わんわんお④


「……出て行け」


 信じていた分、ダメージは二倍。

 文句のひとつやふたつも言ってやりたいけど、楓が前を向こうとしているのに違いはない。


 だからここは静かに退室してもらう。


「もぉ〜♡ 待ーてーなーいー♡!」


 だろうな。わかっていたよ。

 俺からの要望を聞かずに自分だけ濃厚なトレーニングを積む腹なのだから、出て行くわけがないよな。


 だったら多少強引にでも出て行ってもらう。


 兄として一度目は優しく言ってやった。でも二度目はもうない!


 ベッドの上でゴロニャンする楓の腕を掴み、ドアへと引っ張る。


「俺の部屋から出て行けって言ってんだろうが!! ハウスッ!」


 昨日はたまたま幼少期のトラウマを引き当ててクリティカルヒットしただけだ。今日は食って掛かって来るだろう。


 いい。覚悟の上だ。


 濃厚なトレーニングが積めないのであれば、どうせこの先に続く道は閉ざされている。


 ──ハレンチへの屈服。即ち、ボスからの制裁。


 もう日常には戻れないんだよ。


 だからいいぜ。楓。来るなら来い!!


 ──しかし楓に怒る素振りはなく、驚いた表情を見せてきた。


「え……? ど、どうしたの……? しないの?」


 そうか。どうして俺が怒っているのかさえ、わからないのか。


 当たり前だ。マシーンの気持ちなんて、わからないよな……。


「だってお前!! 体操着に着替えてくれないじゃないか!!!!」


 みっともない。此の期に及んで俺はいったいなにを言っているんだ……。楓は体操着には着替えない。わかっていることだろ……。


「そんなに体操着がいいの……? そこまでなの……?」

「当たり前だろうが!! 俺がどれだけお前の体操着姿を心待ちにしていたと思ってんだよ!!!!」


 あぁ、そうだ。三限目の体育後からずっとだ。脳内シミュレートを何度も重ねていたんだ……。1秒でも早く家に帰らないとって……。楓が待っているからって……。


 ちくしょう。


 その結果が、これかよ……。


「そ、そうなんだ……」

「わかったら出て行ってくれ。これ以上、お前とするトレーニングはない」


 結局、楓は俺のことをライオン使いとしては見ていなかった。体良く罵倒してくれるトレーニングマシーン。


 ごめんなさいマシーンから卒業しても、これでは意味がない。


 昨日までとなにひとつ変わらない。


 俺はなにも変わってなんかいなかったんだ。


 軽井沢さんの机を蹴飛ばしたのだって、爪先でちょこんと突いただけ。……わかっていた。ぜんぶぜんぶみんなわかっていたんだ。


 それでも不思議と勇気が湧いた。


 勘違いに浸れた時間は幸せだった。


 いいじゃないか。所詮俺はNOと言えない子ネズミ。元の鞘に戻るだけ。流れに身を任せ、終わるも生きるもライオン様次第。


 個という俺は、元から存在などしていなかったのだから──。


「……はぁ」


 ため息をひとつ。されどもまだ、楓は俺の部屋にいる。出て行く素振りがまったく見られない。


 昨日も似たようなことがあったな。だったら俺が出て行くか。……ここ、俺の部屋だけどさ。もう、いいよ。


 疲れちゃったよ、俺。


 そう思い、部屋から出ようとすると──。


「そんなに体操着が好きなら、いいよ。着替えても……」


 え。え⁈ ええーッ?!


「本当か?! ど、どんな心変わりだよ?!」

「普通に嫌なのは変わらないけど。お兄ちゃんがどうしてもって言うなら、いいよ」


 ……な、なななんてことだ。俺は大きな誤解をしていたのかもしれない。


 楓は俺をマシーンとして見ていたわけではなかった。ただ純粋に体操着に着替えるのが嫌だったんだ。


 それなのに俺は勝手に誤解して、人生の終焉ムードまで漂わせて……。情けない……恥ずかしい……。これでは形無しだ……。


 とはいえ落ち込んでいる場合ではない。


 せっかく楓が俺のために体操着を着てくれるって言っているんだ。これはもうトレーニングで返すしかないだろ!


 俺が楓にしてやれることと言えばトレーニングを除いてほかにはないのだから!


「ありがとう。恩にきる! よし。じゃあさっそく体操着に着替えてきてくれ! 超濃厚なトレーニングをするぞ! 覚悟しておけ!!」


「あっ、待って。でも今日はちょっと……無理。明日なら……って話」


 あー……れ?


 ま、まあべつに明日でもいいけど……。


 ていうかたった今、人生を諦めたばかりだからな。明日でも明後日でも一週間後でも構いやしないけどな……。


 でも本当に明日は来るのか?

 明日が来たらまた明日ってな感じに無限にスライドするんじゃないのか?


 だって楓の体操着嫌いはガチっぽいからな……。


 どうであれ楓が明日っていうなら仕方がないけど、理由は聞いておかないとな。


「着てくれるなら明日でも構わないけど、でもどうして明日なんだ?」

「あぁ、うん。今日さ、マラソン大会の練習があってさ」


 ……なんだって?


「それってもしかして、体育の授業か?」

「ん? そうだよ? それ以外に走る理由なんてなくない?」


 おいおい、まじかよ……。


「がんばったのか? ちゃんとゴールはしたのか? 見学したわけではあるまいな……?」

「え、あぁうん。最後まで走ったよ? だから今日は着れる体操着は持ってないんだよね。汚れちゃったから」


 ……なんてことだ。奇跡が目の前に転がっていたのに、俺はみすみす逃してしまったのか。


 だってこの流れは、置き体操着ってやつだろ……。


「そうか。学校に忘れてきちゃったのか……。だから今この家には体操着がないってわけだな……」


 今から楓の通う高校に取りに戻りたいところだが、さすがにそれは違うよな。


「いやいや。話聞いてた? 普通に持って帰ってきたよ? あんな汗だくでやばいの置きっぱなしにするわけないじゃん」


 ────ッ?!


「おい、今なんて言ったんだ?」


「なにって? 汗だくでやばい?」

「違う。それもそうだが! その前だ!」


「え。普通に持って帰ってきた……?」

「それだ!」


 でかしたぞ、楓!


「で、体操着は今、どこにあるんだ?」

「カバンの中に入れるのも嫌なくらいだったから、体操着袋ごと洗濯機に放り投げたけど……。ねえ、お兄ちゃん? 無理だよ? 着ないよ?」


「わかった!」

「待って、なにがわかったの?! 話聞いてる?! さすがに怒るよ?!」


「伏せ!」

「ワン!」


 さすがだ楓。反射的に伏せのポーズを取れるレベルに至ったか。たった一日でこの進歩。世間のワンちゃんたちもビックリだな!


「俺が良いって言うまで、そこでおとなしくしてろ!」

「ワンワン!」


 俺は大急ぎで階段を駆け下りる。最後は三段飛ばしの大ジャンプ。


 ──シュタ!


 目指すは脱衣所。体操着が封印される洗濯機へとGOGOGO!


 



 このときの俺はトレーニングを積むことばかりに気を取られ、人として大切ななにかを忘れていたんだ。

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