第七十九話 高橋悠里は憧れの先輩を『アルカディアオンライン』に誘う
要が『フローラ・カフェラテ』と『フローラ・ブレンドコーヒー』を買って席に戻って来た。
要は悠里の前に『フローラ・カフェラテ』を置き、自分の席に『フローラ・ブレンドコーヒー』を置いて席に座る。
「ありがとうございます。ごちそうさまです」
悠里は要にお礼を言って、ボックスの引き出しを開けた。その後で手指をアルコール消毒してマスクケースを二人分取り出す。
「先輩はお砂糖とかミルクとかいります?」
「いらない。ありがとう」
先輩は砂糖もミルクも使わない派と心に刻みながら、悠里はマスクケースを一つ要に渡した。
そして自分のマスクケースにマスクを外して入れ、蓋をする。
フローラ・カフェのマスクケースは紙で出来ているので使い終わったらゴミ箱に捨てればいい。
要もマスクを取ってマスクケースに入れ、蓋をした。
フローラ・カフェは常時、窓が二か所開いていて店内では換気扇が回っている上に空気清浄機が二台置いてある。
空気清浄機のフィルターは閉店後に毎日交換しているとフローラ・カフェの公式サイトに書いてあった。
店内に店員の姿はないが店の奥のスタッフルームに待機して店内をモニターで見守り、客が席を立つとテーブルと椅子をアルコール消毒するために現れる。
自販機のメニューの補充や、客からの呼び出しに応じることもあり、常時数人の店員が勤務している。
悠里は手元にある『フローラ・カフェラテ』を眺めた。
透明なプラスチックの蓋の下には可愛い花の模様がクリームで描かれている。
地球の環境のためにプラスチック削減が叫ばれている昨今だけれど、プラスチックは軽くて丈夫で使いやすい。
ゴミをポイ捨てする人がいなくなれば、別に過度に削減しなくてもいいんじゃないかと思うけれど、その意見はなんとなく口には出せない。
可愛い花の模様のクリームが崩れることをもったいなく思いながら、悠里はカフェラテを飲んだ。
甘くておいしい。そして目の前の要がマスクをつけずにいてくれることがレアで嬉しい。
優しい沈黙が満ちたその時、悠里は楽器店で要に『アルカディアオンライン』をすすめてみようと考えたことを思い出す。
どうしよう。すすめてみようか。
でも、要はゲームが好きじゃないかもしれない。
……だけど要が『アルカディアオンライン』をプレイしてくれたらゲームの中で会える可能性がある。
部活がなくても、休みの日でも会えるかもしれない。
悠里は迷った末に、要に『アルカディアオンライン』をすすめてみることにした。
「あの、藤ヶ谷先輩ってゲームとかしますか?」
「うん。するよ。うちの母親がゲーム好きで歴代のゲーム機とかほとんど家にあると思う」
ガチゲーマーの血脈……!! しかもお金をつぎ込む系!!
悠里は要の言葉に勇気づけられ、言葉を続ける。
「『アルカディアオンライン』っていうゲーム、知ってますか? ファンタジーVRMMOなんですけど」
「知ってる。やってみようかと思ったんだけど、母親に『基本無料をうたうゲームは碌なものじゃない。但しアマチュア制作のフリーゲームは名作がひそんでいることがあるから試す価値がある』って懇々と力説されて、面倒くさくなってやめたんだ」
「『アルカディアオンライン』は本当に無料ですごく綺麗なグラフィックだから楽しいですよ。詐欺とかじゃないです」
「高橋さんがすすめてくれるならプレイしてみようかな。一緒に遊べたら楽しそう」
「ぜひご一緒させてくださいっ」
悠里は拳を握りしめてそう言った直後に、自分の主人公が5歳の幼女だということを思い出した。
しかも未だに種族レベル1で能力値が低い。走る速度も遅い……。
「でも、私の主人公は5歳で未だに種族レベル1なんですけど……」
悠里はしゅんとして俯いた。
「5歳なの?」
要に問い掛けられて悠里は顔を上げる。
「そうなんです。幼女なんです」
「子ども主人公が成長していく系のゲームなの?」
「違います」
首を傾げて問う要がかっこいいと思いながら、悠里は『銀のうさぎ亭』という宿屋兼食堂の娘マリー・エドワーズ(5歳)を主人公に選んだいきさつを説明した。
悠里の話を聞き終えた要は微笑む。
「病気の女の子を見捨てられなかったんだ。高橋さんは優しいね」
マリーのグラフィックが可愛くなかったら、悠里はたぶん、あっさりと見捨てていたので優しくはない。
でも憧れの先輩に『優しい』と言われて微笑んでもらえてすごく嬉しいので、悠里は要の言葉を否定せずに微笑した。
「港町アヴィラにいる主人公キャラを選んでプレイを始めたら、ゲームの中で高橋さんに会えるかな」
「それなら会えます。私、先輩に会いに行きます。絶対……っ」
「ありがとう。ゲームの中の高橋さん、じゃなくてマリーちゃんに会えるの楽しみにしてる」
「はいっ」
「『アルカディアオンライン』の申し込みってスマホからでもできる?」
「えっと、申し込みには本人名義の銀行口座の登録が必要なんです。でも詐欺じゃないですよ」
「そうなんだ。じゃあ、家に帰ってから申し込んでみる。わからないことがあったら聞いてもいいかな?」
「はい。任せてくださいっ」
悠里と要はお喋りをしながら飲み物を飲み、そして二人の飲み物が空になっても話し続けた。
空が夕暮れに染まる頃にフローラ・カフェを出て、牧高食堂に向かう。
悠里が少しだけ要の前を歩く。道案内係として頑張ろうと意気込む悠里を要が優しく見つめる。
悠里と要は無事に牧高食堂に着いた。
要は牛丼を二人前、悠里はハムカツサンドを五人分テイクアウトした。
「高橋さんって家はどの辺り?」
「郵便局の斜め前です」
「そうなんだ。それなら道がわかるし、送るよ。あ、迷惑じゃなければだけど」
「迷惑じゃないですっ。嬉しいですけど、牛丼が冷めちゃいます」
「レンジで温めるから大丈夫」
要はそう言って歩き出す。
もう少しだけ、一緒にいられる。
悠里は嬉しい気持ちを抱きしめて、要に続いて足を踏み出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます