第9話 断簡

 自分が突然日常から隔離されてしまった驚き。落ち着こうと、僕は店内を見渡す。


 埃を被り、一段に二、三冊しか本が置かれていない本棚。ただの物置にされている段まであった。そして本は、元々の紙質が良くないのだろう、黄ばみや虫喰いがひどい。背表紙にはタイトルが書かれていたが、かすれてほとんど読めなかった。


 「君はもうあの本と繋がってしまった……要するに、本に気に入られたのよ。だから、本を捨てようが燃やそうが、必ず君の元に戻ってくるわ」


 「もはや悪霊の類ですね……」


 「そうとは言い切れないわね。『異形』はちゃんとコントロール出来れば、人にその本が持つ力を使わせてくれるの。こんなふうに……」


 そう言うと早希さんは、路地で飲んでいた缶コーヒーの空き缶をカバンから取り出した。そしてそれを僕に向かって軽く放り投げる。


 空き缶はそのまま僕の手元へ綺麗に落ちる。奪われていた視線を早希さんに戻した。すると彼女は今投げたはずの空き缶をまだ手に持っている。だが、僕の手にも空き缶はあった。気付かないうちに空き缶は二つに増えていたのだ。


 「言っておくけど、これは手品とかじゃないわ。あなたの持った缶とこの缶はまったく同じものよ」


 混乱する僕を無視して、彼女は話し続ける。


 「君の本の本当のタイトルは『幸福な鎖』。本来なんの訓練も積んでいない一般人なら、本の『異形』が受肉した時点で心を壊されてしまう……」


 心臓に手を当てる。あの鎖はそこまで危険なモノだったのか。


 「こうして普通でいられるのは、あの本のタイトルが誰かに改ざんされて、しかも最後の結末を破り捨てられていたからよ」


 「じゃあ、あの本の結末を知ってしまったら、僕は死ぬんですか?」


 「不完全でも、もう『14号異形』は君を宿主にしてしまったわ。今のままなら確実に本に取り込まれて命を落とすでしょう」


 僕はカバンから『幸福な女の子』、もとい『幸福の鎖』を取り出す。もうこの本は、僕の一部になってしまったのか。


 「ほう……懐かしいな。目にするのは四十年ぶりだ」


 置物のように存在感のなかった店主が口を開いた。そして立ち上がり、僕が持つ本をジロジロと見る。


 「こいつはまだ戦争が終わって間もない頃、無名だった絵本作家が書いた本だ」


 店主はどうやら『幸福の鎖』について知っているようで、その由来を語り始めた。


 「俺が生まれた頃にはもうそんな時代の事はみんな忘れちまってたが、戦争で親と引き離されちまった子どもや、飢えと寒さに涙すら流せなかった人達の叫びを、検閲の目を逃れてヤミ本として世に出したんだ」


 「もしかして……この本の内容を知ってるんですか?」


 店主は頷いて話しかけたが、早希さんに止められる。


 「やめておきなさい。知らない方があなたのためよ」


 僕は立ち上がって店主に詰め寄ってでも聞きたかったが、なんとか押し留まった。この本の結末を知れば、早希さんの言う『異形』が完全なものになり、多分僕は死んでしまう。誰がなんの意図でこの本を僕に辿り着かせたのか、今はまだ考えない方がいいのかもしれない。

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