第九十五話 高橋悠里はアルトサックスを吹く



1年5組の教室に到着した。

悠里は教室の扉を開けて要を招き入れる。


「私の席、窓際の前から三番目です。先輩は私の席を使ってください」


「いいの?」


「はいっ。持ってもらった、私が使うサックスケースは私の後ろの席に置いてください。仲良しのはるちゃんの席なので」


「わかった」


悠里は教卓に紙袋を置き、晴菜の席に向かう。

晴菜の机の脇にあるフックに通学鞄を掛けようとして、机を借りることを晴菜に伝えた方がいいかと思いついた悠里は鞄からスマホを取り出す。

そして、晴菜に『はるちゃんの机、ちょっと借りるね。使い終わったら消毒液を含ませたティッシュで綺麗に拭いておくね』とメッセージを送った。

送信を終えた悠里はスマホを鞄に入れて、鞄をフックに掛けた。

そして机の上の黒いサックスケースを開ける。

中には金色のアルトサックスが入っていた。

このサックスは要が使っている綺麗な銀色のアルトサックスとは違って細かい傷があり、古びている。

代々、一年生が使う楽器と教えられた。


「あ。そうだ。マスクケース」


悠里は机の横に掛けた鞄から、昨日作ったマスクケースを二つ取り出す。

そして、要のために作ったマスクケースを彼に差し出した。


「先輩。私、フローラ・カフェの公式サイトで作り方を確認しながらマスクケースを作ったんです。よかったら使ってください」


「わざわざ作ってくれたの? ありがとう」


要はマスクケースを受け取り、外したマスクを入れて蓋をした。

先輩に使ってもらえて嬉しい。作ってよかった。

悠里は嬉しくて緩む頬を引き締めながら、自分のマスクケースに外したマスクを入れて蓋をした。

それから、以前、要から貰ったアルトサックス用のリードをマウスピースにセットしてリガチャーのネジをしめる。


悠里がもたもたと準備をしている間に、要はマウスピースでの音出しを終え、組み立てた銀色のアルトサックスを首から下げたストラップに掛けた。

要のアルトサックスの音色に、悠里は手を止めて聞き惚れる。

ただ、長く音を伸ばしているだけの音色でも、とても綺麗だ。

初めて要のアルトサックスの音色を聞いた時から、ずっと、いつまでも聞いていたいと思う。

要は悠里の視線に気づいてサックスを吹くのをやめた。


「高橋さん。何かわからないことある?」


「いいえっ。先輩の音色が綺麗だなあと思って聞いてました。邪魔してすみませんっ」


「ありがとう。高橋さんはいつも、俺のサックスの音を褒めてくれるよね」


「私、先輩のアルトサックスを聞いて、サックスを吹きたいと思ったので……」


元々、吹奏楽部に入部したいと思っていたし、サックスに憧れていた。

でもサックスに種類があることは知らなくて、アルトサックスとテナーサックスの区別もつかなかった。

部活紹介で要の演奏を聞いて『アルトサックスを吹いてみたい』と強く思ったのだ。


「高橋さんがこっちを見てくれていたのは、ステージから見えたよ」


「え……っ!?」


要の言葉に悠里は目を丸くする。要は悠里に微笑んで口を開いた。


「俺は音出しを続けるけど、何か聞きたいことがあったら声を掛けてね」


要はそう言って微笑み、指ならしのフレーズを吹き始めた。

悠里は動揺を静めながら、マウスピースで音出しをする。

初心者で練習不足の悠里のマウスピースからはおもちゃのような音しか出ない。

教えてもらったタンギングの練習をしてから、マウスピースをネックにつける。

ネックでの音出しを終えると、ストラップを首からかけてアルトサックスを組み立てた。

アルトサックスをストラップのフックにかけて要に視線を向けると、彼は昨日買った楽譜を見ながら吹いている。

初見なのに滑らかな演奏で、上手だ。

要の演奏に自分のへたくそな音を重ねてしまうのが嫌で、悠里はアルトサックスを吹くのをためらう。

でも、自分が原因でさっきのように要の演奏の邪魔になるのも嫌だ。迷った末に、悠里はアルトサックスを吹くことにした。


上の『ド』から長く音をのばして、一番下の『ド』に到達する。

個人用のメトロノームはまだ買っていないし、部活用のメトロノームは持ってきていないので、カウントは適当だ。

要は悠里がアルトサックスを吹き始めたことに気づいて、演奏をやめ、彼女をそっと見守る。

悠里はアルトサックスを吹くことに必死で、要の演奏が止まっていることも彼に見られていることにも気づかない。


悠里は教わった基礎練習を一通り終えて、息を吐く。


「高橋さん。喉、乾かない? 自販機で何か買ってくるけど、何がいい?」


「私が行ってきますよ。先輩は座っててください」


「女の子に買ってきてもらうわけにはいかないよ。リクエストがないなら適当に買ってくるけどいいかな?」


要は穏やかな笑顔を浮かべて言う。昨日、奢ってもらうことになった時と同じオーラを感じたので悠里はおとなしく要の厚意に甘えることにした。


「えっと、私、先輩と同じ物が飲みたいです。今、お金を出しますね」


「後でいいよ。じゃあ、行ってくるね」


要はアルトサックスをストラップのフックから外して机に置き、教室を出て行く。


「先輩、優しくてかっこよくてサックス上手くて、素敵すぎる……」


悠里は要を見送った後、一人になった教室で呟いた。

せめて、少しでも上手にアルトサックスを吹けるようになって、先輩と一緒に演奏できるようになりたい。

悠里は要が戻ってくるまで基礎練習を繰り返した。

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