マネキン
@XXX_PiSTOLS
マネキン
この世には持てる者と持たざる者がいる。貧富・美醜・才能・人間関係…。個人を構成するありとあらゆる要素は他者との比較の基準になる。優れているほど持てる者とみなされ、劣っている者は持たざる者とみなされることになる。
持たざる者は常に苦しい環境に立たされる。己に欠けている何かを嫌というほど直視せねばならず、それ故に己の長所には気づけない。やがてはその弱さを武器として他者にぶつけてしまうことも珍しくない。ステータスの低いキャラがパーティから外されるように集団から疎外されることもある。
そんな背景から、自身が価値ある存在だということを示すために、己の優れた部分を様々な手段で誇示する人々が一定数いる。その闘争は傍から見れば小さく滑稽なものかもしれない。しかし当事者にとっては一大決戦であり生きる意味でもある。他社より先へ、他者より上へ行くことが、彼らにとっての存在証明なのだから。
産み落とされた赤子は未熟児であった。出生直後から呼吸器をつけ、一億分の一を勝ち抜いたとは思えないほどに弱弱しい吐息を紡いでいる。しかし、それを見守る者は誰一人としていない。彼は望まれた命ではなかった。端的に言えば、ゴムの付け忘れによって生じた刹那の快楽の副産物。堕胎することを是としなかった母によって生まれずして殺される羽目にはならなかったが、女とその実家の世間体のために手を汚さなかっただけのことであった。
ほどなくして赤子に訪れたのは極貧生活であった。男には逃げられ、母親の実家からは「援助はしないが子供は捨てるな」と告げられ、近所づきあいや児童養護施設もない。頼れるアテが何もない親子は生活保護で食いつなぐ日々を過ごした。そこに家族としての愛は欠片も生まれなかった。
少年は道徳の授業が嫌いだった。普段自分を蔑み虐げている連中が口を揃えて友愛を唱える。そのギャップがあまりにもおかしくて、笑ってしまったこともあった。自分が善良で価値ある人間だというパフォーマンスのつもりか。己の善性すらも取り繕ったものでしかないのなら、なんて浅い連中なのだろうと呆れずにはいられない。
道徳を嫌いな理由はもう一つあった。家族愛を前面に押し出した作品を読み、その上それを礼賛せねばならなかったことだ。親が無条件で子を愛する存在だというなら、自分の母親は一体何なのだ。「お前さえ生まれなければ貧乏にならなかった」「お前のせいで人生がめちゃくちゃになった」あの女の口から、一度だって自分を愛しているなどと聞いたことはない。嘲りと憤りをかき混ぜた感情を、彼は胸の内で垂れ流していた。
いじめの加害者は被害者の持ちうる全ての要素を動機にする傾向がある。少年を虐げていた生徒たちもその例に漏れなかった。家が貧しいこと、容姿に恵まれないこと、運動神経が悪いこと、一人でいること…。枚挙に暇がない。いずれも彼が他者と比べて持たざる者であるという事実に起因しているのは確かであった。その事実が、少年の中に反骨精神を芽生えさせた。
他者より優れた存在になってあの偽善者どもを見返してやりたい、母親を気取ろうともしないあの女に自分の存在を認めさせてやりたい。そうすることでしか己の居場所はつくれない。子供が背負うにはあまりにも重い実力主義を内に秘め、少年はあらゆる面で努力を重ねた。
結果から述べると、状況はあまり好転しなかった。同級生からの罵倒・暴行が止むことはなかった。しかしその動機は百八十度違うものとなっていた。加害者たちは「いけ好かない」「いい気になっている」という中学生らしい抽象的な嫉妬や見下しを根底に据えている。少年は体こそ傷ついていたものの、その心は喜びに満たされていた。連中の言い分が変わったということは、自分が持たざる者ではなくなったということ。他者より優れた存在であると証明できただけで彼にとっては大きな収穫であった。
ひとつだけ気がかりなのは、母親から「あの男に似てきた」と毒づかれたことだった。生まれてこの方父親の影すらない生活を送ってきた少年には具体的なイメージが湧かなかった。一体どのような男だったのか。かすかに好奇心をくすぐられたが、調べようのないことに時間を割く気にはなれなかった。
中学校を卒業すると、少年は二年間アルバイトや日雇いを掛け持ちした後に地元から遠く離れた高校に入学した。高卒認定試験を受けて大学に行くという選択肢もあったものの、いわゆる「青春」への情景を捨てられず高校進学を選んだ。学費を稼ぐという目的の他に、整形手術を受けるという目標もあった。過去の自分と決別するには今の顔を棄てなければならない。そう考えていた。小中とまともに対人関係を築いてこられなかった少年にとって労働は精神的に過酷なものであったが、持てる者になるには欠かせない社会経験だと割り切って従事した。
かくして身も心も生まれ変わった彼は、作られた美貌と一年間の労働で培ったコミュニケーション能力によって瞬く間にクラスの中心的存在になった。さらなる肩書を得るために生徒会選挙にも当選し、名実ともに文武両道を極めた生徒会員としてその地位を確固たるものにした。
少年はこの上なく満たされていた。ここには自分を馬鹿にする人間はいない。皆が己の存在を認めてくれている。それは周囲の態度だけでなく、目に見える肩書によって保障されていることも彼の幸福感を増幅させている。努力によって得た充足を逃がすまいと彼はさらに努力を重ね、常に謙虚であろうと己を律した。
また、己の過去については一度も口を割らずにいた。貧乏な母子家庭の生まれであること、いじめられていたこと、かつて持たざる者であったこと、その全てが彼にとっては忌むべき記憶だったが故の現象だ。したがって実名でSNSを利用することもなかった。万が一かつての自分を知る人物の目に触れるような事態は避けたかった。
唯一苦労したのは恋愛である。異性との交流を重ねてこなかった彼にとってこの分野だけは全くの準備ができていなかった。女性の心理が致命的に汲み取れないばかりに天文学的な鈍感さを発揮することも。友人の助力によって交際関係を築くに至ったものの、その挙動は未だぎこちない。そんな男を追い続けて交際相手になった女子生徒も中々の根気の持ち主と言える。
彼女は男とはあらゆる面で対照的な人物だ。両親からの愛を一身に受け、友人に恵まれ、美しい容姿に生まれ、身を削るような努力をせずとも大抵のことはこなせる才能すら持っている。内面も優れており、困っている人がいれば助け、泣いている人がいればそばに寄り添う。そんな絵に描いたような「勝ち組」の彼女と元「負け組」の男の馴れ初めは年頃の少年少女らしいシーンから始まった。男が遅くまで学校に残って勉強していたところに偶然女が居合わせ、気まぐれな好奇心から話しかけて……という傍から見れば他愛のない会話。
しかし献身的な性格の持ち主である女が、男の血の滲むような努力を見かけて放っておくはずがない。一緒に放課後に残って勉強し、やがてそれ以外でも共に過ごす時間は少しずつ長くなっていく。何事にも手を抜かずに取り組む彼の姿に強く惹かれるのは時間の問題であった。勘の鈍さ故に男がそれに気づくのは彼女がはっきりと言葉にした後だったが。ともあれ、彼もその気持ちを快く受け入れ共に支えあう関係になることを選んだ。異性として魅力を感じたのに加え、男の中では既に学内で誰よりも信頼できる人物に位置付けられていたことが大きな要因であった。 弱みを見せて失望はさせまいと常に「理想の彼氏」でいられるように努めた。
しかし隙がある人間には愛嬌を感じやすいというように、彼の周りには常に多くの人間がいた。時には悪意をぶつけられることもあったが、少年の価値を認める者たちによって撥ね退けられた。進級すると生徒会長に就任し、さらに己を高めるべく邁進した。高校の生徒会にさほど大きな権威や権限がないことはよくわかっていたが、不特定多数に選ばれて得た肩書という性質が彼にとっては大きな拠り所になった。そして、不断の努力の末に学年首席で卒業。国内随一の大学へと進学した。
大学生になると、男の毎日はやや停滞したものになった。既に理想や目標を掲げている者が周囲にいる中で自分はまだ何も見つけられていない。高校を卒業し遠距離恋愛になった彼女も人を助けるために医者の道を志している。勉学にサークル、ボランティアなど様々なものをそつなくこなしてはいるものの「やりたいこと」が見つからなかった。そんなものは今日まで意識したことがなかった。彼を突き動かしてきたのは劣等感と、それに付随する優越感であったからだ。優劣を量る基準がそう多くなかったこれまでとは違い大学は選択肢が幅広い。
男は視点を変え、幼少期を振り返ることにした。金も地位もなく家族としての形すら保てていなかったあの頃。やがて社会人というステージに進むのなら、高収入かつ子持ちであることは必須条件だ。それに加えてある程度の権力や権威も欠かせない。すべて満たすのならば、やはり起業するのが最適解ではないか。男がこの結論にたどり着くのに時間はかからなかった。
卒業後はアパレルブランドを立ち上げた。服起業して早十年弱。事業は軌道に乗り、安定して利益を出せるようになっている。男は若くして富豪の仲間入りを果たした。メディア出演すればその端正なルックスが話題を呼び、業界内では「新時代の旗手」とまで評される。高級車を乗り回し、豪邸を建て、年代物の酒を飲む。理想的なまでの成功体験。高校時代から連れ添った彼女とも遂に結婚し、子宝にも恵まれた。
誰もが彼を持てる者と認めるだろう。その評価を裏付けるかの如く今に至るまでに多くの困難を乗り越えてきた。社員を引き抜かれ、苛烈な価格競争に身を投じ、大企業から買収されかけ、それでも何とか企業を守ってきた。並の人間ならば安定した現状に満足し保守的な姿勢になるだろう。
しかし男の野望は尽きない。業界の頂に座すこと、すなわち最優の証明には程遠い。一人でも自分を持たざる者だと断じる人間がいる限り、自分の価値は証明されたことにならない。さらに研鑽と研究を重ねなければ……そう邁進していたある日のこと、男は妻から耳を疑う台詞を聞くことになる。
それは、ある休日の食卓での出来事。
「別れましょう」
食後の静寂を突き破ったのは妻だった。突然の提案に思わず固まったが、男は即座に聞き返す。
「何故?」
「あなたが空っぽの人にしか見えないから」
「は?」
不可解であるという感想を微塵も隠さない夫をよそに妻は続ける。
「あなたはいつも何かで着飾っている。学校の帰りにデートした時も、二人でアパートに住んでいた時も、今この瞬間だってそう」
「公私をうまく切り替えられていないということか。見苦しいところを見せてすまな――」
「そういうことじゃない」
語気を強める妻。パートナーが初めて見せる表情に夫はたじろぐ。
「最初はすごい人だと思っていた。常に努力を絶やさず、期待に応えようとするあなたを見て力になりたいと思った。それで、会社を立ち上げた頃に気が付いた。この人は名誉や栄光のために色んなことに挑んでいるのだって」
「そうだ。それを知ったうえで君はここまで支えてくれたのではないか」
冷静に言葉を紡ぐ夫。ここまで単刀直入に自身の内面について切り込まれたのは久しくなかったが、それがなぜ離婚へと繋がるのかは未だ想像が及ばない。そんな彼の目を覚ます様に一息入れて、妻が告げる。
「今ここではっきりと言う。あなたは自分を大きく見せることしか考えていない。だから空っぽなの」
肥大した承認欲求と自己顕示欲が糾弾されていく。夫は耳が痛いとしか言いようがない。反論しようとしたが、どの言い分も詭弁にしか思えないような雰囲気が漂っている。
「あなたがどうなろうとしているかは分かる。だけど、どうしてそうなりたいのかはいつも分からない。あなたにとっては何もかもステータスなの? 私の愛はあなたにとって何の価値もないの?」
「そんなことは言っていないし思ってもいない。それに、俺は安定を求めることは衰退への入り口になると心得ているからこそ歩みを止めないようにしているのだ」
「歩き続けているあなたはさぞ満たされていることでしょう。だけどあなたの中を満たしているものは功績への評価であって、あなた自身のものではない。それが分かっていないから母親を見殺しにしてボランティアなんて出来るのよ」
妻は夫の企業が取り組んでいる貧困層支援のボランティア活動を引き合いに出す。企業(及び自分)のイメージアップと税金対策を兼ねている行いだが、彼女はこれを別の視点から糾弾する。
「お義母さんの体調が悪くなった頃、あなたは頑なに『入院させる必要はない』と突っぱねた。それどころか『ボランティア活動の運営管理で忙しいから後にしてくれ』なんて、身近な人の命よりパフォーマンスのような人助けを選ぶ始末。何故そんなに強硬になるのか知りたくて、思い切ってお義母さんと話をしたの」
「俺の生い立ちも聞いたのか?」
妻は無言で頷く。夫は唇を噛んだ。「理想の夫」ではいられないかもしれない。ここにきて場違いな焦りが彼を支配する。
「お義母さんを憎む気持ちは分かる。だけど医者としてあなたの判断は見過ごせるものではなかった。そして、あなたを信じられなくなった。母親の命を捨てたその手を、顔も名前も知らない誰かに差し伸べるあなたが」
「お義母さんがあなたの出ているニュースを見て『自分が人より上だと思うために何でもする奴の顔だ』と言っていたけど、今ならその意味が分かる。あなたの回りにあるものは、全て自分を彩るための箔で、私もその中の一つに過ぎなかった」
「それは違う。俺は向上心を手放したくなかっただけだ」
「だとしても私は、何も身に着けていないあなたを、ありのままのあなたを見ていたかった」
再び夫は口を噤む。ありのままでいることを許されなかったから自分はここまで苦労を重ねてきた。その甲斐あって彼女とも出会えたはずだ。彼は必死に訴える。
「常に変わり続けようと努めたから、君は俺を信じてくれたのではないのか」
「だからこそ私の前では力を抜いてほしかった。社長とか生徒会長なんてベールを脱いで、等身大の人間として過ごしてほしかった。もっと早く本心を打ち明けてくれればきちんと向き合うことだって出来た。けれどあなたは過去をひた隠しにして、いつも求められている自分になろうとしか考えていない。本心を見せない。背中を預けてもらえないその現実に、もう疲れたの」
女は席を立つと、暗い顔のまま自室へと向かった。男は女の背が消えていった方角を茫然と見つめていた。
翌日、男は女を何度も引き止め何度も謝罪した。しかし女の意思は固く、子を連れて出て行ってしまった。夜も更け、一人で住むにはあまりにも広い邸宅の一室で彼はワインを飲んでいた。次の結婚記念日に二人で味わおうと密かに買っていた、夫婦の生まれた年に醸造されたものだった。
男の頭の中には、朝方の光景が焼き付いている。最初で最後の涙。光のない瞳。彼女をここまで追い詰めてしまったのかと悔やまずにはいられなかった。彼女が最後に発した言葉が重くのしかかる。
「一度でいいから『愛してる』と言ってほしかった」
ありのままの自分を愛そうとしてくれていた妻。かつて自分が追い求めた存在はすぐそばにいたのに気づけなかった。彼女に心を開いていれば違ったのか。彼女を愛する気持ちをもっと言葉にしていれば避けられたのか。後知恵ばかりが浮かんでは涙となって落ちていく。かつて夫婦のぬくもりがあった寝室に静かな慟哭が響く。望んだ全てを手に入れたはずの男は、二度と手に入らない無償の愛を失った。埋めることのできない欠落感を、彼は虚飾で埋め続けていく。
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