第2話 赤座美紗(34・主婦)―その2―
保護者説明会から数日たった日曜日の昼間。赤座家のインターホンを鳴らすものが現れた。
「はい、どちら様でしょうか?」
インターホンの受話器を取った美紗の耳に聞こえてきたのは、数日前の説明会終わりに聞いたあの女の声であった。
「下田です。京太君はいらっしゃいますか?」
「下田さん!? 京太に何か用なんですか?」
「一也が今日そちらに伺うっていうものですから、改めて私もご挨拶しようかと思ってついてきたんです。よろしいかしら?」
美紗は急いで玄関へと向かった。
ドアを開けると、下田が一也とともに立っていた。一也は、こんにちは、と元気良く挨拶した。
「お、一也」
後ろから美紗の後についてきていた京太が一也に気づいた。
「あんまりうるさくするとお父さんに叱られるから、外で遊んでらっしゃい」
美紗は子供二人を外へやった。二人もそのつもりだったのか、素直に従った。
「わたしはお邪魔してもいいかしら?」
下田はあのにこやかな顔で訊ねてきた。
「ええ、どうぞ。リビングでいいですか?」
「かまわないわ」
リビングに入った下田は部屋を見まわし、
「素敵な部屋ね。赤座さんに似合ってるわ。こちらにかけさせてもらったらいい?」
と言ってソファに腰かけた。
「コーヒーでいいですか?」
「お気遣いなく」
二人の声が聞こえてきたのか、二階から康夫が下りてきた。
「今呼びに行こうと思ってたの。こちらが一也君のお母さん」
「どうも」
「あなたがご主人ね。いつも一也がお世話になっております」
下田は立ち上がると軽く会釈した。
「今日はどういったご用件で?」
「一也君の付き添いのついでにご挨拶にいらっしゃったの。京太と一也君が同じクラスになったから」
「実はそれだけじゃないんです。ご主人にお話があって参りましたの。こちらのテーブルに変わってもいいかしら」
下田はダイニングテーブルに腰かけた。美紗と康夫も向かいに座った。
彼女は一枚の紙を取り出した。それは美紗が受け取ったあのチラシである。
「赤座さん、このことはご主人には?」
「何も話してません」
「そんなことだろうと思ったわ」
康夫はチラシの内容をまじまじと見つめていた。下田は彼に話しかけた。
「先日保護者説明会がありましたの。ご主人もご存じですよね?」
「ええ、もちろん」
「その時にお話ししたんです、よかったらわたしの料理教室にいらっしゃいませんかって」
「はあ」
「ですけど、ご主人に叱られるからって奥様がお断りになって。せっかくだからぜひ来ていただきたいんですけど」
「そんなことを言いにわざわざ?」
「お節介だとは思うんですが、何とかなりませんか?」
「そんなことを言われましてもねえ……」
「参加してはいけない理由でもおありなんですか?」
「理由というか、うちで料理できるのが妻だけなもんですからねえ。そこが抜けるだけで自分も京太も困るんですよ」
「そんなに時間はお取りしません。だいたい3時頃には終わっていますし」
「でも買い物の時間もあるでしょ?」
「大体どこのご家庭でも、次の日の分もお買い物を済ましていらっしゃいますよ。こちらでもそのようにされたら」
「そんなこと言われてもねえ」
こうしたやり取りが長く続いた。どっちもなかなか引かなかったのだが、とうとう康夫の方が根負けしてしまった。
「分かりました。じゃあその無料体験っていうやつに一旦参加させます。それでどうしてもダメだということになったらお断りする。それでいいですか?」
「ありがとうございます。ご主人にも気に入っていただけるように、こちらも努力いたします」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
美紗にもなぜそこまで下田が自分を教室に誘ってくれるのかは分からなかった。自分の息子の友達の母親、というだけでここまで誘ってくれるものなのだろうか。
「もうこんな時間か。俺ももう寝る」
康夫はノートパソコンを抱え立ち上がった。美紗もその一言で我に返った。
「おやすみなさい」
「一つ訊いてもいいか?」
「何?」
「明日の分の夕飯の買い物はしてんのか?」
この質問は織り込み済みだった。あの時さすがに康夫は言わなかったが、彼が事前の買い物を許さないのには理由があった。主婦が二日分の買い物を済ませることは、彼に言わせれば仕事をサボっていることと同義なのである。
「大丈夫よ。してないから」
「そうか、ならいい」
康夫はリビングから出ていった。
しかし、残念ながら彼の希望は叶えられていなかった。遅くなってしまうことは
結婚以来、美紗が初めて康夫についた嘘である。
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