第12話 私は私

 麻子は早々に圭吾へのコンタクトを取りやめる。

 音信不通にされた時には事情がわからず、半狂乱になっていたはず。それなのに、事情がわかれば、すべてが一気に腑に落ちた。

 

 悪いことをしたという自覚があるなら、頭を下げて欲しかった。詫びる言葉が欲しかった。けれども二股かけた不始末の尻ぬぐいまで、自分の彼女にさせている。

 連絡先を断つことで、わかってくれという男。


 まるでこちらに、何か非でもあるかのように罪悪感を抱かせる。

 無言の拒絶は、加害者側と被害者側の立場を逆転させるのだ。麻子は携帯を握りしめ、まなじりを般若のように吊り上げる。


 私は私だ。


 圭吾が生涯の伴侶としては、畑中陽子を選んだのなら、それまでだ。

 

 非常階段の踊り場で、麻子は勇ましく立ち上がる。身を切るように冷たい風が、麻子の髪をかき乱す。数歩歩いて非常口のドアを開け、中に入って重い扉を閉めた時、終止符を打ったような気がして笑う。

 なんて、あっけないのだろう。


 十数年も付き合ったのにと、思ったが、歳月は愛情深さと比例はしない。本多圭吾に最後にそれを教わった。


 自嘲しながら事務室に戻る間に、受付カウンターが目に入る。


 笑顔を絶やさず、通院者との窓口業務をこなす彼女は、あえて寿退社と風潮した。

 圭吾の口から聞くまでは、嘘だと思っていたかった。

 

 畑中が、どんなに牽制けんせいしようとも、虚言癖だと自分に言って聞かせなければ砂でできた城のように、確たるものが崩れゆく失墜感に太刀打たちうち出来ずにいただけだ。


 人間なんて、そんなもの。


 以前に駒井に評された言葉がふいに蘇る。

  

 あなたの強さは、人間なんてそんなものだと知ってることだと言われたが、知りたくて知った訳じゃないことを、駒井はわかってくれていたのかどうかは、わからない。

 人間なんて、そんなものだと思いたくない。

 誰だってそうに違いない。

 そして、これが、天からもたらされた最後のチャンスだったと思う日が、きっと来る。


 打ちひしがれたくないのなら。

 闇を見たくないのなら、辞めれば良かった。結婚すれば良かったと。


 麻子は肩でひとつ息をした。それが出来る自分なら、とっくにそれを選んでいる。俯いた麻子の視界から消えた畑中の声だけがした。

 事務室のドアが内から開けられ、鶴が出てきた。ぶつかりかけた麻子と鶴が同時に退く。


「あっ、すいません」


 即座に鶴が謝った。


「いいえ、私の方こそノックもしないで、ごめんなさい」


 鶴が小脇に抱えるファイルを視線が捉える。


「面談ですか?」

「はい。十時からです」


 腕時計に目線を移すと、もう既に九時五十分。

 午前は十一時からの面談予約が入っている。私情で時間を費やした罪悪感がこみ上げる。


「行ってらっしゃい」

「はい。行ってきます」


 面接室に入る前、待合室に向かった鶴が面談相手の名前を呼ぶ。院内では、通院者は番号では呼ばれない。清算時にも名前が呼ばれる。

 それを不快に感じる者もいるはずなのだが、このスタイルを貫く姿勢を変えようとしないのは、院長だ。麻子も意図に同意をしている。


 人を番号で呼ぶことは、囚人扱いと同じだと。


「松岡さん。一番面接室に入って下さい」


 涼やかな鶴の声はよく通る。

 待合室で名前を呼ばれたクライアントは、鶴がドアを開けている面接室に移動した。


 

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