第三十九話 講和勧告




天文十九年(1550)十月中旬 尾張国知多郡半田村 半田城近郊 河尻 秀隆




隙間の無い槍襖に、儂の前にいた足軽が刺し殺された。鮮血が空に舞い、儂の顔にもかかる。生暖かい。それに邪魔だ。すぐに拭って払う。


何とか突破口を開こうと、敵の槍を叩き落として僅かな隙間を作り、すかさず身を突っ込む。その先で、槍を持っている敵方の一人に刀を掛ける。刃先が肩に触れて槍を落とさせる事が出来たが、手傷を負った敵はすぐに下がり、すぐに後ろから代わりの槍使いがやって来た。


不味い。“ドクン”と激しく胸が鼓動する。

このままでは逆に儂がやられる。既(すんで)の所で自分の部隊に引き返した。

敵陣を見やれば、何事も無かったようにこちらへ向かって槍襖を作っている。俺の首を獲ろうと、一人二人が抜け駆けして掛かってくる様子も無い。よく統制が取れた部隊だと感心するとともに、厄介な相手に当たったと辟易する。

だが、この相手をどう切り崩そうかとどこかで喜んでいる自分がいる。さて……。


「我は織田三河守が家臣、河尻与四郎である!先の小豆坂で今川の首を多く討ち取っておる!我こそと思う者は、恨みに思う者は掛かって来るがよいぞ!」

腹の底から声を張って、今川の手勢に向かって叫ぶ。

だが応じる様子は無い。フッ。岩のような奴らだ。


こちらは敵の三倍はいるのだ。ここは押して崩すしかないか……。




天文十九年(1550)十月中旬 尾張国知多郡半田村 半田城近郊 織田 信秀




「まさか打って出てくるとは思わなんだわ」

ふと思った事が口に出た。

「退路を絶たれるのを嫌ったのだろう。とはいえこの兵力を相手に出てくるとは中々気骨があるな」

三郎の言うとおりだ。中々読みが良い。


こちらは四千の兵に対し、見たところ敵は千といったところか。城内にどれだけいるか分からぬが、いたとしても後二、三百程度だろう。


「そうだな。寡兵でありながら打って出てくると言うことは、大野城方面の兵を逃がすためかも知れぬ。もしくは合流を待っているか。……何れにしても兵力差のある今のうちに一叩きしておきたい所だが」

「そうだな。今川は知多方面の兵だけでも合わせて三千だからな。合流されると厄介だな。だが敵は両翼が頑張っている」

その通りだ。先程から中央は味方が押しているが、肝心な両翼が全く崩れない。


「その通りよ。両翼を崩さば形勢は一気に決まる。ここはお前の馬廻りに増援を頼むかの」

"任せよ"

半分は考え事のように呟いたのだが、三郎は聞くや否や馬に乗って駆けていった。子飼の馬廻りが三郎に続く。馬廻りは家臣達の次男や三男坊が取り立てられたが素行の悪い者共が多い。曲者揃いだが、三郎はよくまとめておるようだ。いや、三郎が最大の曲者かの。


さて、日暮れも近い。兵を出し惜しみしても仕方がないだろう。伏兵もいる様子はない。総攻めの号令を掛けるべく悲鳴をあげる身体に鞭を打つ。

儂の命を受けて、使い番が方々へ散る。命を受けた味方の全軍が、魚鱗の陣形に近い形で敵陣へ攻め掛かった。






「報告っ」

「申せっ」

「左翼側中央の柴田権六様より伝令っ!まもなく敵の一陣を破りまする」

「大儀である。なれどまだ敵の最左翼が粘っている。権六にはしばらく待てと伝えよ」

"はっ"

使い番が権六の隊へ向かってすぐさま走っていく。敵は相変わらず両翼が頑張っているな。ここを崩さねば後ろから崩される可能性がある。中央だけで押し込むのは危険だ。


「右翼はどうなっているっ」

「河尻与四郎が奮戦しておりまするが、敵の最右翼にしぶとく粘られておりまする」

傍らに控えている平手中務丞が答えた。右翼も左翼と同じか。敵は両翼に精鋭を配置してきたのか?随分と手強い。与四郎は家中でも武勇を誇る猛者だが……。

「中務丞は状況をどうみる」

弾正忠家の大を支えてきた忠臣が、神経質そうな顔をいつも通り歪めて真面目に答えてくる。


「よくありませんな。与四郎が奮戦しておりますが、敵の両翼を崩さねば中央で圧しても不完全でござります。なれどあの両翼は中々崩れますまい」

ふむ。確かに中務丞の言うとおりだ。先程から徐々に味方の被害が増えている。無理をすれば崩せようが、我等にはまだ戦いが残っている。余り損害を重ねるわけにはいかぬ。


「これだけ押されても頑張るとは、敵ながら見事じゃの」

「左様でござりますな。ですが……殿、感心されている場合ではありませぬぞ。間もなく日が暮れまする。そろそろ陣太鼓を鳴らされるべきかと」

やれやれ、相変わらず爺は小姑のようじゃ。さして得るものも無く兵を引くのは癪だがやむを得んか……。


撤退の命を下そうとしていると、三郎がこちらに向かってくるのが見えた。

「親父殿、敵の槍襖は凄いぞ!我等に向かって隙間無く遮二無二突き刺してくる!」

「今ちょうどその話を中務丞としておったところよ」

「そうか!爺もそう思うか!」

「若殿、ここは戦場なれば、敵の見事に感銘を受けるだけでなく、対策を考えなければなりませぬ」

中務丞が三郎の守役らしく小言を言う。


「爺!あの槍襖にはな、長槍でどうだ!?あれよりもずっと長い槍で刺してやるのよ。此度は無理でも次は打ち負かしてくれようぞ」

成程、三郎なりに敵を破る方法を考えていたか。それに長槍とな。面白いではないか。

「確かに、若殿のお考えはご賢察にございますな」

「であろう!」


三郎がまた一つ成長したことが収穫か。

さてと、あまりまごつく訳にもいかぬ。

「中務丞、陣太鼓を」

「はっ」


"ドンドンドンドンドンドンドン"


陣太鼓の音に、攻勢を掛けていた味方が少しずつ引いていく。日も既にほとんど暮れている。敵もこちらに向かってはこない。


「中務丞、大野城へ乱波を放て。今川が手勢を引いているならばここに用はない」

「畏まってございまする。その後は?」

「そのうち三吉方面の今川勢がこちらに来るだろう。大和守様の兵と当たるやも知れぬ。我等が向かわねば大和守様が危うい。なに、今川勢の横っ腹にまた奇襲を仕掛けてくれるわ」

「八面六臂の活躍だな。身体は大丈夫か」

三郎が声を上げて笑いながら心配をしてきた。一見楽天的に笑っているように見えるが、儂を案じているのか目は笑っていない。

「年寄り扱いするでない。お家の大事に是非もないわ」

腹から声を出して儂も笑った。儂の身体の事を知らぬ家臣には、単なる親子の戯れ言にしか聞こえぬだろう。




天文十九年(1550)十一月上旬 三河国額田郡岡崎 岡崎城 今川 氏真




「失礼致しまする」

雪斎が部屋に入ってきた。会うのは出陣以来になるな。しばらく振りに見る雪斎の顔には疲れが見えた。

「お師匠、無事で何よりだ」

俺が苦労を労うと、雪斎が静かに応じた。

「只今戻って参りました。若殿に置かれましては獅子奮迅のご活躍の所、愚僧の失態によって御身を危険に曝し、お詫びの言葉もありませぬ」

苦悶の表情を浮かべながら雪斎が頭を下げた。


本隊である遠江衆は、織田の奇襲によって崩れかけた。雪斎は軍を立て直すべく三吉方面の三河衆へ使いを出したが、ここで兵を分ける策を講じた。三河衆を二手に分け、引き続き三吉方面の攻勢を続ける部隊と本隊の救援に向かう部隊で分けたのだ。


本隊が崩れようとする中で急いで出した使いだったため、誰が本隊の救援に向かうのか指示が不明確だった。そのために三河衆の中では誰が救援に向かうのか揉めた。揉めている内に本隊が崩れたという訳だ。


ようやく決まって天野安芸守や小原肥前守等が五千を率いて救援のために南下するが、本隊総崩れの報を救援に向かう途中で聞いたために、軍を反転して三吉方面へと引き返した。


その後、本隊の残存部隊をまとめた雪斎が、三河衆に合流して全軍で南下しようとしたところ、繰り返す方向転換に各部隊が混乱して行軍が南北に伸びた。その伸びきった無防備な行軍の横腹を、井伊彦次郎と戦って大返ししてきた弾正忠に突かれて総崩れしたらしい。松井五郎が織田勢にいくらか損害を与えるといった局地的な奮戦はあったようだが、大局に影響は無かった。

今川としては完膚無きまでの大敗だ。


三河へ逆攻勢を受けかねない程の大敗だったが、天は今川に味方した。朝廷から織田と今川に対する講和勧告があったのだ。


年初に雪斎は上洛していたが、その理由は三河の大樹寺を勅願寺にするためだったらしい。今川としては大樹寺を今川の手続きによって勅願寺とすることで三河支配を誇示し、朝廷としては勅願寺となった大樹寺から税の実入りが出来るという利害の一致があった。その最終調整のために伊勢から駿府へと訪れた権大納言四辻季遠に対して、黒衣の宰相殿は"このままでは織田が三河へ攻め入って大樹寺勅願の話が反故になるやも"と文を書いた。


慌てた四辻権大納言は織田弾正忠に停戦を促す文を送った。権大納言の文をきっかけに織田と今川の事務方で停戦交渉がはじまり、粗方素案が纏まった所で朝廷から正式に講和勧告が発せられた。


今川としては正に渡りに船の講和勧告だ。尾張と三河の国境を和睦の境界とし、俺の部隊が占領していた半田方面は返還することで合意した。戦前は尾張、三河の国境は両勢力が入り組んでいたが、一先ず勢力圏が確定した。逆攻勢を受けかねない状態だった事を考えれば御の字だと考えている。


「勝敗は兵家の常とは御師匠が教えてくれた事。幸いにして我が今川の将に死者はおらぬ。また捲土重来すればよい」

雪斎が俺の顔をまじまじと見ている。

……なんだ。ちょっと気色悪いぞ。

「もはやあなた様にお教えする事は何もありませぬ。愚僧は良き弟子を持ちました」

「随分と持ち上げてくれるではないか。それはそうと、御師匠はまた何かと企んでいるようだな」

雪斎の眉が僅かに動いた。心なしか不敵な笑みを浮かべている。そう、この生臭坊主は転んでもただでは起きない。

「織田方の交渉を担っている山口左馬助とその子である九郎次郎と懇意にしているらしいな。次の手への布石であろう」

俺の言に、雪斎が"若殿に隠し事はできませぬな"と呟きながら四方を眺めた。用心深いな。近習を下げよと言うことか。


「皆下がれ」

何人かは残そうかと思ったが、残れなかった者に要らぬ嫉妬を持たせても不味いし面倒だ。雪斎も二人でゆっくり話そうということかもしれぬ。ここは皆を下がらせよう。


「して、交渉の話だったな」

皆が下がって雪斎と俺の二人だけになった。

「はい。山口左馬助と九郎次郎、大分不安があるようで」

うん?不安と申したか?不満ではなくて?

「織田弾正忠の後継ぎには織田三郎がおりまするが、同じ腹の弟で勘十郎と言う者がおりまする。三郎と勘十郎は馬が全く合わぬようで、家中が二分されておるようにござりまする」

「ほぅ」

織田信行の話だな。確か品行方正で林佐渡守や柴田権六といった重臣が信行派になって家中が割れるはずだ。大○ドラマでも幾度と無く描かれている不仲だ。ま、知ってはいるがこの世界も同じか分からぬ。素知らぬ顔で応じた。


「兄弟で多少の対立というのはよくある話でございまするが、事をややこしゅうしているのは弾正忠の奥方、つまり三郎と勘十郎の母親でして」

「奥は勘十郎が可愛いか」

俺が相槌をうつと、雪斎が悪巧みを考える時に浮かべる不適な笑みで、ゆっくり"はい"と応じた。俺もつい笑みが零れる。

「ふむ。家中が割れて、国境を守る左馬助としてはこの先に不安を感じているということか」

「ご明察、恐れ入りまする」

「今回の停戦交渉でできた縁を使って左馬助の調略をするわけだな」

「愚僧の責により、遠江衆、三河衆は共に少なくない痛手を追っておりまする。ここは兵の痛まぬ調略にて面目躍如の機会を賜りたく、帰国次第御屋形様に具申致しまする」

「うむ。話の筋は悪くない。俺からも父上に勧めよう」

「ありがとうございまする」


山口左馬助と九郎次郎か。確か信秀が死ぬ前後に今川へ寝返るはずだ。今川に寝返った後は信長の侵攻の撃退、近隣の城を調略する等活躍したが、義元の策謀によって殺されるはずだ。俺としては結構優秀な人物だと思っている。問題は父上が無闇に左馬助親子を殺生してしまうことだ。確か桶狭間の直前だったよな。殺されるのは。しばらく状況を注視していくとするか。


「ところで」

一人今後を考えていると、雪斎が親しげに話しかけてきた。

「大野城ですが、若殿の火攻めにより灰と塵だけになったようです。織田方では、八紘一宇の旗を掲げる大将は鬼神、阿修羅の如き人物と話題になっているとか。お陰で調略がしやすくなっておりまする」

悪戯をした童を見るような顔で雪斎が話しかけてくる。

そうなの?ま、確かにあんな盛大に燃えてくれるとは思わなかったのだけどさ……。鬼神って…。

「……で、あるか。それで?俺だと伝えたのか」

「いえ、とぼけておきました。その方が面白いかと思いましてな」

生臭坊主が悪い顔をしている。思わず声を出して笑った。


雪斎の話によれば、井伊彦次郎が率いた親衛隊の戦い振りも織田方では中々の話題らしい。織田の南下を跳ね返したからな。彦次郎や他の者達に話してやろう。きっと喜ぶはずだ。




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