捨てる紙あれど拾う神なし
URABE
発達障害の中年サラリーマン
俺はブラック企業に勤めるエリート会社員だ。我が社はブラックゆえ最低賃金や社会保険などとは縁遠く、こんなカス企業でもつぶれずに残っているのは、長年勤め上げた俺のおかげといえる。
50歳を過ぎた俺だが、昨年から代替わりした若造、いや新社長からは犬猫のごとく蔑視され、同僚からは「出木な杉さん」などと、ドラ〇もんの登場人物をもじった陰口を叩かれる日々を送る。まぁ人間なんて愚かな生き物であり、エリートを羨むあまりに嫉妬が生まれるのは理解できるわけで、そんな小さなことにこだわったりはしない。
最近の俺の仕事は、朝イチで新聞を読むことだ。会社のポストから新聞を抜き出し、それを隈なく読み尽くすこと。今どきの若者にはハードルの高い内容ゆえ、年長者の俺に委ねられたといっていいだろう。
今でこそ職場の
「キモヲタの中年に取引先でヘコヘコされたら、逆に気持ち悪がられて商談不成立になる!」
なんて陰口をトイレで聞いた。多分、俺を連れて行けば自分の手柄にならないことを恐れているのだろう。まぁ、若さゆえの過ちとはそういうものだ。
そんな完璧主義の俺にとって、唯一できない仕事といったら書類作成だ。メールを読むことはできるが返すことができない。ワードやエクセルも使い方が分からない。俺はどちらかというと肉体派の人間だから、こういうチマチマした手作業は性に合わないのだ。
後輩から、
「せめて電話番くらい、お願いできませんか?」
と言われたこともあるが、顔の見えない相手との会話は得意ではないため、焦りと緊張から吃音がひどくなり会話が成立しない。あげく、短気な相手は怒って電話を叩きつける始末。
切られた電話に向かて俺は言ってやったさ、
「そんなことじゃ社会の荒波に飲まれてしまうぞ」
ってな。
しかしながら今思えば同期は全員、とっくの昔に転職してしまった。地方の私立大学を卒業した俺は就職浪人をし、567社目にしてようやく内定を掴んだのが今の会社。本能的に「ここを辞めたら生活保護しかない」と勘づいているため、定年退職までは何が何でも辞めないと決めている。
プライベートは極めて
ただ一つだけ許せないのは、結婚式に俺を呼ばなかったことだ。
「お兄ちゃんみたいな恥ずかしい人が、身内にいるって思われたくない」
そうハッキリ言われたときは驚いたが、あいつらしいと妙に納得した。まぁ好きにすればいい、俺の人生じゃないのだから。
そういえば最近、飼っていたカタツムリが死んだ。わずか一年弱でこの世を去ったが、俺のようなエリート人生を送れないのならば、さっさと死んだ方がマシかもしれない。いや待てよ、考えようによっては俺がカタツムリに見切りをつけられたのか?そんなはずはないか。
しかし、思い返せば半世紀以上を生きてきたが、この世で俺が必要とされることはあまりなかった。時代が俺に追いついていないことがそもそもの原因だが、優秀な人材を使いこなせない社会というのも、哀れなものだ。
まぁでも、それはそれで無駄な責任を感じずに済むからいい。こうして誰にでもできる仕事を適当にこなしていれば、あと10年はこの会社でのんびり過ごすことができる。そうさ、俺は勝ち組の人間というわけだ。
そしていよいよ定年退職を迎えたら、大手を振って生活保護の申請に行ってやる。社会保険未加入の俺は年金などもらえない。そんな社会的弱者の俺が定年までしっかりと貢献してきたのだから、65歳を超えたらそのくらいの贅沢をしたってバチは当たらない。
だからこそ今は静かに存在感を消して、無難に毎日をやり過ごすだけなのだ。
*
不運にも今日、珍しくストレス(仕事)が襲いかかってきた。
コロナ禍で休業した期間の給料を国が補助してくれる制度があるらしく、うちの会社も申請をすれば数百万円がもらえるらしい。その申請書類をポストへ投函するという大仕事だ。おまけに「提出期限が明後日までだから、今日中に投函しなければならない」という身勝手な条件付きで。
だが、帰宅途中のポストで構わないとのことだから、駅までの道筋をキョロキョロしながら歩いているところだ。
ここは新宿駅の西口付近。オフィスビルに囲まれたこの地にポストが見当たらないわけがない。ところがさっきから散々ウロウロしているのに、赤い四角がどこにも立っていないのだ。
(そ、そんなはずはない)
焦りながらもさらにキョロキョロしながら歩き続ける。しかし本当に、どこにもポストは見当たらない。不安と恐怖から手のひらが汗でビショビショになる。まぁ最悪の場合、ローソンを見つければ店内にポストが設置されているから大丈夫だ。最近はローソンポストに投函した記憶しかないくらい、あれは便利なんだ。しかしいまのところ、セブンとファミマばかりでローソンの看板を見かけない。
とその時、強く握りすぎたせいでレターパックが折れ曲がっていることに気づいた。さらに宛先の文字が手汗で
(こ、これはまずい。手ではなく脇に抱えよう)
これ以上書類に被害が出る前になんとかポストを探さなければならない。俺は
――あぁ、電車に乗る前になんとか投函したかった。数百万円の申請書類なんてお荷物を抱えたまま、電車になど乗りたくなかった。
力なく首を垂れ、脇に抱えるレターパックへ視線を落とす。すると、なんと手汗で滲んだ文字がワイシャツとこすれて、墨を塗ったかのように真っ黒に汚れているではないか!
もはや宛先など一文字も読めない。差出人の部分までインクが滲んでしまい、まるで悪質ないたずら状態だ。
(こ、こ、こんなこと会社にバレたら、て、定年前にクビになってしまう)
額から垂れる脂汗。バクバク激しく鼓動する心臓。体中の力が抜けてしまったかのように、鼻水とよだれがこぼれ落ちそうになる。
呆然とその場に立ちつくしていると、突如、改札口の向こうにぼんやりとポストが見えてきた。さっきからずっと探し求めていた、あの長方形の投函口がようやく目の前に現れたのだ。
――あぁ、神は俺を見捨ててはいなかった。一秒でも早く投函してしまおう、自由の身になろう!
駆け足で改札を通ると、後光が差す投函口へとレターパックを放り込む。トスン、と重みのある音とともにポストの底へ落ちたことを確認。
――やった、これで任務完了だ!
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