終末世界の片隅で
朝倉春彦
Chapter1 無知な女と終末危機
0.プロローグ
夜だというのに、昼間のような明るさでパッと空に光った雷とほぼ同時に鳴り響いた雷鳴。その直後に文字通りバケツを引っ繰り返したような大粒の雨が降り注いだ。
エンジンの音をかき消すほどの大雨。
動かしっぱなしだったワイパーも、もう一段階速度を速めた。
暗い車内で煙草を煙らせていた私は、備え付けられたラジオの音量を上げる。
丁度先週、ザ・ベストテンで1位だった曲が車内に鳴り響いた。
1986年の7月中旬。
私は自分が生きて迎えることが出来なかったはずの時を過ごしている。
いわば、ここは"あったかもしれない世界"の片隅だ。
そこで私は過ごしている。何故こうなったのかも、何をすればいいかも分からない。今はただ"上司"の指示に従って生きているだけだ。
ただ、分かっているのは…私がすでに1回死んだ人間であること、"上司"に死んだ私を見つけられて別世界に連れてこられたこと、今の役割を続けていく以上私は死んでも死ねない体になったこと…くらいだ。
この生活になって2か月半。私は、自分が生きていた世界から見て少し未来の世で生きている。
この…後2週間ちょっとで"跡形もなく消えてなくなる"という世界で…
短くなった煙草を灰皿でもみ消して捨てる。
外の景色を眺めても…暗い街灯に照らされた高速道路しか見えない。
車内に目を向けると、鼻先にZのエンブレムのついた赤いスポーツカーの黒い内装が目に入った。
ダッシュボードの3連メーター左端に付けられたデジタル時計は、3時13分を指していた。
今は深夜の3時13分。
"上司"のいうことが正しければ、後少しもすればこのパーキングエリアの横に通る本線に、1台の車が通り過ぎる。
それを追いかけるのが、今日の私の仕事だ。
「…5分ちょっと追いかければ、あの高速って徐々に曲がりくねってくるだろ?たしか右に大きくカーブして、すぐ左にカーブするんだっけ?」
先ほど、電話越しに"上司"と会話した時のことを思い出す
「そう。少し登りながら曲がって…左カーブの後は真っすぐ下に下る直線」
「そうだよな、そこの直線まででいい。理由は追っていけばわかるさ」
電話越しに"上司"はそう言った。
理由は言わなかったが、この雨だ。なんとなく理由はわかる気がする。
ラジオの曲が終わり、次の曲に移る。
爽やかなイントロが流れ出した時、バックミラーに車のヘッドライトが映り込んだ。
私はふーっと一息吐いてから、ギアをローに入れてサイドブレーキを下す。
後輪を滑らせながら、車を発進させた。
タコメーターがあっという間に8千5百まで回り、セカンドにギアを入れる。
さて…今日も身の無い仕事の時間だ…
土砂降りの中を、結構な速度で駆け抜けていった車を追いかける。
昨日変えたばかりのタイヤは雨のせいで全く路面を捉えていない。
直線なのにフラフラと振られるが、それでも私は構うことなくアクセルペダルを奥まで踏み込んだ。
既に速度計の針は100を超え、150に届く。
300まで刻まれたメーターのちょうど中間地点。
そこまで加速させると、私はフーっと息を吐いて巡行に入る。
さっき通り過ぎた車はもう目の前に見えている。
フラフラとふらつく赤い丸テールランプがこれから起きる出来事を予感させた。
「…彼か彼女か知らないけど」
ギア操作に忙しかった左手で、吸いさしの煙草を咥えた私は、煙を吐き出して口を開く。
「雨の日にそんな車転がすものじゃないよね…私が言えた道理でもないけどさ」
テールに貼られた"DOHC TURBO RS"の文字と、自己主張の激しい丸い4灯ランプを確認すると、私はスーッとアクセルに置いた足の力を抜いていく。
メーターの針がグングンと下がっていき、それに従ってギアも下げていく。
再び目の前から遠ざかっていく車。
私は煙草を灰皿に入れてもみ消すと、もう一度ため息をつく。
緩やかな右カーブに入った。
長く長く続くカーブの途中で雷が一発。
そして切り返して長い左カーブ。
右手には闇に染まって見えない海を、左手には不気味な緑色をした山肌を追い越して、緩やかに登っていく道。
その途中、右車線のほうに大きな破片が転がっていた。
私はそれを見てブレーキを踏みこみ、一気に速度を殺していく。
細かな破片が道に散らばり、時折シャーシの下から何かが当たった音がした。
カーブが終わる頃。
雷が鳴り響いた。
登り切って、一瞬空に向かうような錯覚の後で、下っていく道。
ハイビームにしたライトに照らされたのは、白い煙を噴き出した車だった。
私は、予想通り過ぎる光景に薄っすらと苦笑いを浮かべると、当初"上司"に言われたことを実行に移すために事故車の横に車を止めた。
助手席に置いたレインコートを羽織って外に出る。
夏の蒸し暑さと、痛いほど大粒の雨の中、外に出た私は事故車の真横に立って顔を歪めた。
「……まぁ、いい。早いうちに終わらせようか」
運転席に肉塊を一瞥した私は、比較的原型を保っているトランクの方に移動した。
・・
この時の私に会えるのなら、私はきっと、この後伸ばした手を掴むに違いない。
死んで、何もわからないまま過ごした1986年の2か月に、ヒントは十分落ちていたんだ。
終わった後だから言えるけど、この時私はまだ、世界の異様さに気づけていなかったんだ。
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