第4話 直パン座りの真実


「お兄ちゃーん! 遅刻するよ~!」


 お兄ちゃん。その響きに異世界に迷い込んでしまった気さえする、朝のひととき。


 昨日、筋トレを頑張り過ぎてしまったせいで筋肉痛とやらに苛まわれ、思うように身体が動かず──結果、慌ただしい朝になってしまった。


 そんなこんなで玄関まで走ると、すれ違いざまに楓に腕を掴まれた。


「ねえ、学校終わったら真っ直ぐ帰ってきてくれるよね……?」


「お、おう。トレーニングだな?」

「ワンッ!」


 やる気満々だな。自分を変えるために頑張ろうとする姿勢ってのは、見ているこっちまで感化されるよなぁ。


 昨晩は俺が眠りに就いた後も筋トレをがんばっていたみたいだし。

 楓の息を切らした声が子守唄みたいに聞こえて、ぐっすりと眠れたくらいだ。


「おう。寄り道せず帰るから、首を洗って待ってろ!」

「ワンワンッ!」


 がんばれ、楓!

 お兄ちゃんもがんばるからな!


 せっかくだから今のうちに話しておくか。

 この様子だと、家に帰ってきたらすぐにトレーニングが始まりそうなものだ。そうなれば俺も『ライオン使い』に成らざるを得ないからな。


「それからな、声は我慢しなくてもいいぞ? 昨日は夜遅くまでやってたみたいだからな。まぁ、これからはお互いに気遣いはなしでいこうって話だ」


「……は? な、なんの話……?」


 なるほど。筋トレをしていることは秘密にしたいのか。

 そうだよな。俺が筋トレを始めたって言ったら「キモ」って言ってきたくらいだ。


 でもな、もうそんなのは気にしなくていいんだぞ。

 お前が昨日、夜遅くまで頑張っていたことは知っているからな!


「べつに隠すことじゃないだろ? 昨日は俺もお前の声を聞きながらやってたからな。ひとりじゃないと思ったら、やたらと元気が出てな。だから楓さえ良ければ一緒にやりたいとも思っているんだよ。こういうのはさ、一人でするより二人でしたほうが楽しいだろ?」


「……ま、待ってお兄ちゃん。急過ぎるよ………」


「急ってことはないだろ。一人でやってると寂しくならないか?」

「寂しい……けど」

「だったらやろうぜ? 色々と道具も揃える予定だから欲しいのあったら言えよ?」


 やはりダンベルは欠かせないよな。

 ネットで調べた限りでは結構いい値段するみたいだし。二人でシェアして使えば節約にも繋がる。


「は、初めてだから……。急に言われても、困るよ……。道具なんて……そんなの……」


 なるほど。さては筋肉痛だな?

 俺も昨日、生まれて初めて筋トレを限界までがんばった。


 それは楓も同じってことか。


「わかったよ。じゃあ落ち着いたら一緒にやろうぜ? それならいいだろ?」

「……うん。そのときは昨日みたいに罵倒してくれる……?」


 本当に頑張り屋さんだな。筋トレをしながら罵倒されたいだなんて。

 この調子なら、俺がNOと言える人間になるのよりも先に、楓が怒るのを我慢できる良い子になるのが先かもしれないな。


 だったら尚更、俺も負けてはいられない!


「あぁ、いいぜ! お前が一緒にしてくれるってんなら、ボロ雑巾のように罵倒してやるよ! 雌豚を甘やかすような真似はしねえから安心しろ!」


「……ワンッ♡」


 互いを高められる関係ってのは本当にいいなあ。


 とはいえ、楓がライオンだということは絶対に忘れてはいけない。

 こうやって話をしているとワンコだと錯覚してしまうからな……。十分に注意をして、引き際だけは見誤らないようにしよう。







 ☆ ☆


 家では擬似的にだが『ライオン使い』としてデビューを果たした俺だけど……。


 学校では相も変わらずNOと言えない日陰者の日常が待ち構えている。


 教室に入れば、今日も朝から音霧さんが俺の机の上に腰を掛けていた。


「それ美味しそぉ~! ひとつもーらい! いぇいっ!」

「あっ、ちょっとあず! 勝手に取るなし!」


 そんな音霧さんは軽井沢さん(通称ケイ)のお菓子を無垢な笑顔で強奪すると、校則から逸脱した短い丈のスカートがぴゅいっとなびき──パステルブルーの秘めたる布がチラリと姿を現した。


 席へと向かう俺の足はピタリと止まる──。


「も1個もーらいっ! いぇい!」


 またもやスカートがぴゅいっとなびき、パステルブルーが露見する。朝から巻き起こる、スカートひらりの二連撃──しかしよく見れば、これは……水玉模様!


 ……大丈夫だ。落ち着け。

 水玉模様とわかったのなら、臆することはない。


 俺は音霧さんのパンツが恐ろしくて仕方がない。その理由は言わずもがな、彼女が直パンで俺の机の上に座ってしまうからだ。


 今まさに、机に何が押し当てられているのか。その全貌がわかっているのとそうじゃないのとでは、破壊力が段違いに変わってくる。

 

 だから知りたくないんだ。

 今日、君がどんなパンツを履いているのかだけは、絶対に知ってはならない情報なんだよ……。


 だが……。水玉模様とあらば、話はべつだ!


 昨晩、四つん這いで突き出されるお尻越しに凄まじい水玉模様を見たばかりだった。


 今も脳裏に焼き付いている──あの凄まじい破壊力と比べれば、チラッと見える程度の水玉模様など、恐れるに足りない!


 それはたとえ直パンで座られていようとも、だ!


 カエデライオンとのトレーニングに感謝を抱きながら、俺は自分の席へと足を動かす──。


「つーかさ、たまにはあずも自分で買ってきなよ。食べてばっかじゃん」

「うんっ! 今度買ってくるからぁっ! ってことで、もう1個もーらい!」


 ……三連撃目。


「いや、もう本当に取るなし!」


 音霧さんのお菓子強奪(パンチラ)が続く中、俺はそぉっと自分の席の椅子を引く。

 物音立てずに悟られないように最善の注意を払いながら、気配を殺して着席する。


 ……ふぅ。


 まぁ、臆することがなければ毎朝こんな感じだ。

 

 とはいえ休み時間はほぼ必ずと言っていいほど、音霧さんは俺の机に腰を掛けてしまう。


 隣の席である軽井沢さんが窓際最奥の席で、その前の席が瀬須川さんともなれば、俺の机の上がベストポジションになってしまうのは仕方のないことだ。


 なにより、最初の頃は「ねえねえ、座っていい?」と聞かれていた。

 当然、断れるわけもなく今に至るのだから、本当に仕方のないことなんだ。


 まっ、二学期になれば席替えがあるからな。

 六月も今週で終わりともなれば、あと少しの辛抱だ。


 掃除当番を押し付けられるのとは違って、直パン問題はなにもせずとも終わりを迎えてくれる。


 だからこのままでも、いいかな。なんて思っていたりもする。



 

 ☆ ☆


 が、しかし──。

 今日は梅雨の中休みで、夏を先取ったような蒸し暑い日だった。


 そんな中で行われた三限目の体育。


「もうだめかもしれないにゃあ……」


 体操着姿で背中に汗をびっしょりと帯びた音霧さんが──。やはり俺の机の上に座っていた。


「馬鹿ね。私たちと一緒に見学すればよかったのに」

「マラソン大会の練習とか走り損っしょ。本番だけ適当に走って途中でリタイアするのは鉄板じゃね? あずは変なところで真面目だからなー」


「なっ! ズル休みはよくない!」


 およそ適切ではない瀬須川さんと軽井沢さんの言葉に共感できてしまうくらいに、救いのない状況だった。


 体育を頑張ってしまった音霧さんからは、甘美でハレンチな香りが蒸気のように、むんむんとしている。それはもう──もあもあむんむんもあむんむんと熱を帯びるように──。


 この状況で俺が講じられる対策は、せめて匂いを嗅いでしまわないようにと『口呼吸』に徹するのみ──。


「つーかあず、見てるだけで暑苦しいから早く着替えてくんない?」


 ナイス軽井沢さん! と、思ったのも束の間。言いながら音霧さんに汗拭きシートを渡してしまった。


 とてつもなく、嫌な予感がする。


「いいの? じゃあ一枚もーらい! いぇい!」

「って、あっ! 二枚取ってるし!」


 すると音霧さんは体操着の中に手を入れて脇やら身体を拭き拭きし始めた。……もちろん、俺の机の上に座ったままで。


 その拭き拭きは背中にまで伸びてきて──。


 さらには腰へと下がり……。

 そのままハーフパンツのウエスト部分にまで侵入を果たす……。


 ちょ、あの……。すぐ後ろに俺、居るんだけど……。


「あぁ~! すぅすぅするー! 気持ちいぃ〜!」


 すると使い終わったであろう一枚目の汗拭きシートをゴミ箱には捨てに行かず──。そのまま腰掛ける机の上に置いてしまった!


 あ、あの……。俺の机にゴミを置くのはやめてもらっていいですか。


 ……とは、言えるわけもなく。


 二枚目は脚を拭くのに使い──。やはりどうしたって、使い終わった汗拭きシートは俺の机の上に置いてしまった。


 ちょ、本当に……あの……。


「着替えるのめんどくさいにゃあ。このまま授業受けちゃおうかなー」

「いっぱい汗をかいたのだから、着替えなきゃ風邪引くわよ? お手洗いに行くのなら付き合ってあげるから、行くなら早く行きましょう」


「うーん。いい! トイレまで行くのめんどくさいから!」


 瀬須川さんからの申し出をひと蹴りにすると、シュタっと俺の机から降りた。


 そして十秒経たずに戻って来たかと思えば、手にはスカートとワイシャツを持っていて、再び俺の机の上に座ってしまった……。


 ……まさか、ここで着替えるつもりなのか?



 そのまさかだった。音霧さんは体操着の上からワイシャツを羽織ると、もぞもぞもぞ……もぞもぞもぞ──。


 え……えぇ…………。本当に勘弁してくれよ……。


 気配を殺して、息を潜めるように座っていたことが災いした。

 音霧さんにとって、俺は意識の外に出てしまっているんだ。


 だってこんなの……。真後ろに男子が居て、至っていい行為じゃないだろ……。


 そうして体操着を脱ぎ終わると、もはやお決まりのように俺の机に置いた。……背中まで汗びっしょりになっていた、ハレンチ極まりない体操着が──まるで配膳されるように置かれてしまった。


 できたてホカホカの料理がもあもあむんむんと、その存在感を現すように──。


 ……どうして、こんなことに……。


 恐らく、音霧さんもこれがあまりよろしくないものだとわかっているからこそ、隠すように自分が腰掛ける真後ろに置いてしまうのだ。でも、その真後ろには……俺が居るんだよ……。


 続いてスカートを履きハーパンを脱ぎ終わると、やはり俺の机に──。


 そして制服に着替え終わった音霧さんは、尚も俺の机の上に座っていた。


「ふぅー! お着替え完了!」


 俺の心境に気づく様子は一切なく、音霧さんは呑気なものだった。


 しかし──。


「つーか、あず……。それ普通に前から丸見えだからやめたほうがいいよ? まあ、今はわたしらしか見えてないからいいけどさ」


「そうね。もぞもぞして隠して着替えているようだったけれど、普通に丸見えだったわよ? すごい手慣れた感じで自信あり気に着替えていたから、少し心配だわ」


「え⁈ えぇー!」


「あずってパステルカラー好きだよね~。今日は水色かぁ~!」

「い、い、言わないで!」


「あら。可愛くていいと思うわよ?」

「恥ずかしいから言わないで!」


 おいおい。どうしてそこで恥じらうんだよ……。それだけ恥じらえるのなら、少しでいいから後ろに居る俺にも気を使ってくれよ……。


 とはいえ──。


 キーンコーンカーンコーン。


 嵐のような時間はチャイムが鳴れば終わりを迎える。


 音霧さんはシュタッと俺の机から降りると、体操着とハーフパンツを手に取り自分の席へと戻っていった。


 ……あれ。ちょっと待て。持っていくものはそれだけなのか?


 使い終わった汗拭きシートのゴミが、俺の机の上に置きっぱなしにされていた。


 ちょ……。えっ……。


 それは彼女がひとたび俺の席を離れれば、鼻をかんだティッシュが置かれているようにしか見えない、自然な光景。


 「よーし授業始めるぞー! 今日は二十三ページの続きからだな」


 そして教師の声とともに授業が始まってしまった。


 ……おいおい、勘弁してくれよ。


 もはや汗拭きシートをゴミ箱に捨てに行ける状況ではなかった。


 このゴミは体育でがんばってしまったがばかりに“もうだめかもしれないにゃあ”と、弱音を吐くほどに疲れ切った音霧さんの身体を拭き拭きしたものだ。そのせいで多分に汗を含み、びっしょりと濡れている。


 そんなゴミが、俺の机の上にぽつんと置かれている。


 ……いや、本当に……。どうするの、これ……。

 

 しかし問題はそれだけには留まらなかった。


 なにやら机に異様な跡がついているんだ。

 それがいったいなんの跡なのか、もはや想像に容易いものだった。


 ついに……。恐れていた日が現実のものとなってしまった。


 跡がついている場所は、ついっさきまで音霧さんが腰を掛けている場所だった。つまり……あぁ……。


 この場合、汗と言うのか沸え汁と言うのか……判断の難しいところだ。


 でも、なにかがおかしい。

 桃のような、なんかそんな感じの跡なんだ。


 それは火照った体でパンツ越しに座ったからといって、出来るような跡とは少し違って見えた。


 ──ドクンッ。


 ま、まさか……。今まで一度も考えもしなかった、衝撃的な事実が頭の中を駆け巡る。


 もしかして音霧さん……。今しがたの君は、パンツが食い込んでしまっていたのか?


 なんてことだ……。決して知ってはならない、禁断の真実。

 考えてみれば当たり前のことだった。食い込んでしまう、そんな日もあるさ。


 つまり、毎回必ずパンツ越しに座っていたのではなく──。


「────つまりはパイの二乗だ! ここテストに出るからな! 忘れずに覚えておくんだぞ!」


 パイ……。ふたつの桃パイが、俺の机に……。



 当然、授業に身が入るわけもなく──。

 控える期末テストの対策と範囲を教えてくれる教師の声は、俺の耳には届かない。


 一学年のときはクラスで五本の指には必ず入っていた。学年順位も20位台をキープしていたのに、二学年に上がってからは見る影もない……。



 このままじゃ、だめだ。

 愚かしい煩悩を消し去らないことには、たとえ席替えをしても音霧さんを目で追ってしまうかもしれない。


 でも──。朝の俺は、パンチラする直パン問題をカエデライオンとのトレーニングで克服していた。



 だったら、もう一度──。今度は……。


 脳裏に浮かぶのは、兄としてはおよそ間違ったトレーニング内容だった。

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