幾多の線を越えた先
朝倉春彦
Chapter1 パラレルキーパー
0.プロローグ
地下の駐車場に古いポルシェを停めた僕は、豪華なつくりをしたエレベーターのスイッチを押した。
右腕に着けた腕時計を見ると、今は1975年の9月4日23時55分。
左手に持った青いハードカバーの本を開くと、中には歴史の年表のように、今の時間までのこの世の出来事が羅列されていた。
普段は未来のことでも、まるで見てきたかのように表示するのだが、その"年表"は1975年9月4日23時59分59秒までで終わっていた。
その下には、明朝体で書かれた一文。
"第5軸-可能性世界398075801929号は以上をもって崩壊する"
降りてきたエレベーターに乗って、最上階まで上がり、廊下を少し歩いて1009号室の扉を開ける。
中に入ると、靴を履いたまま、中の一室の扉を開けた。
そして、素っ気ない部屋に備え付けられたクローゼットを開ける。
中にあるのは、ハンガーにかかった仕立て良い洋服ではない。
白とも銀色ともつかない色をした金属製の壁と、エレベーターの扉。
僕は扉の横にある赤いボタンを押す。
すると、すぐに扉が開き、近未来感を感じる青い床と銀色の壁に囲まれた空間に入っていった。
もう一度、この世界を去る前に腕時計を見る。
23時59分25秒を指していた。
この世界のロレックス製…他ではあり得ない1966年のル・マン優勝記念特注モデル。
赤い羽根馬のエンブレムが光る時計を外して、入ってきた部屋に放り投げる。
これから行く場所には別の世界に影響を与えるようなもの…その世界独自の物は持っていけないから…
エレベーターが閉まる瞬間、目の前の、つい30秒前まで立っていた世界は動きを止めた。
一瞬ですべての生き物が消え、建物も、作ってきた機械も、道路も……さらには自然さえもが消えていく。
地球だけではない。
あの一瞬で、どこまで続いているかも観測できない宇宙が全て無に帰ったのだ。
人々が言う、宇宙ができる前の状態に戻ったのだ。
僕は、閉まる一瞬で見えた"可能性世界"の終焉を見届けると、フーっと息を吐いてエレベーターの壁に寄り掛かる。
目的地…僕たちのような、幾多の世界の管理人達の住処まではしばらくかかる。
その間、僕は無機質な空間で一息ついていた。
もうこの生活も永い。
レコードと呼ばれる青いハードカバーの本と、自室に備え付けられた幾つものモニター越しに様々な世界を監視してきた。
ある時は異常をきたした世界を救いに奔走する。
ある時は終わらない世界を終わらせに行く。
僕は、もう何年たったかを数えてない。
それだけの永い刻をこうやって過ごしてきた。
もうすっかり慣れて、今ではそれなりの地位にいる。
それなりの地位にいて、自由も効くのだが……
これ以降はどうなるのかなんて、どうしようかなんて、ひとっつも浮かばないままだ。
奇妙な浮遊感を感じるエレベーターは、ゆっくりと減速し始める。
室温が急に低くなり始めた。
壁に寄り掛からせていたのを離して、扉の前に立つ。
エレベーターは完全に停止すると、レトロなチャイム音とともに扉を開けた。
何処かの建物の裏口につながっていたエレベーターから出てくると、僕は人の流れに入っていく。
目の前に広がるのは、昭和の商店街を模した空間。
木造の建物が並び、ショッピングモールが立ち並ぶ時代の前に栄華を誇った人情っ気溢れる活気。
通り過ぎる人々の格好は様々だが、大抵は時代に合った格好だ。
出前そばを片手に持って自転車に乗るおじさんや、セーラー服姿で歩く女子高生。
時代によっては古典にしか見えない格好の若いカップル……
高度経済成長期の明るい部分だけを切り取ったような街並みがそこにはあった。
そんな世界におかしいところは一つだけ。
空は白くぼやりとした光と、何処かもわからない宇宙的な光に包まれているということだけ。
夕焼けや、夜の活気が似合いそうな街並みにそぐわない空の色が、この場所の特異さを表していた。
"サンセットロード3丁目日本担当地区C"
通り過ぎた電柱に張られた金属プレートにそう書かれている。
幾多の世界を管理する…可能性世界を管理する管理人たちの街だ。
つまり、ここにいる人々はすべて僕の同僚。
僕は、たまに見知った顔だったり、よく知った顔を見て手を振りながら歩みを進め、自分のアパートに帰っていく。
商店街のメイン通りから一本裏路地に入った、大きな3階建てアパートの3階角部屋がそこだ。
鍵もかけていない部屋の扉を開けて、中に入ると、緑色の冷蔵庫から缶のコーラを取り出してリビングのソファに座った。
さっき一つの仕事を終えたんだ。少しはのんびりしてても問題あるまい。
カシュっと音を立ててプルタブを開き、一口飲んでのどを潤す。
窓から入ってくる不思議な光を浴びながら、僕はさっきまでので疲れた体をソファに押し付けた。
・・
永い刻を過ごしてきて、つい忘れていたことを思い出すのは、この後すぐのことだった。
彼女に会えなかったら、きっと僕はさらに永い時間を無為に過ごすことだったと思う。
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