第21話
椅子の下を覗き込むが、何もいない。ただ、黒い影が広がっているだけだ。
と、思いきや、不意にキッシュの影が沸騰したように泡立ち、粘ついた黒い油のような液体が滲みだした。
「なんだ!?」
ぎょっとして叫ぶ。黒い液体は量を増すと、意志を持ったようにするすると椅子を伝い、キッシュの両手の上で饅頭のような形を取った。
「スライムっすか?」
脳天気にペコが聞く。確かに、似ていなくもない。
「そんな小物と一緒にされては困るのである。モモニャンは吾輩の先祖、深淵の魔王ベステリゼが異界より召喚したという伝説の魔獣なのである」
キッシュの紹介に応えるように、黒い粘液めいた魔物――モモニャンは、「てぃりりり、てぃりりりりり」と、口もないのに硬質の金属めいた声で鳴いて見せた。
「危険はないのかしら」
抜け目なくラビーニャが聞いた。
「だって、魔王の眷属なのでしょう?」
ベステリゼがどういった魔王なのかライズは知らないが、魔王として名が残るからには、相当な悪事を働いたのだろう。その眷属だと言うのが本当なら、普通に考えれば危険ではある。
「心配ないのである。伝説の魔獣と言っても、モモニャンも末裔である。村のみんなと同じで、無害で優しい子なのである」
そして、キッシュは彼女の村の特殊な事情を語った。
それによれば、この魔物――正式な名前は失われ、深淵の獣と呼ばれているらしい――は、全ての村人が一人一匹、自分の影に飼っているという。そして、村に新しい子供が生まれると、両親は自分達の深淵の獣を混ぜ合わせて新たな個体を作り、子供に与えるという。そういうわけで、キッシュの一族にとってこの魔物は、生まれた時から死ぬまでを共に過ごす、兄弟のような存在であるらしい。
(精霊術士が飼ってる契約精霊みたいなものか?)
と、ライズは想像する。
精霊術とは特殊な魔術体系の一つで、系統としては神秘術に似た所がある。魔力によって擬人化した現象である精霊を飼いならし、魔力を与える代わりに、その精霊の元となった現象を操作して貰う。水の精霊であれば水を、火の精霊であれば火という具合にだ。元となった現象にしか干渉出来ないが、その現象に関しては、それこそ己の身体のように操る事が出来る。術の行使自体は契約精霊が行うので、魔力さえあれば――あるいは、それすらなくとも――子供でも魔術を使う事が出来る。魔力を代償に魔術を行使させる様が契約関係のようである事から、そういった精霊は契約精霊と呼ばれている。契約精霊になるような精霊は特殊なので、一族で受け継ぎ育てる事も多い。その辺も、契約精霊に似ている。
「安全なのはわかったけど、戦闘の役には立つのかしら」
掌の上で丸まったモモニャンに、ラビーニャが疑いの目を向ける。
「勿論である。モモニャン、お前の力を見せてやるのである」
キッシュの手の上で、モモニャンが激しく泡立ち、その勢いで体積を増す。黒いネバネバは瞬く間にキッシュの手から溢れ、内側になにか別の生き物でも囚われているかのように激しく暴れた。程なくしてその姿はライズの背と並び、油膜のような光沢のある表面が毛羽立って、四つ足の顔のない獣の姿へと変わっていく。
「へぇ、こいつはすご――」
「なんかキモいっすね」
「見るからに邪悪ですわ」
「グルルルルアアアアアアア!」
二人の言葉に、モモニャンの無貌が口のように大きく裂け、地の底から響くような唸り声をあげつつペコの頭に噛みついた。
「うぎゃあああああああああああ!?」
「どぉあ!? おいキッシュ!?」
「モモニャンは繊細ゆえ、悪口を言われると暴れてしまうのである」
「冗談きついですわ!?」
モモニャンはペコの頭を一通り齧って振り回すと、壁に向かってぶん投げ、ラビーニャへと飛び掛かった。
「ひぃいいいい!?」
ラビーニャは腰を抜かし、首から下げた聖印を掴んで前に突き出す。
障壁の奇跡を使ったのだろう。真昼の太陽を思わせる白い光の壁がラビーニャを四角く囲み、間一髪でモモニャンの突撃を阻む。モモニャンは構わず、鋭い爪で防壁を引っ掻き、巨大な顎でがりがりと齧りついた。
とりあえずは大丈夫そうなので、そちらは気にせずライズは尋ねた。
「こいつはすごいな。他のものにも化けれるのか?」
「お願いすれば大抵のものには変身してくれるのである。鳥や魚、生き物以外にも変身出来て、背中に乗れば馬よりも早く走ってくれるのである。ちなみに、モモニャンのお気に入りはネコちゃんなのである」
「そいつは役に立ちそうだ。大きさはどうだ?」
「いくらでも、と言いたいのであるが、モモニャンは吾輩の魔力で活動している故、あまり大きくなられると吾輩の魔力が持たないのである」
「なるほどな。ま、大体の所は契約精霊と一緒って事か」
「呑気に言ってないで助けなさいですわ!」
涙目になってラビーニャが叫ぶが、良い薬だろう。
「お前が怒らせたんだろ。自分でどうにかしろよ」
「うぎぎ、キッシュ! このバケモノを早くどうにかなさい!」
「グルルルルアアアアアアア!」
モモニャンがさらに巨大化し、箱状になった光の壁に圧し掛かる。
「ひぃいいいいいいい!?」
「どうにか出来ない事もないのであるが、モモニャンは吾輩の大事な友達であり家族なのである。悪口を言った事を謝って欲しいのであるな」
「はぁ!? どうしてこのわたくしがこんな醜いバケモノなんかに!」
「グルルルルルルォオオオオオオオオオオ!」
モモニャンの身体が泡立ち、店の天井ギリギリまで大きくなる。肩からは大木のような腕が生えだして光壁を鷲掴みにし、全身に金色の瞳を持つ無数の目玉が浮き出てラビーニャを睨んだ。身体のあちこちが裂け、鋭い牙の生えた口に変わる。どれ程の力があるのか、神の奇跡によって生み出された光壁が、めりめりと嫌な音を立て歪み始めた。
「モモニャンはかなりお怒りなのである。早く謝らないと食べられてしまうのである」
「だとよ」
「う、ぐ、ぎ、ぎ、ぎ、ぎ、ぎぃ……」
そんなに謝るのが嫌なのか、ラビーニャは悪鬼のような顔で歯ぎしりをした。そうしている間にも壁は歪み、今にも潰れそうだ。
「わ、わかったわよ! 謝ればいいんでしょう! ごめんなさい! わたくしが悪かったわ! 二度と酷い事は言わないから、許してちょうだい!」
とてとてと近づくと、キッシュは無数の目玉や口の生えたモモニャンの身体に頬ずりし、落ち着かせるようにして撫でた。
「ラビーニャもこう言っているのである。魔王を倒す大事な仲間になるのである。今回は許してあげて欲しいのである」
「グルルルルルルル……ティリリ……」
納得したのか、モモニャンの身体が急速に萎み、拳大の饅頭のようになってキッシュの肩に乗った。
「し、死ぬかと思いましたわ……」
光壁が消えると、げっそりとしてラビーニャが言う。
そんな彼女にライズはニヤリとして。
「この様子なら、実力の方も申し分なさそうだな」
「わたくしは反対ですわ! こんな危険なバケ――」
「グルルルルルォォォオオ!」
即座にモモニャンが巨大化する。
「……こんな可愛らしい仲間が増えて、わたくしも嬉しいですわ」
ラビーニャが引き攣った作り笑いを浮かべると、モモニャンの黒い舌がラビーニャの顔を舐めた。
「ひぃいいいいい!?」
「おぉ。どうやらモモニャンに気に入られたようであるな」
「全然嬉しくありませんわ!?」
「ははははは、よかったじゃねぇか」
ここぞとばかりに笑ってやると、キッシュに向き直る。
「この通り、借金まみれの上に問題児ばかりのパーティーになるが、それでもいいならよろしく頼むぜ」
「こちらこそ、お世話になるのである」
差し出した手をキッシュの小さな手が握り返す。
キッシュとの握手が終わると、モモニャンの身体が餅のように伸び、目の前で人の手の形になった。
「あー、モモニャンもよろしくな」
僅かに躊躇しつつ握り返す。モモニャンの身体は泥のように湿っていて、ほのかに冷たい。正直ゾッとするような感触だ。
「ティリリリ! ティリリリ!」
心持ち嬉しそうに、鈴の音のような声が返事をした。
(まぁ、予想外だが、これはこれでよかったのかもな)
特殊な生まれに目を瞑れば、キッシュは常識人のように思える。戦力としてのモモニャンは頼もしく、戦闘以外でも大いに役立ってくれそうだ。
「ちなみに食費は出るという話であったが、暴れた後のモモニャンは物凄く沢山食べるのである」
「ん?」
嫌な予感がした。
「そしてモモニャンは、吾輩に似てグルメなのである。ちゃんとしたご飯を用意しないとへそを曲げて暴れてしまうので、そこの所をよろしくなのである」
「あー、物凄くってのは、例えばどれくらいだ?」
「今の感じだと、十人前も食べれば満足なのである」
(たったこれだけで十人前かよ!?」
幾らなんでも燃費が悪すぎる。これでは、食費だけで破産しそうだ。
「……やっぱり、ちょっと考えさせて欲しいかなー……なんて……」
「グルルルルルルルァアアアアアア!」
巨大化したモモニャンが頭の上で口を開いた。
「ちなみにモモニャンは、嘘つきが大嫌いなのである」
ニッコリと、無邪気な顔で魔王の末裔が微笑んだ。
「……出来る限り頑張ります」
他になんと言えただろうか。
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