛び降り自殺をした方が楽だったかもしれない

 ――それなら苦しまずに死ねるし、誰に何を言われた所で、死んでしまえばそれ以上苦しみようもない。


 ――が、なんにせよ終わった事だ――と、割り切れるわけでもなかったが。


「だったらせめて、一人くらいは殺さないと割に合わないじゃないか」


 バイロンに向き直る。刺さったナイフを抑えて、下半身を引きずる様に這って逃げる大柄の少年に。彼はまだ生きている。逃げた二人が神官でも呼んできたら、このくらいの怪我はあっさり治すだろう。そしたら、全てが無駄になってしまう。折角の決意も、復讐も、達成感も、取り戻した誇りも、クソッタレな人生の意味も、なにもかもが。


(――いやだ――僕は――僕は!)


「僕は――負け犬なんかじゃないんだ!」


 激しい怒りに突き動かされて、ユリアはバイロンの背中に襲い掛かった。


 そして今度は、がら空きの首元に向けて思いきりナイフを振り下ろす。

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