その物語ができるまで
通木遼平
大切な幼馴染を取り戻すために男装して婚約者の公爵令嬢を誘惑することにした
「ソニアの髪、きれいだね。太陽みたいだ」
その太陽が浮かぶ青空のような瞳をくるんと丸くしてソニアはエリオットを見上げた。燃えるような赤毛とハシバミ色の瞳をしたやさしい顔立ちの男の子は、ソニアの大切な幼馴染だ。二人はとなり合った領地を持つ伯爵家の子どもで、こうしてよくお互いの家を行き来する両親に連れられて交流を重ねていた。
ソニアは一つ上に兄がいる影響かお転婆で、エリオットは反対に落ち着いた性格をしていたが、不思議と二人は気が合って年頃になったら婚約させるのもいいかもしれないと両親たちが話すほどだった。
やさしい手つきでエリオットはソニアの頭を撫でた。その手が大好きで、ずっとこうしていたいとソニアは幼心にそう望んでいた。
*** ***
ハサミを動かすとずっと伸ばしていた長い髪がハラハラと落ち、絨毯の上に金糸の模様を作り出した。きっと侍女のマーサは悲鳴を上げるわね、とソニア・ベイルが笑うと、鏡に映った髪の短くなったソニアも同じように笑った。
ソニアはこの国の伯爵家に生まれ、今年で十七歳になる。本当なら去年王都にある王立学園に入学していたはずだが、とある事情によりそれが叶わず領地の屋敷に引きこもっていた。でもソニアはどうしても学園に通いたくて、今年やっと王都の屋敷へと戻ってきた。
ここで過ごすのは、いつぶりだろう――王都にはじめて来た時ソニアはまだほんの子どもで、あの時はエリオットと彼の家族も一緒だった。王都の屋敷は少し離れていたけれどほとんど毎日どちらかの家に遊びに行き、はじめてのお茶会も一緒に参加した――
あれが運命の、分かれ道だった。
暗い気持ちが胸を過り、ソニアは頭を振った。ドレスを脱ぎ、晒しを巻いてシャツやジャケットを着こむ。ズボンとブーツも用意してある。すっかり着替え終われば、もうソニアはソニアではない。
「今日から僕は、ソニアの従兄のサイモン・ベイルだ」
ソニアの侍女のマーサが部屋を訪れ悲鳴を上げるのはその直後のことだった。
マーサに話をしていなかったのは反対されると思ったからだが黙っていたのも失敗だった。あやうく初日を遅刻しそうになりなんとか間に合ったソニアはほっと息を吐いた。今日からサイモンとして学園の第二学年に編入するのに遅刻なんてするわけにはいかない。
教室に入るとたくさんの視線が一斉にソニアに向けられた。王立学園は貴族の令息令嬢だけでなく平民でも優秀な人材を見つけるためにその門戸を大きく開いている。必修の授業を受けるクラスは様々な価値観を学べるようにと色々な身分の生徒の混合のクラスになっていた。
それでもそもそも学園全体で平民より貴族の方が多いので、当然クラスも貴族が多くなる。一番近くにいた男子生徒が「誰だお前?」と声をかけてきたが、その声には明らかに身分が低そうな相手に対する蔑みが込められているのがわかった。
「今日から編入してきたサイモン・ベイルです。よろしくお願いします」
できる限り低い声を意識して、それから教室全体に聞こえるようにソニアはあいさつをした。偉そうな男子生徒はそんなソニアをじろじろと眺めるとバカにしたように鼻で笑った。
「そこをどいてくれないか? 教室に入れないんだが」
後ろから声をかけられ、「すみません」とソニアは謝りながら振り返った。
一つにくくられた長い髪は燃えるように赤く、ハシバミ色の瞳は冷たくソニアを見下ろしていた。記憶にあるよりも声は低くなり、穏やかだった表情は暗く、どこか陰気な雰囲気をまとっている。それでも、ソニアは胸の奥が熱くなるのを感じた。
エリオットだ――
思わず息を止め、彼を見上げた。エリオット・ウィングフィールド――ソニアの、大切な幼馴染。そして、大切な、
「君は?」
一瞬、エリオットが何かにハッとしたような顔をしたがすぐに暗い表情に戻り、首を傾げてソニアの名をたずねた。先ほどと同じあいさつを今度はエリオットに向けてすると、彼は今度こそ目を見開いて「ベイル……」とソニアの苗字をくり返した。
「君はベイル伯爵家の親戚か何かか?」
「はい」
「そうか……それなら僕に関わらないでくれ」
口早にそう言うと、エリオットはそのままソニアの横を通り抜けて教室へと入っていった。
胸の痛みをごまかすように、さりげなく拳に爪を食い込ませた。エリオット……彼がそんなことを言うなんて……いや、こうなるのはわかっていたことだ。
あのお茶会の日――どこか高位の貴族の家で、同年代の子どもたちが集められてお茶会が開かれた、ソニアもエリオットと共にお茶会に参加し、彼のつたないエスコートに胸を高鳴らせていた。やさしい手をいつまでも握っていたくて、エリオットが少し照れくさそうな顔をしながらもうれしそうだったのも覚えている。
大人たちはそんな二人の仲の良さを微笑ましく見守っていた。お茶会に参加していた他の子の親たちもだ。ところがそのやさしい空気は突然壊されてしまった。
イヴ・シューブリッジ公爵令嬢が現れたことによって。
学園の食堂の一角に、エリオットの印象的な赤毛を見つけた。その隣には美しい黒髪の令嬢が陣取っている。彼女がイヴだった。あの日、エリオットの整った顔立ちを気に入ったと言って彼の婚約者の座を射止めた令嬢だ。
シューブリッジ公爵は娘に甘く、娘が望めばなんでも与えてきた。当然、彼女がエリオットを所望すればそれを叶えるべく動き、公爵家からの婚約の申し込みにウィングフィールド伯爵家は断ることもできず、ソニアとエリオットの仲は引き裂かれてしまったのだ。
しかもイヴがエリオットとお茶会で手をつないでいた幼馴染の存在を許すはずもなく、エリオットは強引に王都に留められ、ソニアは彼と別れのあいさつをすることすらできなかった。その上、ベイル伯爵家がウィングフィールド伯爵家と関わろうとするだけで脅してきたため両家は交流を断つ他なくなってしまったのだ。
ソニアにとってエリオットはただの幼馴染ではなかった。彼は大切な人だ。エリオットが望んでイヴの婚約者となったならあきらめもつくが、別れも告げられず、意味もわからず脅されるこの状況はどう考えても彼の望むことではないとソニアは確信していた。
それに、成長したソニアがイヴについて調べると彼女は王都でも評判のわがままで傲慢な公爵令嬢だった。ソニアは学園に入学したら必ずエリオットを助けようと胸に誓ったが当然妨害が入り入学が叶わず、兄と相談してこうして男子生徒として二年生から編入を果たしたのだ。
エリオットが家名を聞いて関わるなと言ったのは、ベイル伯爵家がシューブリッジ公爵家から嫌がらせを受けていたことを知っているからだろう。関係ないソニア――今はサイモンだが――を巻き込まないように気を遣ってくれたに違いない。
イヴはエリオット以外にも見目麗しい男子生徒を侍らせていた。学園に通う兄から聞いていた、彼女の取り巻きだ。イヴは美しいものに目がなく、学園に入学する前から気に入った令息を屋敷に招いて茶会を開き、学園内でもこうして侍らせている。婚約者のエリオットを含めて特にお気に入りの数人以外は時折入れ替わりがあり、イヴが興味をなくした令息を狙った令嬢もまた彼女の取り巻きになっていた。
一人で昼食を食べながら、ソニアはエリオットやイヴの様子をさりげなく観察していた。イヴは取り巻きにちやほやされてご機嫌だが、エリオットは教室で見たのと同じ陰気な表情をしている。
エリオットを助けるために、あの取り巻きと接点を持ちたい――そんなソニアのところに教室でバカにしたような視線を向けてきた男子生徒が現われた。ニヤニヤと笑い、座っているソニアを見下ろしている。
「……何の用だ?」
「随分な言い方だな。一人でさみしく飯を食ってる編入性にわざわざ声をかけてやってるんだぜ?」
身なりは貴族だが、言葉遣いはごろつきのようだ。ソニアは眉をひそめた。
「別にさみしくなんてない。放っておいてくれ」
「そう言うなよ。いい話を持ってきてやったんだ」
「いい話?」
「あそこにいるイヴ様が、お前に興味があってさ」
「えっ?」
どうやらこの男子生徒もイヴの取り巻きらしい……ああやって侍っていないのを見ると、他の取り巻きとは立場が違うようだが。男子生徒の言葉に思わずイヴの方を見ると、イヴとばちりと視線が合った。その妖艶な笑みに、背筋が寒くなる。
「今日の授業が終わった後、西棟の三階の隅にある資料室に来るように言っていた。いいか、独りでだぞ?」
ソニアは何も答えなかった。
授業が終わった後、ソニアは教室に残っていた。男子生徒の誘いに乗るべきか迷っていたのもある。しかし、一度行って様子を見るべきだとも思った。エリオットを助けるために学園に編入するという選択肢を取ったのは単純に彼に会いたかったからというのもあったが、学園内でイヴに関するよからぬ噂があったからだ。
もしそれが本当なら、イヴを糾弾できるかもしれない――しかしエリオットが巻き込まれないように慎重にことを進めるべきだ。ソニアは決心し、鞄を持って立ち上がった。こっそりと空き教室に向かい、その中で何が行われているかを確かめるつもりだったのだ。
人目を気にして西棟の三階に向かい、廊下に人けがないことを確認して足音を立てないように進む。資料室からは物音と人の声が少しだけ漏れていた。その扉の隙間からソニアは中をのぞこうとし、そして
突然肩をつかまれ、悲鳴を上げなかった自分を褒めたい。
振り返ると表情を強ばらせたエリオットが立っていた。信じられないものを見るようにソニアの肩をつかむ自分の手を見ていたエリオットは、すぐにハッと我に返って少し離れたところにある空き教室にソニアを連れ込んだ。
***
こんなに細い肩だとは思わなかった。
空き教室のすぐ外には別の建物があるからか、まだ日が差す時間帯ではあるが部屋の中はどこか薄暗い。今朝はじめて会った編入生のサイモン・ベイルは複雑そうにエリオットを見上げていた。はじめて会ったはずなのに、はじめての気がしないのは何故だろう……? 彼が、ベイル家の血縁で、どこか彼女に似ているからだろうか?
エリオットの胸を苦い気持ちが満たした。
ソニアとはじめて出会った日のことを、エリオットは覚えていない。きっとソニアも知らないだろう。エリオットの思い出せる限りの記憶の中で、ソニアはいつも彼のとなりにいた。両親に連れられてお互いの領地を行き来し、庭を駆け回ることもあったし額を寄せ合って一冊の本を夢中になって読むこともあった。
ずっとソニアはとなりにいるのだと、あの頃のエリオットは信じていた。それを伝えると、ソニアも一緒にいたいと言ってくれた。
でもその夢見た将来は、あの運命の茶会でイヴ・シューブリッジによって引き裂かれてしまった。
いくら公爵家からの申し込みでも両親は最初断ろうとしてくれた。ところがそれを察して圧力をかけられ、それがベイル伯爵家にも及んだ時、エリオットはソニアとソニアの家族を守るために、自分の家族を守るために、その婚約を受け入れることにした。
もうソニアの、太陽の光の一番美しいところを集めたような髪に触れることはできない。あの明るい笑顔を一番近くで見ることも……エリオットは婚約を受け入れた日の夜、独りで涙を流し、それ以来ずっと心が死んだようになっていった。
細い肩の感触が手のひらに残っているようだった。「サイモン・ベイルだったな」とエリオットが口を開くと、サイモンはこくりとうなずいた。
「こんなところで何をしていた?」
この西棟は普段あまり使われていない。サイモンがのぞこうとしていた資料室はもうほとんど物置と言ってもよかった。が、エリオットはそこに何があるのかを知っていた。
「……シューブリッジ公爵令嬢に呼ばれたので」
どこか気まずそうなサイモンの言葉に、エリオットは眉間にしわが寄るのを止めることができなかった。
「彼女に? 何故?」
「わかりませんが、僕に興味があるとかで……」
なるほどと、エリオットは思った。サイモンは中性的だが美しい顔立ちをしている。イヴが気に入りそうだ。もっとも、サイモンがベイル伯爵家の親戚だと知れば態度を変えるかもしれない。どちらにしろ資料室に行くべきではない。
「やめておけ」
「どうしてです? さすがに公爵令嬢の呼び出しを無視するのは……」
「言い訳は僕がする。彼女はベイル家の者を嫌っているからむやみに近づかない方がいい」
その言葉にサイモンは表情を強ばらせた。
「……ベイル伯爵家の親戚なんだろう?」
「はい」
「ソニアは――」
どうしている? そうたずねようとした言葉を、エリオットは飲み込んだ。
「何でも……」
ないんだと、そう言って――エリオットはサイモンを見た。彼のハシバミ色の瞳に映る青空は、何年たっても忘れられない色をしていた。
***
最初の呼び出しは本当にエリオットが言い訳をしてくれたらしく、応じなかったことに対して何のお咎めもなかった。しかしそれほど間を置かず、あの粗野なクラスメイト伝手にソニアはイヴから再び呼び出しを受けた。場所はもちろん、あの西棟の資料室だ。
その日はエリオットに出くわすこともなく、ソニアは資料室の前に立った。そういえばあの日、どうしてエリオットはここにいたのだろう? やはり彼もこの資料室を利用しているのだろうか……?
ソニアは噂だけだが知っていた。ここで何が行われているのかを。
扉をゆっくり二回、素早く三回、最後に一回叩くのが合図だ。内側から開かれて室内の光景が視界に入ると同時に、甘ったるいような妙に鼻に残るニオイが感じられてソニアは思わず顔をしかめた。
扉を中から開いたのはあの粗野なクラスメイトで、「待っていたぜ」と馴れ馴れしくソニアと肩を組もうとしたのでさりげなくその腕を払った。中に着込んで体型をごまかしているが、触られるとバレるかもしれない。それだけは避けたかった。
資料室はほとんど物置と化していたが、邪魔になる物は雑に隅に寄せられて狭い空間の奥は十人近くの生徒がたむろしていた。床には持ち込んだのか絨毯が敷かれ、直に床に座り込んでいる。酒らしき瓶やグラスもあり、隅の方では一組の男女がお互いの制服の中に手を入れていて、ソニアは慌てて視線をそらした。
「よく来たわね」
ゆったりとした声には、この場にそぐわない上品さがあった。イヴ・シューブリッジが部屋の一番奥に置かれたカウチに体を預けながらこちらを見ていた。カウチの傍には三人ほど男子生徒が侍っていて、その中の一人ははしたなくも靴を脱いだイヴのつま先に何度も口づけを送っていた。
当然のようにイヴが片手を差し出したので、ソニアはぐっと何かを飲み込み、その差し出された手の甲に恭しく口づけをした。
「編入生ですって? 名前を教えていただける?」
「はい……サイモンと申します。お招きいただき、ありがとうございます」
「そう、サイモン――ひと目見た時からステキだと思ったのよ。家名はあるの?」
「……ベイルです。サイモン・ベイル」
イヴの瞳に一瞬冷たい色が走った。「そう、ベイルね……」とささやくように口にしたが、やがて気を取り直したように口元に妖艶な色を乗せた。
「まあ、かまわないわ。いい加減あの家の小娘もわたくしのエリオットを諦めたでしょうし」
諦めてなんかいないが。
「エリオットは?」
「彼は教員に呼び出されていました。今日は来ないのでは?」
「仕方ないわね。さあ、サイモン、もっとよく顔を見せて」
イヴの細い指がソニアのあごに添えられ、気味が悪いほどじっくりと観察された。それからイヴはソニアの顔を褒めはじめた。どうやらこの顔が気に入ったらしい。
「イヴ様」
右から左にイヴの称賛を聞き流していると、壁に置かれた棚の引き出しの一つをあさっていた男子生徒がキセルのような物を持ってイヴに近づいてきた。その煙からは、この部屋全体に漂うニオイと同じニオイがする……「それは?」とソニアはたずねた。
「気分がよくなる薬よ」
何でもないようにイヴは言った。
それが、彼女にまつわる悪い噂だった。違法な薬物を常習していると。彼女がこうして取り巻きを集め、その薬や酒などがはびこる秘密のパーティーを開いていることも。
「君も試してみるといい」
カウチの傍に侍っていた一人がうっとりとしながらそう言って、持っていたキセルをソニアに差し出した。
「ぼ、僕は……」
冗談じゃない! 怯えたフリをして、ソニアはイヴを上目遣いに見上げた。
「最初だもの、怖がっても仕方ないわ。少しでいいから試してみましょう?」
「そ、それよりも、イヴ様とお話がしたいです、イヴ様は公爵家の名にふさわしい素晴らしい方だとは聞いていましたが、イヴ様自身のことを知りたいのです……」
「まあ!」
イヴは笑った。ソニアのお願いを彼女は気に入ったようで、その日はずっとイヴの話を聞き、うまい具合に相槌を打って彼女の気を惹くことに成功したのだった。
イヴからの呼び出しはたびたびあった。放課後の資料室だけでなく、昼の食堂で一緒に食事をと誘われることもある。イヴはどうやらサイモン――つまりソニアのことを子犬のように思っているらしかった。イヴの機嫌を取り、従順で、気遣いができる。それから見た目もイヴは気に入ってくれていたが、今までのイヴの取り巻きたちとは顔の系統が違ったため新鮮味があるようだった。
ソニアは怪しまれないように資料室で行われるできごとを交わす一方でイヴに尽くすフリをした。当然、イヴの婚約者であるエリオットにいい顔をされなかったがエリオットはイヴの前ではいつも黙り込んでいるため直接何か言ってくるわけではない。ただ、時折何か言いたそうにソニアのことを見ている時があった。
そうして取り巻きに紛れ込みながらソニアは順調に学園生活を送っていた。もちろん、学生として勉強を疎かにはしていないし、正体がバレるようなヘマもしていない。その一方で、自分の目的のための行動を起こす隙もうかがっていた。
早朝の学園はよほど真面目な生徒か剣術の授業などが行われる訓練場を利用する騎士志望の生徒くらいしかいない。ソニアはその日、そんな人影もまばらな時間帯にこっそりと学園を訪れていた。幸い、生徒はもちろん教師や職員も含めて誰とも出会わず、あの資料室がある西棟へと向かった。
イヴとその取り巻きが西棟に向かうのは不定期で、そのほとんどがイヴの気まぐれによって決まる。イヴは薬もたしなむ程度だからというのも大きいだろう。しかし取り巻きのほとんどが薬を常習しているためイヴがいない時も資料室に数人がたむろしていることが多かった。
もっともこんな早朝にはいない。
ソニアはこっそりと、しかし真っ直ぐ資料室に向かって扉を開けた。資料室自体には鍵がかかっていない。この西棟はどこも施錠されていないのにここだけ鍵がしまっていたら怪しまれるからだ。資料室に忍び込むと奥にある棚へ向かい、引き出しの一つを開けた。もう何度もそこから薬が出されるのをソニアは見ていた。
しかし引き出しにそれらしきものはない。古い羽ペンの束と、もう何が書いてあるのかわからなくなってしまったメモ用紙、それから錆びたネジなどのがらくたが雑然と詰め込まれている。それらをあさっても、目的の物が見つからない。
夢中になって調べていたソニアは背後で資料室の扉が開かれたことも、忍び寄る足音にも気づかなかった。
飛び出そうになった悲鳴は指の長い骨ばった大きな手によってふせがれた。後ろから近寄ってきた人物が、背後からソニアの動きを止めたのだ。
パニックになりかけたソニアの視界に、最初に飛び込んできたのは燃えるような赤毛だった。それから睨むように自分を見るハシバミ色――エリオットは眉根を寄せ、罪人をとらえるような強さでソニアの腕をつかんでいた。
「ここで何をしている?」
「……エリオット様こそ」
エリオットの視線は厳しいものだったが、不思議とソニアはエリオットの顔を見ると冷静になれた。胸は高鳴っているけれどそれは彼を視界に入れているのだから当然のことだ。エリオットにつかまれていた腕が熱いのも。
「君がそんな奴だとは思わなかった。ベイル伯爵家の方々もがっかりするだろうな」
「誤解です。僕は薬には手を出していません」
「だがしょっちゅうあの女に誘われてここに来ているだろう?」
「婚約者のご令嬢をそんな言い方していいのですか?」
便宜上そう言ったがエリオットの顔からごっそりと表情が抜け落ち、ハシバミ色が暗く染まったのを見てソニアは慌てて「気持ちはわかりますが」と本音も付け足すことにした。
「それならどうして君はあの女に取り入っているんだ?」
「それは……」
ソニアはエリオットを見上げた。彼は眉間にしわを寄せたままだったが、その視線から厳しさは少し薄れているように見えた。
エリオットを、取り戻したくて……。
ソニアとして、そう言えたら――自分勝手な願いだけれど、ソニアはまたエリオットのとなりにいられるようになりたかった。
だけど今、自分はソニアではなくサイモンだ。ソニアはそっと目をそらした。
「エリオット様をお助けしたくて……」
「助ける? 僕を?」
「あの方との婚約は、エリオット様の望むところではないと聞きました。その上、ベイル家もウィングフィールド家も圧力をかけられていると」
「……ソニアから聞いたのか?」
エリオットの声音ががらりと変わった。懇願するような色が含まれ、彼はじっとソニアを、サイモンを見つめていた。少し迷ったが、ソニアはうなずいた。同時にしあわせを感じた。ソニアがエリオットを変わらずに想っているように、エリオットも想ってくれていると感じられたからだ。
「あの方によくない噂があるのを知っています。それを利用すれば……」
これ以上話すとボロが出そうで、ソニアは口をつぐんだ。もの言いたげなエリオットの視線から逃れるように開けっ放しになっている引き出しの中のガラクタへと視線を向けた。薄汚れ、ボロボロの羽ペンの先にはインクがこびりついている。
ふと、その黒いインクの中に白い点のようなものが見え、ソニアは思わず羽ペンを手に取った。「どうした?」と困惑気味にたずねたエリオットの視線も、ソニアからソニアが持ち上げた羽ペンに移る。
「これは……」
触れたそれは、何かの粉のようだった。ソニアはしゃがみこみ、引き出しの奥の方までじっと観察した。よく見れば、棚に対して引き出しの奥行が短い気がする。
「サイモン? どうしたんだ?」
「これ……引き出しの奥が、二重になっているみたいです」
「何?」
角の方に小さな穴がある。何か細い物なら入るだろう……ソニアは持っていた羽ペンを差し込み、それをうまく使って奥の板を手前に動かした。ガコっと音を立てて板は簡単に外れた。人がいる時なら目立たないくらいの音だったから、引き出しをあさっている様子を見てもまさかこんな仕掛けがあるとは気づかなかった。
手を伸ばすと油紙の包みがあった。包みを取り出して、エリオットを顔を見合わせる。まさか……と思いながらソニアはその包みを開いた。
***
イヴの取り巻きの一人である粗野な男子生徒はイライラと口の中を噛んだ。その日、いつものように資料室に数人と向かって引き出しを開けると、明らかに隠してあった薬の量が減っていたのだ。今までもこういうことはよくあった――薬を特に愛用しているヤツが、こっそり資料室に来ては在庫をくすねていくのだ。
この数日でなくなっている量は増えていく一方だった。バレていないと思って大胆になっているのか、薬を使う頻度が高くなっているのか――どちらにしろ、犯人を見つけ次第それ相応の罰を与える必要がある。彼を含めた数名が、その役目を担っていた。
「イヴ様」
イヴの婚約者であるエリオットがいないことを確かめてから彼はイヴに声をかけた。エリオットは子どもの頃からイヴのお気に入りだが、陰気で口うるさく、何を考えているかわからない。薬を含めたいくつかの楽しみに関してはイヴでさえエリオットを関わらせていなかった。
「あれがまた減っていました」
こっそりと耳打ちされて、学園のサロンで取り巻きとお茶を楽しんでいたイヴは眉をひそめた。「どうされましたか?」と傍にいた女子生徒がたずねたが、「誰かが白いリボンを持って行ってしまったの」と何でもないように彼女は答えた。
「誰が盗んだのかしらね?」
「目星はついていますが……」
使用頻度が上がっている数名の取り巻きの顔を思い浮かべた。イヴの取り巻きはイヴが美しさを気に入って仲間に入れた者とそうでない者がいる。お気に入りは惜しい気もするが、しょうがない。
「そう、それならいつものようにしておいて」
「わかりました」
「それからリボンを買いに行かないといけないわ……そうだ、サイモンを呼んでくれる?」
「サイモンですか?」
粗野な男子生徒は顔をしかめた。サイモンはイヴの今一番のお気に入りだったが、薬に手を付けていない臆病者だ。
「彼もそろそろ楽しみを共有してほしいのよ。いい機会だと思わない?」
「イヴ様がそうおっしゃるなら……」
「大人数で買い物に行くのもなんだから、あと二、三人希望者を募って買い物に行きましょう。素敵なリボンが見つかるといいのだけれど」
イヴはにっこりと微笑んだ。
***
紋章も飾りもついていないシンプルな馬車はイヴ個人の持ち物らしい。週末、イヴに買い物に付き合うように命じられてソニアはサイモンとしてこうして彼女の馬車に同乗している。二人きりではなく、よくイヴに侍っている涼しげな美貌の同級生も一緒だった。
イヴも同級生もあまり華美ではなく上品な私服姿だ。黙っていれば善良な高位の貴族に見えるだろう。ソニアはどこに出かけるかまで教えてもらえていなかったので無難な私服にした。と言っても、高級志向の店などに言っても問題ない程度の私服だ。唯一ループタイだけは新品で、ソニアの瞳と同じ色の石が光っている。
サイモン・ベイルは学園に通うにあたって親戚のベイル伯爵家の屋敷に滞在している、という設定なのだがイヴはベイル伯爵家の屋敷には近づきたくないらしく、屋敷から少し離れたところにある公園に馬車が迎えに来た。
いつものようにイヴの話し相手をソニアは務めた。彼女はいつもより機嫌がいい。サイモンとして学園に通ってイヴに取り入り、サイモン・ベイルはすっかりイヴのお気に入りの一人となっていた。それをソニア自身感じていた。
「今日はどちらに行くのですか?」
「行きつけのお店に白いリボンを買いに行くのよ」
イヴは一緒に乗っている同級生と意味深に視線をかわした。
「あなたは行ったことがないお店だろうから、今後のためにも付き合ってもらいたいの」
イヴの笑みは妖しげな魅力に満ちていた。ゾッとするものを感じながらも、馬車は進んでいく。カーテンは閉められ、外の様子はうかがえなかったがやがて目的地に到着した。
落ち着いたたたずまいの洋品店だった。公爵令嬢であるイヴが身につけている物よりはもう少し価格帯の落ちるドレスをメインに取り扱っているような……それにこういう買い物は自分や一緒に乗っていた同級生ではなくエリオットを連れてくるべきではないだろうか?
ソニアは同級生にエスコートされて馬車を降りたイヴを見上げた。エリオットのことを聞いてみるか迷い、やめた。「行きましょう」と優雅に言われてうなずき店に入ると、シンプルだが上品なドレスを着た婦人が三人を出迎えた。
「白いリボンをいただきたいの。シルクとレースのものがいいわ」
「かしこまりました。どうぞこちらへ」
店員に案内されて奥の部屋へ進む。応接室のようなそこは身分の高い客を対応するときのための部屋のようだった。しかし店員は三人をソファに勧めることなく、部屋にある飾り棚へと向き合うと扉の中にあった花瓶に触れた。
引きずるような音を立てて、飾り棚が横へ動く――花瓶は特定の者が触れると飾り棚が動くスイッチになっていた。ぽっかりと空いたそこには、隠し部屋への扉があった。ソニアが呆然としていると、イヴと彼女をエスコートしていた同級生は当たり前のようにその扉に入っていく。当然、尻込みするソニアも連れていかれた。
粗野なクラスメイトを含めた見覚えのあるイヴの取り巻きがそこでイヴたちの到着を待っていた。隠し部屋は一見居心地のいい空間に見えた。あちこちにソファやクッションが置かれ、身なりのいい紳士淑女がくつろいでいる。しかし、あの資料室のニオイが、資料室よりも濃厚にその空間を満たしていた。
逃げ出したい気持ちに襲われ、出口を振り返りたい衝動に駆られながらもソニアはイヴたちについて行き、空いていた一角に腰を落ち着けた。資料室のようにイヴはカウチにだらしなく座り、ソニアは彼女の視界に入る位置にあった一人用のひじ掛け椅子に座るよう促された。
「こ、ここは……? 白いリボンを買いに来たんじゃ……?」
クスクスと周囲から嘲笑が漏れた。「そんなわけないだろ」と粗野なクラスメイトがソニアのとなりに立った。
「白いリボンは隠語だ。ここでいつも薬を買ってるのさ。学園でやってるヤツ以外もあるからみんな来たがってるんだぜ? イヴ様に選ばれた人間だけが付き添える。お前は選ばれたんだ」
「僕が……でも僕は」
「あなたは怖がっているみたいだけど何も怖がることなんてないのよ? サイモン」
イヴが言った。
「こんなしあわせになれることを楽しまないなんて損だわ。ここならあんな安物じゃなくてもっと素敵な商品もあるの。あなたも気に入るわ」
店員らしき人物がキセルをイヴに手渡した。取り巻きたちは目の前のローテーブルに運ばれたキセルや薬包紙に手を伸ばし、慣れた手つきでそれを楽しみだす。
どうしたら……?
背中に冷たいものを感じた。怖がっていると思われているなら、断ることもできるだろうがきっと押し通されるだろう。「でも……」とためらう言葉を発しながらソニアはさりげなく周りを観察した。薬を楽しむ客とそれを売る店員しかここにはいない。出入口は入ってきた一か所だけだ。
ふうと、イヴが煙を吐き出した。「仕方ないわね」と彼女は笑った。立ち上がった彼女はゆっくりとソニアに近づいた。腰が浮きかけたソニアを、いつの間にか背後に回った粗野なクラスメイトががっちりと抑え込んだ。
「わたくしの愛用品よ。普通なら滅多に口にできないわ。初心者には少し濃いかもしれないけれど」
差し出されたキセルから顔をそらそうとしたが許されるはずもなく、背後から大きな手がソニアのあごを固定した。息を止めるが長くつづくはずもなく、背後のクラスメイトがいら立ったようにソニアの体を揺さぶって背もたれに打ち付けたのもあり、彼女は大きく息を吸ってしまった。
「乱暴はダメよ」
クスクスと笑うイヴの声が遠のく――ぐらりと脳が揺れる感覚がして、体が解放された勢いのままにソニアは椅子からずり落ちた。クスクスと声がする。「濃すぎたのでは?」「そうかしら?」「かわいそうに、吐きそうですよ」「すぐによくなるだろ」ぐるぐると、視界が回った。
遠のく意識の中で、ソニアは何かが割れるような大きな音を聞いたのだった。
*** ***
「エリオットともう会えないの?」
はじめての茶会に参加して数日後、ソニアは王都から領地の屋敷に戻っていた。茶会ははじまってすぐの時間はエリオットも一緒にいてくれて楽しかったのだが、途中から同じ年くらいの愛らしい女の子にエリオットを捕られてしまい、ソニアは隅の方で二人の様子を眺めることしかできなかった。
帰りの馬車の中でエリオットは少し怒っていたように思う。それはソニアに対してではなく、話しかけてきた女の子やその子と仲のいい子どもたちに対してだった。ソニアには申し訳なさそうにして、今度は二人でお茶会をしようと約束してくれた。
それなのにその約束は結局果たされていない。
あの日からエリオットには会えていなかった。暗い表情の両親に連れられて兄と共に領地に戻り、今までのようにソニアがエリオットの家に遊びに行くことも、エリオットが遊びに来ることもなくなってしまった。お茶会をすると約束したのに……そう何度も両親に訴えてもはぐらかされ、手紙を書いて渡してもエリオットからの返事は来ない。
それを知ったのは偶然だった――エリオットからの返事が来ないことに心折れそうになりながらもまた彼への手紙を書いたある日……エリオットに会えなくてさみしいこと、体調を崩しているのではないかと心配していることを心を込めて手紙にした。
いつも両親が出す手紙と一緒にエリオットへの手紙をお願いしているため、ソニアは両親を探して父の書斎に足を運んだ。書斎の前の廊下はしんとしていて、中から両親が熱心に話している声が漏れ聞こえていた。
「あの子が知ったらきっと傷つくわ」
母の声だ。
「エリオットがシューブリッジ公爵家のイヴ様と婚約するなんて……ソニアとの婚約が正式に決まるところだったのに」
「公爵家からの申し込みを断ることはできない……こちらが口を挟めばウィングフィールド家の立場はますます悪くなるだろう」
「あの子がエリオットに出した手紙も全て戻って来てしまって……きっとウィングフィールド家には公爵家の人が入りこんでいるのね……あそこのご令嬢は」
手紙という言葉に、ソニアは反射的に書斎の扉を開けていた。母の言葉のつづきはわからないが、その時のソニアには手紙のことの方が大事だった。
「ソニア! いつからそこに……」
「お父さま、お母さま、手紙って……手紙って、エリオットへの手紙のこと?」
すがるように母のドレスをつかみ、ソニアはたずねた。両親は困ったような悲しそうな表情をしてソニアをじっと見つめていた。答えが得られず焦れたソニアがきょろきょろと辺りを見渡すと、父の書斎机の上に書類と一緒に見覚えのある封筒がある。全て、ソニアがエリオットに出した手紙だった。
封も開けられていない……走り書きのように、封筒の裏にもう手紙を送るなと警告めいた言葉が書きなぐられているのを見てソニアは胸が苦しくなった。目頭が熱くなる。見たことのない大人の字だが、そこにははっきりと悪意のようなものが見て取れた。
「エリオットは……婚約したの? イヴ様って、お茶会でエリオットに話しかけた子?」
「……そうよ、ソニア。シューブリッジ公爵家のご令嬢よ」
「でも、でも……エリオットはずっと一緒にいてくれるって……」
「ソニア、公爵家は伯爵家よりずっと偉いんだ……断ると、エリオットの家はひどい目にあうかもしれない」
「そんな……それじゃあ、エリオットとはもう会えないの……?」
ぽろりと、晴天と同じ色の瞳から雨粒のように涙がこぼれた。母は娘の名前を呼び、まだ幼く華奢な体をぎゅっと抱きしめた。ドレスが濡れていくのを感じる。エリオットの名前を呼びながら泣く娘に、両親は何もしてやることはできない。
せめてエリオットがしあわせなら報われるかもしれないのに、それすら叶わないのはその時からもうわかっていた。
*** ***
やさしい声に名前を呼ばれた気がして、ソニアはぼんやりと目を開いた。ずっと焦がれていた、燃えるような赤毛が見えた気がして「エリオット……?」と夢見心地でその名前を呼ぶ。やさしい声の人はそれに答えるように、ソニアの金色の髪をやさしく撫でてくれた。
それがとても嬉しくて、口元が緩みそうになるのと同時にソニアは意識がはっきりしてきた。違う――今、自分はソニアじゃなくてサイモンのはずだ。イヴの買い物に付き合い、無理やり薬を吸わされ、それから……それから?
はっきりと意識が戻ると吐き気が襲ってきて、「うっ」と声が漏れた。傍にいた誰かが背中を撫でてくれる。「大丈夫か?」と心配そうにたずねられ、ソニアは吐き気をなんとかこらえながら振り返った。
「え、エリオット……様……?」
自分の格好がサイモンのままなのを確認しながらその名前を呼べば、エリオットは困ったように笑った。どうやら夢ではないらしい。さっきまで昔の夢を見ていたから、どこか現実味がなかったけれど。
「ここは……?」
「病院だよ」
体を起こそうとするのをエリオットが手伝ってくれた。
「一体、どうなったんですか?」
控えていた看護師から水を渡されてひと口飲む間に、エリオットはソニアのベッドの傍にスツールを運び腰を落ち着けた。
「うまくいったよ」
ベッドサイドのテーブルに置かれたループタイを見ながらエリオットはうなずいた。
***
早朝の資料室でソニアがエリオットと引き出しの奥から見つけた包みは予想通りイヴやその取り巻きたちが愛用している違法な薬物だった。イヴが薬を常習していること、購入していることは証拠をつかんで糾弾すればイヴを失脚させられるとソニアは踏んでいた。
男として学園に入り、イヴに気に入られて証拠をつかむ――そして、エリオットを解放する。それがソニアの願いだ。険しい顔で包みを見つめるエリオットをソニアは見上げた。
「君は――これをどうするつもりだ?」
「騎士団に訴えます」
エリオットのハシバミ色の瞳が真っ直ぐにソニアに向けられた。
「イブ・シューブリッジが捕まればエリオット様も解放されるはずです」
「これを騎士団に持っていったところであの女は捕まらない。それが可能だったら、僕だってもうとっくに……騎士団は学園でよくない噂があることを把握しているようだが相手は公爵家。白を切られて終わりだ」
それはそうかもしれないが、他に証拠をつかむにはどうしたらいいのだろう?
「……協力しないか?」
「えっ?」
「僕だってあの女とこのまま結婚するなんて真っ平だ。僕はソニアが――君は僕を助けると言ったな? どうして?」
「それは」
ハシバミ色に映る表情は頼りなく、しかしすがるようにそれを見つめていた。
「ソニア様に、頼まれて……」
ハッと、エリオットが息をのむ音がした。「君は……」と空気に溶かすようにつぶやいたエリオットの声は少しだけ沈黙を呼びこみ、二人はただ見つめあっていた。
しばらくして、エリオットは視線をそらしまた薬が入った包みを見つめた。「これを少し捨てよう」と彼は言った。
「えっ?」
「誰かが勝手に使って減ったように見せかけるんだ。あの女や取り巻きは僕を警戒して薬のことには関わらせなかった。僕がここに来ると絶対にやっているところは見せないくらいだ。この機を逃したくない」
「でも使ったように見せかけてその後は?」
「僕だって黙ってあの女の近くにいただけじゃない……薬はあの女が買っている。あの女のお気に入りが数人同行できるだけで、取り巻きの全員がどこで仕入れているか知っているわけじゃない。僕もそこまでは調べられなかった……薬が減れば、買いに行く」
「僕はあの方に気に入られているから、うまくいけば連れて行ってもらえるかも……そうじゃなくても、店の場所がわかれば……」
「騎士団に行ってこのことを話そう。二人じゃどうにもできないこともある」
ソニアはしっかりとうなずいた。
***
全てうまくいった。騎士団に薬を少し持って行って事情を話した二人は騎士団の協力を取り付けることができた。彼らも学園はもちろん貴族の一部で出回っている薬の売人を探していたからだ。二人の作戦には危険だと渋い顔をされたが説得し、期待通りソニアがイヴに買い物に誘われるとこのループタイを渡された。ここについている石は二つで一対になっていて、一定の距離内にいれば、ループタイを付けた人間とその周囲の会話をもう一つの石から聞くことができるのだ。
ソニアがイヴ会ってからあの店に行き、合言葉らしきやりとりやその後の会話も全て騎士団や彼らと一緒にいたエリオットは聞くことができた。
「騎士団の人が数人あの店に客として向かってイヴと店員の会話をマネたんだ。案の定、店員は隠し部屋に案内してくれた。部屋の扉が開いた時点で騎士団が突入したからあの場にいた客も店員も言い逃れはできないだろう。全員捕まって連れていかれたよ」
顔色が悪いソニアを心配そうに見ながらエリオットはソニアが倒れた後のことを話してくれた。ソニアが意識を失う直前に聞いた大きな音は、騎士団が突入するときの音だったらしい。ソニアが協力者であることは周知されていたこと、無理やり薬を吸わされそうになったことは騎士団も聞いていたことからすぐに保護され病院に運ばれた。
窓の外を見るともうすっかり暗くなっていた。エリオットはずっとここで付き添っていてくれたのだろうか?
「……助けが遅くなってしまってすまなかった」
「そんな、気にしないでください。僕もまさかあんな強引にやられるなんて思ってもみなかったので……」
「それでも君を危険な目に合わせてしまった……」
赤い髪に触れたい気持ちを抑えて、ソニアは毛布を握った。
「イヴ様たちはどうなるんでしょう?」
「シューブリッジ公爵が口を出してくるかもしれないがあの女も取り巻きも言い逃れはできない。騎士団も譲らないと言ってくれたから大丈夫だと思う……。
僕も父に連絡して婚約を解消できるように動いてもらうつもりだ。騎士団長が事情を知って協力してくれそうだし……」
「そうですか」
ソニアはほっと息を吐いた。「それで――」とエリオットは言った。
「もし全てうまく片付いたら……二人で茶会をしないか?」
「えっ?」
ハシバミ色の瞳はやわらかく微笑み、あの頃よりも大きく骨ばった手がソニアの短くなった太陽色の髪に触れた。
「約束を果たすのは、もう遅い?」
ぱちりと瞬いた青空と同じ色の瞳に、ゆっくりと涙がにじんでいった。
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