殺めるやつら ―#259―

鬼平主水

第1話 赤座美紗(34・主婦)―その1―

 夜も10時を越えると、この広いLDKに夫婦二人きりでは冷たい空気が流れるのは必然である。ましてや、先程まで起きていた息子を寝かしつけた後なのだから尚更だ。

 美紗みさはキッチンから夫の康夫の様子をうかがいながら、明日の朝の支度をしていた。康夫やすおはソファに座り、ノートパソコンに何やら打ち込んでいた。仕事をしているのだろう。

 二人の間には会話はない。むしろ美紗は支度をすぐに片づけて、早く自室に戻りたいと思っているくらいだ。


「明日だったか、料理教室」


「え?」


 突然破られた沈黙に驚いた美紗はリビングにいる夫へ振り返った。当の康夫は表情を一切変えず、パソコンの画面を見つめていた。


「料理教室。あいつに誘われてただろ」


「ああ、そのこと。明日のお昼よ。ちゃんと夕方には帰ってくるから」


「もっと早く帰ってこれないのか? 俺が帰ってくるまでに夕飯ができてないと困るんだが」


「どれくらいかかるか分からないもの。無料体験だからって、初めて来て終わったらすぐに帰るのも印象悪いし」


「お前は家庭よりあんなやつを大事にするのか? もう少し自分の役割を考えたらどうだ?」


 康夫は目線をこちらに投げることもせず、業務的というよりは機械的に話していた。

 美紗は特に反論もしなかった。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 きっかけは小学校での保護者説明会だった。

 息子の京太けいたが通うこの小学校では、毎年入学式の翌日に各学年で保護者向けの説明会を開く。そこでは年間の行事予定や教育方針の説明や懇談を行っている。一学年で4クラスあるため、学年単位で集まるのは一年生と六年生のみ、他は各クラスで簡易な形式のものである。

 説明会終了後、夕食の準備のために美紗が帰ろうとした時だった。


「赤座さん?」


 名前を呼ばれた美紗が振り返ると、そこには品のある一人の女性がにこやかに立っていた。彼女が説明会の時に同じクラスにいたのを美紗は思い出した。


「先程はどうも。えっと、あなたは?」


下田しもだです。いつも一也かずやがお世話になっております」


 一也というのは京太の友達の名前である。つまりこの女性は息子の友達の母親ということだ。


「ああ、一也君のお母さんだったんですか。ご挨拶が遅れました。こちらこそいつも京太がお世話に……」


「堅苦しいのはやめましょ。一也も喜んでたわ、京太君と同じクラスになれたって」


「でも、どうしてわたしが京太の母親だと?」


「前にあなたが京太君を迎えに来てたのをお見かけしたの。あの時にちゃんとご挨拶しとけばよかったんだけど、タイミングが合わなくて」


「そうだったんですね。わたしも気がつけばよかったんですけど、すみません」


「気にしないで、ね? あ、そうだ」


 下田はカバンから一枚のチラシを取り出した。


「わたし、調理師の資格持ってるの。毎週水曜日に料理教室も開いてるから、よかったら赤座さんもいらっしゃいよ」


 美紗は渡されたチラシの内容を見た。毎週水曜日の昼頃に、近所にある専用の調理場を借りて開催しているとのことだった。


「お誘いは嬉しいんですけど、行けません。主人に叱られますので」


「お金のことなら気にしなくていいわよ。初回は無料体験扱いにしてるから」


「お金もなんですが、家庭がおろそかになることを許さないんです。せっかくのお誘いで申し訳ないんですが……すみません」


「初回だけでもダメなの?」


「少しでも怒られると思います。今日も説明会が終わったら買い物だけしてすぐに帰るように言われているので」


「あら、残念ね。チラシはそのままお渡しするわ。もし気が変わったら教えてちょうだいね」


 せっかくなのに申し訳ありません、と言いながら美紗はその場を離れた。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「そもそもなんであの女はお前を執拗に教室に誘うんだ? そこが不思議なんだ」


「京太の友達のお母さんだからでしょ? せっかくそのよしみで誘ってくださってるのに、無下にできないわ」


「子供同士の付き合いだろ。大人が顔を突っ込む必要はない。おかしい女だ。変なことにならなきゃいいがな」


「失礼なこと言わないで」


「失礼なもんか」


 康夫はパソコンの画面を閉じると美紗の方に向き直った。さっきまでとは違い、かなり感情的になっている。


「こっちにはこっちの都合があるのにずけずけと入ってきやがって。人が作ってきた家庭を何だと思ってるんだ。調理師か何だか知らないが、あいつも主婦なんだろ? 女は結婚したらおとなしく家庭に入ってりゃいいんだ。ああいうのは俺からしたら疫病神だ」


 康夫はこうして人のことを見下すところがある。昔はそんな人ではなかったのに、出世をしたことで変わってしまったのだろうか――美紗はそんなことを考えながら、それとは別に、下田に料理教室へ誘われた数日後に起きたことも思い出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る