第111話 台地の娘

「おにいちゃん、今日も来たの? いつもいっしょのおじちゃんは?」


「やあ。ジャナンちゃん、おはよう。ブラークおじちゃんは今日はお休みなんだ。ごめんね。ところでバイラム殿は家にいるかな?」


「うん! じぃじ、今日もおうちにいるよ!」


「ありがとう」


「うん! よーじが終わったらまた遊んで!」


「うん、分かった。またね」


 これがここ最近のアルテンジュの典型的な会話である。ジャナンはテペのバイラムのたった一人の孫娘だ。彼女の両親――バイラムから見れば息子夫婦は、いずれも6年前に流行り病はやりやまいで若くして命を落としてしまい、今はバイラムが一人で、いや、持ち回りの従者も含めて複数人で育てている。バイラムの妻が存命であれば良かったのだが、残念ながら同じ流行り病はやりやまいで亡くなってしまった。祖父と孫娘だけの二人家族。それだけに、ほぼ無制限に遊んでくれるアルテンジュに、彼女の期待は大きく膨れ上がっている。

 しかしながら、アルテンジュの目的はバイラムと親交を深め、協力を得ることにあった。彼女と友誼ゆうぎを結ぶのはあくまでもついでなのだから、先に本来の用事を済ませなければならない。


「こんにちは」


「また来たのか。飽きもせずに毎日よく来るな」


「なんとしても、バイラム殿に御助力ごじょりょく頂かなくてはなりませんので」


「まあ入って座れ。今、チャイを淹れる」


 文句を言いながらも、いつもバイラムはアルテンジュを家に迎え入れて、チャイを出す。「疫病神でもなければ来客にチャイを出し、もてなすのが我らの習わしだ」とバイラムはしたり顔で主張する。「もっとも、お前さんが疫病神でなければいいがね」と付け加えるところが彼らしい。


 アルテンジュが中に入って長椅子セディルに腰かけ、しばらくくつろいでいると、バイラムが簡素な真鍮しんちゅうチャイダンルック2段式のティーポットとガラスのグラスをお盆に乗せて運んできた。お盆をそのままアルテンジュの右隣に置き、それを挟むようにバイラムも左膝だけ胡坐のように長椅子セディルに乗せて腰かける。そして、チャイダンルックの上段からチャイをグラスに注ぎ、半分ぐらいのところで、今度は下段から少しのお湯を注いで完成させた。


 ――タヴシャン・カヌ兎の血。そう表現されることもある鮮やかで上質な紅茶である。少し離れていても、その匂いは鼻から入り込み、口の中をもかぐわしく支配する。


「ありがとうございます」


 目と手振りで促されたアルテンジュは、お礼を述べてからチャイを口に含めば、香りの支配はより強まった。


「これは……、林檎りんごも少し入っていますね。何とも良い風味です」


「ほう、分かるかね。乾燥させた林檎りんご欠片かけらも、ほんの一摘ひとつまみ入れておる」


 しかし、タヴシャン・カヌ兎の血である。アルテンジュは今までもチャイをご馳走になっていたが、言うなれば薄味のチャイだった。それが今日はタヴシャン・カヌ兎の血林檎りんごの風味も足されている。これは、少しは進展があったとみていいのだろうかと、チャイの風味も忘れて彼は考える。


「考え事をしていてはチャイも楽しめまい。今はこの時間を味わえ。それも大事な礼儀だ」


「は、はい」


「大方、なぜ今日はこのようなもてなしをしてくれるのだろうと思っているのだろうが、ジャナンの遊び相手になってくれているようだからな。儂からのささやかな礼だとでも思えばいい」


「それはどうも。でも、ケスティルメに住めば、あそこは小さい子供も多いことですから、もっと友達と遊べるのでは?」


「それも考えはしたのだがな、どうにもあの町はせわしなくて儂には合わなんだ。それに、町に住んでいる者は同じテペ族の者でも、やはり文化が違ってきてしまう。文化の違う者に、助けて下さい、相談に乗って下さい、何とかして下さいと頼られるのも、なかなか難しいものだ。人間の心の動きは変わらないはずなのにな」


「心中お察しいたします」


「お前みたいな若造に言われてもな……。ともかく、あの子はシェスト教会で学校のある日くらいしか遊び相手がいないからな、両親もあの子が顔を覚えぬうちに死んでしまったことだし、これからも遊んでやってくれるとありがたい」


「ええ、私にできる事であれば喜んで協力しますよ。疫病と言えば、この辺りは1631年のものでひどくやられたみたいですね」


「ああ、あのときはひどかった。沢山死んだよ。我々テペの者も2割くらい死んでしまった。ケスティルメで一緒に暮らしていた息子夫婦も、妻も、最後には儂も、高熱と嘔吐おうとせってしまった。伝染しなかったのは、息子夫婦に頼まれてすぐに教会に預けたあの子くらいなものだった。そして、儂だけが生き残ってしまったなあ……」


 そう言ってバイラムは実に寂しそうに部屋の反対側を見つめ、深くため息をいた。そして思い出したようにチャイダンルックを手に取り、チャイを注ぐ。部屋の中にはその音だけが鳴っていた。


「でも、バイラム殿が生きていたお陰で、今があるのではないですか?」


「……その通りだよ。あのときはどうして生き残ってしまったのかと悩んだものだったが、儂まで死んでしまっていたらあの子は独りぼっちになってしまうところだった。いや、4人のうち、誰か1人でも生き残っていれば良かったんだが、今ではあの子の成長を見守れることを神に感謝しておる。死んだ3人には申し訳ないことだがな。ところでお前さんは、世間話をしに来たわけではないだろう。いつものお願いは良いのか?」


「そのようにおっしゃるということは、いよいよですね?」


「儂の返事は変わらんよ。協力はできない。だが、明日また来い。チャイぐらいは馳走してやる」


 返事を聞いたアルテンジュは希望に満ちた顔から急転直下、見るからに気落ちした表情になったのだが、その表情も維持されることはなかった。

 バイラムの従者の一人、真面目そうな壮年の男が買い物から戻ってきたのだが、ジャナンが見当たらないというのだ。


「バイラム様、只今戻りました」


「うむ。ご苦労」


「ジャナン様をお見かけしませんでしたが、今日はどこかへお出かけする用事でもありましたか?」


「いいや、今日はそんな用事はないぞ? 少し離れたところにでもいるんじゃないのか?」


「いいえ、生憎と。私の見える範囲にはおりませんでした」


「ふむぅ。それは探しにいかねばならないか。お前さんが来たときはどうだった?」


 腕組みをしたバイラムは、そう言って壁にもたれかかり、顔をアルテンジュに向ける。


「私のときはいつも通り、そこの2階の玄関の外で遊んでましたよ」


「そうか。では探しに行くぞ」


「え?」


「え? ではない。お前さん、先ほど喜んで協力しますよと言っておっただろうに。まさか儂の可愛い孫娘を探すことは出来ないと言うのではあるまいな?」


「いいえ、そういう事ではなく、私と一緒に探すのが意外でしたので」


「使えるものを使うだけだ。それに一緒ではないぞ。手分けして探すのだよ。お前さんは町へ向かう方角を探してみてくれ。それから太陽が真上まで上ったら見つからなくても戻ってこい。良いな?」


 そうして従者を家に残し、ジャナンを探し始めた。最初のうちはすぐに見つかるだろうと、二人ともたかくくっていた。


「見つかったか?」


「いいえ。そちらはどうでした?」


「儂の方もさっぱりだ。くそ! いったいどこに行ってしまったというのだ!」


 だが、時間が移ろい、決めた時間に顔を合わせて時間を引き延ばすたび、焦りと不安が募るばかりであった。


「おーい、ジャナンちゃーん! おーい! 聞こえたら返事をしておくれー! ジャナンちゃーん!」


「ジャナンちゃーん! 隠れてないで出ておいでー! おーい!」


「見つかったか!?」


「こっちにはいない!」


「ジャナンちゃーん!」


「ジャナン! ジャナーン! どこにいるんだ! 返事をしてくれ! お願いだ……、お願いだよ……」


 ブラークや近くのテペの者にも協力をお願いし、捜索する人数も増えてはいるのだが、成果は芳しくない。方々歩き回ったバイラムは限界が近いようで、時々地面にへたり込んでは呼びかけているが、もう空が赤みを帯び始めているというのに、返事が聞こえぬまま無情にも時間ばかりが過ぎていった。

 だが、太陽がいよいよ台地の陰に埋もれ、疲労とともに諦めの表情も見え始めたときだった。夕焼けに照らされた小さな横穴が、アルテンジュの目に飛び込んできたのである。その横穴はバイラムの家の裏手斜面にあり、高さはおよそ80センチほど。入口は上から下に草が伸びており、見つけることを困難にしていた。


 ――なんとなく、そこにいる気がしたんだ。アイン様かエルデ様か、或いはライゼ様が教えてくれたのかも知れない。

 アルテンジュはこのときのことをそう語る。


 四つん這いになり中を覗き込めば、1メートルほど先に見えたのは、茜色に染まる無垢な寝顔。


「ジャナンちゃん、起きて。俺だよ。起きて」


 そのまま両手両膝をついて中に入り、右手で揺すりながら声を掛けると、彼女はぱちりと目を覚まし、悪びれもせずに笑う。


「あれ、お兄ちゃん? 見つかっちゃった。えへへへへ」


「こんなところで何をしてたんだい?」


「かくれんぼよ! ここ、私しか知らない秘密の洞穴ほらあななの! でも、見つかっちゃったから今度はお兄ちゃんが隠れる番ね!」


「そっかー、上手く隠れないとな。でも、今日はもう暗いからおうちに帰ろうか。腹ペコでしょ?」


「うん! お腹空いた!」


 ジャナンの笑顔は実に無邪気に咲き誇る。大人たちの疲れなど吹き飛ばすかのように。

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