君を迎えに

雨瀬くらげ

 七月から八月に変わるだけで体感温度がガラッと変わる気がする。月末数日と翌月初めの数日じゃほとんど気温に変化はないはずなのに、八月だと意識するだけで全然違う。スーツケースの持つ部分も手汗まみれだ。鼻まで額の汗が落ちてきて塩の匂いがする。



 駅の中に入り、巨大な入道雲が見えなくなると少しだけ涼しくなった。




 改札前は北口と南口がある通路になっており、そのためエアコンなどは付いていない。ベンチに座っている人々はハンディファンやうちわなど、各々のやり方で涼を取っていた。




 俺もその人たちと同様にベンチに腰をかけ、顔に手で風を送る。仕事終わりにそのまま空港へ行き、降り立った後はすぐにバスに乗って来たので、まだスーツを着たままだった。そのせいで首元が暑苦しく、俺は一番上のボタンを取った。




 改札からぞろぞろと人が降りてくる。補習終わりのような高校生、俺と同じようにスーツを着た社会人、ギターを抱えるバンドマン風の人、そして俺に手を振る人。




「心司!」




 シンジ、と俺の名前を呼びながら彼はこちらへ駆けて来る。俺も彼の動きに呼応するように腰を上げた。




「陽平、久しぶりだな。三年ぶりか?」

「三年と四ヶ月と数日だ」




 名前に『陽』を冠するだけあって、彼は明るく俺の肩を叩く。その笑顔も、言動も最後に見た陽平そのままだった。しかし上手く結べていないネクタイや、剃り残しのある髭を見ると何かが変わってしまったんだなと思わざるを得なかった。




 俺と陽平は高校時代までこの街に住んでいた。青春の全てがこの街に詰まっているのだ。小四までは三人の思い出。それからは二人の思い出。




 俺たちの思い出が決定的に変わったあの日が迫っている。その節目のために、こうして俺たちは再び顔を合わせたのだ。




「そんじゃあ、買いに行くか」

「そうだな」




 スーツ姿の大人が向かった先は駅の中にあるスーパーマーケットだ。ここで予定の物を買ったら、そのままタクシーで目的地へ向かう。




 スーパーはさすがにエアコンが効いていた。ベトベトになった首元や額をじんわりと冷やしてくれる。




 買うものは限られているので二手に分かれることにした。俺は一番端の陳列棚に行き、予想通り割り箸を見つける。陽平が探しに行ったものも、普通のスーパーなら間違いなく置かれているであろうものなので特に心配はいらないだろう。




 しかしレジ前で集合した陽平が手に持っている物を見て、俺は別の意味で驚いた。




「ナスなかったの?」

「あったけど、キュウリだけで十分だろ」




 キュウリとナスがあってこその精霊馬なはずだが、実の弟がキュウリだけで構わないと言うのなら血の繋がっていない俺があれこれ言うのも気が引けた。




 レジ前の棚からペットボトルの水を二本取り、キュウリと割り箸を無事購入。スーパーを出てタクシー乗り場へ向かうと予約しておいたタクシーが既に来ていた。




 二人分のスーツケースをトランクに入れてもらい、運転手に行き先を告げる。陽平の姉、陽菜が眠る墓地は駅から少し離れた場所にあるのだ。




「ありがとうございます」




 墓参りが終わるまで待っていてもらうのだが、一応礼を言って降りた。




 駅のあった街中の景色とは打って変わって田んぼだらけ。その中にポツンと小さな墓地がある。

五段ほどの石段や通路には雑草が生え、どこから来たのかわからない木の枝などもあり、手入れが行き届いていない状態だった。まるで俺たち以外ここに来ていないようだ。よく見てみると鳥のフンがついたままの墓石や、枯れたまま変えられていない花もある。




 中にいる人たちはどんな気持ちなのだろう。やはり身内が会いに来てくれないというのは寂しいのだろうか。もしそうなら、陽菜姉さんが相手をしてあげていればいいなと思う。いや、そもそもみんなこの地に留まっているか? みんな天国にいるんじゃないのか。考えても仕方がないことに気づき、どちらにしても心配はいらないと結論づける。




 俺たちは陽菜姉さんが眠る場所の前に着くと、一度両手を合わせる。




 俺と陽平と二つ上の陽菜姉さんは小五まで児童養護施設にいた。他にもたくさん子供がいたけど、俺たち三人は特に仲が良かったと今でも思う。陽菜姉さんは年上だということもあり、俺たちのまとめ役になっていた。私の背中を見てなとでも言わんばかりの後ろ姿をはっきりと覚えている。学校から帰るときは必ず俺たちの教室まで迎えに来てくれていた。今思うと、小学生とは思えないくらい大人びた存在だ。施設の人よりも俺たちの親のような人だった。




 しかし、そんな陽菜姉さんにも一つだけ子供らしい悪いところもあった。




 たとえば遠足の日、早く出発したいために弁当を入れるのも忘れて施設を飛び出したり、運動会の徒競走も気持ちだけが先走ってよくフライングしていたり。要はせっかちなのだ。




 その俺たちをまとめる大人びた人柄とせっかちな性格が仇となって事故は起きた。




 入道雲が現れ始める夏の初め。地区のプール開放日。




 水着を持った彼女は「陽菜隊長について来なさい!」と、俺と陽平の手を引っ張って歩道を走っていた。早くプールに入りたいという気持ちがもうそっちへ行ってしまい、死角から飛び出してくる軽トラなどにもはや注意は向いていなかったのだ。




 飛び出した三人の体。鳴り響くクラクション音。スローモーションで見えた強張る運転手の顔。陽菜姉さんは咄嗟の判断で俺と陽平の体を突き飛ばし、代わりに彼女は軽トラにぶつかった。




 周囲の空気が凍った。救急車を呼ぶ声、減速していなかった運転手を攻める声、俺たちにも怪我がないか確認してくれる声。




 病院に迎えに来てくれた施設長の顔は険しかった。もちろん自分の施設の子供である陽菜姉さんを失った悲しさもあると思う。しかし施設の子供が不注意で事故を引き起こしたという事実の方が嫌だと感じているような気がした。施設に戻っても俺と陽平はあまり歓迎されず、連日やってくるマスコミにもみんな疲れていた。




「さて、じゃあ作るか」




 先に目を開けた陽平がエコバックを漁り、さっき買って来たものを取り出して地面に置いていく。




 俺も合わせていた手を離し、割り箸の袋から取った四膳を陽平に渡す。彼はそれを受け取ると代わりにキュウリを一本俺に手渡してきた。




「あのさ、一応もう一回聞くけど。本当にナス要らなかったの?」

「要らないよ」




 と、気づけばもう陽平は一匹の精霊馬を完成させている。




「ナスはゆっくり帰るために牛がモチーフだ。キュウリは上から早く帰ってこられるように馬がモチーフ。姉貴のことだから、帰るときも向こうの友達に早くこっちでのお土産話をしたくてたまらないだろうからな」

「なるほど、確かにな」




 笑いながら俺も遅れて精霊馬を完成させる。




 初めて作った歪な馬二匹を並べ、買ってきた水を熱くなった墓石にかけた。




「本当は決まった置く場所とかがあるみたいだけど、ナス牛がいない時点で型にハマったものじゃないからな、許してくれよ姉さん」

「きっと許してくれるさ」




 十七回忌。幼い姿のままの陽菜姉さんを思い浮かべながら、もう一度手を合わせた。




 お互いが社会人になるまでは二人で命日にここに来ていた。就職してからは中々都合も合わず、お互い別々の都合のいい日に行こうと話していたのだが節目となる十七回忌は一緒に来ようとも決めていた。




 先のことだろうと思っていたのに、気づけばこの日。時間が経つのは早いものだ。




「さ、運転手待たせてるし。そろそろ行くか」

「そうだな。あんまり長居しすぎても姉さんからウザがられそうだ」




 石段を降り、再びタクシーに乗り込む。体がまた熱くなっていたので、冷えた車内に思わず溜め息をついてしまう。するとそれを見た陽平が陽気に笑い始めた。




「なんだよ」

「いや、なんでも」




 とか言うが、こいつはまだ笑っている。




「あのー、次はどちらまで?」




 一向に行き先を言わない乗客に痺れを切らした運転手が、ミラー越しに俺たちの顔を見て来た。陽平には笑いを止めてもらうことを最優先にして、俺が代わりに運転手へ次の目的地を告げる。




「ごめんなさい、さっきの駅までもう一度お願いします」

「はい、かしこまりました」




 タクシーがゆっくりと動き始める。傾いてきた太陽の暖かい光が眠気を誘うが、大人として駅までくらいの道のりで眠ってしまうわけにはいかない。俺は意識を陽平の方へ向けた。




「で、さっきの笑いはなんだよ」

「いやあ、昔はちょっと炎天下で過ごしたくらいでバテなかったのに。おじさんになったなあって」

「お前も同い年だからな?」

「そうだけど、俺は全然バテてない」




 痛いところを突かれてしまった。実際、陽平は汗をかいているものの疲れた様子はなかった。しかし改めてよく見ると陽平も随分とおじさんになったものだ。もう肌にハリはないし、目にもかつてのような輝きはない。それはきっと俺も同じで、もう今までの俺たちはいないという事を嫌でも実感させられた。




「バテてなくても確実におじさんにはなってるぞ。若いとは言えない年齢になって来てるんだから」

「それは否めないなあ」




 陽平は苦笑しながら、窓の縁に頬杖をつく。




「ま、いつまでも若いままじゃいられないしな」




 時間の不可逆性の話なのか、精神的な話なのか。今の彼の言葉だけでは判別のしようがない。間違いなく言えるのは、陽平はそんなことを言うような人間ではなかったという事。会っていない間にした経験が、彼を良くも悪くも変えたのだ。




 気づけばタクシーは駅に戻って来ていた。料金を払い、トランクからスーツケースを降ろしてもらう。




「心司はこれからどうやって帰るの? バス?」

「いや、おじさんが迎えに来てくれる予定なんだ。時間的にももう着いてるはず。陽平は?」

「俺も同じだ。二十分後くらいに約束してる」




 お互いにスマホの時計で時刻を確認し、顔を見合わせる。




「じゃ、俺がお先だな」

「だな」

「また時間あったら会おうぜ」

「もちろんだ」




 と、俺は手を挙げながら彼と別れる。久しぶりに会ったにしては簡素な別れ方かもしれない。だからと言って大袈裟に別れを惜しむのは青春時代にだけ許される行為な気がして嫌だ。これくらいがちょうどいい。一生会えないわけではあるまいし。

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