第56話 漸進
翌日の朝、目を覚ますと、少し低い見慣れない天井が広がっていた。体を起こすと、以前と部屋は違うが、窓の外には見慣れた景色が広がっている。
今、何時だろう?
そう思って辺りを見回し、耳を澄ませたが、時計の音は聞こえない。
ああ、そうか、……そうだった。ここはもうツチダの詰所じゃないんだ。
心なし重たい体を動かし、10年以上の相棒の
ポンプを押して井戸からベッケンに水を注ぎこみ、両手ですくって顔を洗うと、7月の暑さに1年を通してあまり温度が変わらない井戸水が気持ちいい。
少し気持ちが落ち着いたが、1日経ってみて、ボクのあの偉大な伯父上が亡くなったことが、じわりと心を抑えつけているようで、何か体の感覚がおかしい。何かに触っていても、地に足が着いていても、ふわふわと、ふわふわふわふわと覚束ない。ご近所さんと挨拶を交わしても、どこか自分ではない別の人物が聞いているようだ。ぼんやりと見上げれば、目の覚めるような
それでも、体が覚えているベーコンと豆のスープを作り、味は分からなかったが、お腹に納めた。7月の爽やかだけど、太陽が熱のカーテンを徐々に下ろしてくる頃、温かいスープが体に染み渡り、少しは考え事ができるようになったと思う。
借りている部屋に戻り、今日のことを考える。
今日はどうしようか?
今日はどうしようか?
今日はどうしようか?
今日はどうしようか?
今日はどうしよう?
今日はどうしよう?
今日はどうしよう?
今日はどうしよう?
今日は……
今日は……
……
……
面倒だ。考えるのが面倒だ。ただひたすらに面倒だ。
……ああ、これは前の世界で経験したことがあるな。どうしてそうなったのかは覚えていないが、無気力になって、ともかく色々なことがどうでもよくなったのだ。
こういうときはどうすれば良いんだっけ?
うん、そうだ。お日様にあたること、体を動かすこと、だ。
前の世界の僕はそれで無気力を忘れていた。
そうだ、傭兵組合の訓練場にでも行って、素振りでもしてみるか。
井戸の付近でしばらく日向ぼっこをして、10時の鐘が鳴る頃、子供の頃から歩き慣れた噴水広場までの土の道を踏みしめ進む。噴水広場では少しの間、石畳と靴が打ち鳴らす音を感じ、そこからまた土を踏みしめて傭兵組合に入る。
「おはようございます、ニクラウスさん」
組合の建物に入ると受付カウンターには、いつものお兄さんがいつものように変わらずそこに佇んでいて、俺はいつものように挨拶をした。
「おはようございます、スヴァンさん。昨日は大変だったみたいですね。大丈夫ですか?ところで例の報酬はまだ届いてませんけど、別の用事ですか?」
「そうなんです。もやもやしてすっきりしないので、体でも動かそうと思って。訓練場を使っても良いですか?」
「ええ、今日は講習も無いから大丈夫ですよ。今日は、朝一番でモーリッツさんが入って、スヴァンさんが二人目ですね。使い終わったらまた声をかけてください」
あの渋くて良い声のおじさんが先に使ってるのか。訓練に付き合えとか言われたらきついな……。どちらにしても体を動かしてみたいのだから、挨拶だけして隅っこで運動しようっと。
傭兵組合の訓練場は、組合の建物の裏手、それなりに広い土地を確保してあり、高さ2メートルほどの木の塀で囲まれているその場所は、ほぼ正方形で一辺の長さは20メートルくらいありそうだ。
木の塀が途切れ、関係者以外立ち入り禁止と書かれた無愛想な入口から中に入ると、頬に傷痕のある中年男性が、木の棒で素振りをしているところだった。
「おはようございます、モーリッツさん。朝から精が出ますね」
「お、スヴァンか。おはようさん。お前とここで会うなんて珍しいな。なんかあったのか?」
さっきニクラウスさんにも心配されてたな。今日の俺は、相当、疲れている顔をしているんだろう。
「モーリッツさんも既に知っていると思いますけど、昨日の領主屋敷での会合で、どっと疲れてしまいまして……」
「なんだ、昨日はお前も行ってたのか。ペーターの野郎が何かよそよそしいとは思っちゃいたが。今日も朝から忙しなく出掛けてるみたいだしな。まぁいい、皆まで言うな。どうせ、お
なんだ、モーリッツさんも知らないことだったんだ。うっかり会合の内容を話さなくて良かった。
「ああ、ええ、まぁ、その通りです……」
「俺もよぉ、悪いことがあったときなんかは、かなり落ち込むもんだが、そういうときは体を動かせばなんとかなるもんだぜ?落ち込んだときは筋肉を動かせ、筋肉を。ともかく筋肉は偉大だ」
前の世界で聞いたことがあるような筋肉理論だが、この人、訓練でボコボコにするだけじゃなくて心配してくれるんだな。ありがたい。
「ありがとうございます、モーリッツさん。じゃ、俺は邪魔にならないように、隅っこで筋肉を動かしてますね」
「なんだよ、スヴァン。つれないじゃねぇか。折角だから俺と一緒に筋肉を動かそうぜ?」
「いえ、邪魔しては悪いので、一人で……」
言い終わるかどうかくらいのタイミングで、モーリッツさんが両肩をガッと掴んでぐいぐい来る。
「若いうちはそんなに遠慮するもんじゃねぇぜぇ、なぁ?さ、やるぞ!」
「あーれー」
この後メチャクチャしごかれた。
*
「痛たたた……」
13時の鐘が鳴り終わった今は、噴水広場でベンチに腰掛けて休んでいる。モーリッツさんに筋肉愛を注ぎ込まれたお陰で、体があちこち痛い。が、それ以上にすっきりした。今朝のもやもやが全て吹き飛んだ心持ちだ。筋肉解決法、凄い効果だ。ありがとう、筋肉。いや、筋肉様。
筋肉信仰が芽生えかけたところで、今日やることを考えてみよう。まずは、布団が欲しい。綿の布団が無いと寝るのがしんどい。それから、今は依頼中に蓄えた銀貨が山盛りあるから良いけど、働かないとすぐになくなっちゃうかも知れないから、ボーネン食堂でもう一度働かせてもらえないか聞いてみよう。今回のように1年中傭兵の仕事だけで暮らしていけるのは稀なことだ。
そうだ、銀貨が山盛りあるんだ。これも嵩張るし、家で保管するのも物騒だから、どうにかしないと。銀行みたいな施設ってあるのかな?
あ、ボーネン食堂の店主と目が合った。とりあえず、雇ってもらえるかどうか、お客さんが途切れる隙を狙って聞いてみるとしよう。
「やあ、スヴァン君。久しぶり。歩き方がぎこちないけど大丈夫かい?」
「お久しぶりです、ドミニクさん。さっきまで傭兵組合でしごかれて、体があちこち痛くて」
「あはははは、若いって良いねー」
「あはは……。それで、相談なんですけど」
「うん、なんだい?」
「ここでまた働かせてもらえませんか?」
「なるほど、ツチダのお仕事が終わっちゃったんだー。でも、ごめんね。今は人手が足りているから君を雇えないんだ。ごめんねー」
「そうですか、残念ですけど仕方がないですね。お忙しいのにすみません」
「うん、また手が足りなくなったらよろしくねー」
「あ、そうだ」
「おや、まだ何かあるのかな?」
「貨幣なんですけどね、家に置いておくのも危ないから、どこかに預けられたら良いなと思ってるんですけど、預けられる場所ってありますか?」
「ほっほー。なるほどなるほどぅ。スヴァン君もいよいよ預金するお金持ちになったんだね。やるじゃないか」
「はぁ……、ええ……、まぁ……」
なんて答えてよいのか分からないから適当に返事をするしかない。
「この町だと、
「ミンツェか教会ですね。2ヶ所で何か違いとか……、おっと。すみません、お客さんですね。どうもありがとうございました」
「うん、ごめんね。またねー」
ドミニクさん、相変わらず良い人だった。
銀貨をミンツェと教会に預けられるなら、マザーにも一度相談してみよう。前に「教会特別金利で」とマザーが言っていたのはこういうことだったんだな。
そうと決まれば、さっさと布団を買って家に帰ろう。
ぐうぅぅぅぅぅ……
布団の前に、ボーネン食堂で腹ごしらえだな。
ふと見上げた空は、絵具をそのまま流し込んだかのような、7月の美しく透明な天色がどこまでも広がっていた。
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