現代魔女に明日はない
兎紙きりえ
現代魔女に明日はない
夕焼けに照らされた教室。
雑然と並べられた勉強机。
不自然に壊された教卓の残骸。
砕けたガラスの破片。
窓へ叩き付けられて足がひしゃげた椅子。
異常と正常が入り交じった光景の中で尚、一際存在感を放つ異質。
それはたった一人分の影。
割れた窓から吹き込む風に、長い髪を靡かせた少女の姿。
「ねぇ、逃げ出しちゃおうよ。この世界から」
少女は笑っていた。いつものように、幻想的で、虚ろで、信用出来ないからこそ、何よりも信頼出来るミステリアスな笑顔を貼り付けて。
春に再会した時のまま、大人達の世界を蔑む目のままに俺を見つめる。
「分かってるでしょ?私達は大人達の世界では生きていけないの」
その横顔に夏の星空を思い出す。あの時も、少女は似たような夢物語を語っていた。
もっと具体的で、もっと荒唐無稽な話だったけど、あの時の彼女がそこにあった。
「でもよ、逃げて、その先どうなるんだよ」
答えは待たない。返ってくる答えは知っているから。
今まで、この数ヶ月で無数に聞いたやり取りだ。忘れる筈もない。
「どうせ何も変わりはしないよ」
いつだって俺は諦めていた。
抵抗することに疲れ、反抗する気力はとっくに使い切っていた。
どれだけ親に邪険にされようが、幼馴染の少女が歪められていようが俺はその全てを受け入れるしかなかった。
それ以外の術を考えるだけの思考力すら失われた抜け殻の日々を送っていた俺にとって、彼女の提案は魅力的ではあっても、結局はそれ止まり。
いつもと同じ光景だ。
春にも夏にも彼女はいつも決まって同じ事を言っていた。
「この世界は間違っている」、と。
かく言う俺も、俺もいつだって諦めて返すのだ。同じように返すのだ。
「それがどうした」、と。
それに対しての答えはいつだって沈黙だった。
苦しそうな悲しそうな、言葉にしてしまえばたちまち陳腐なものに劣化してしまう感情を孕んだ微笑みだけを向けるのだ。
その顔をされると何をいっても無駄に思えて、何よりもそれ以上に悲しそうな顔をして欲しくないとすら思えてしまって、俺も黙り、暫くの沈黙の後に示し合わせたように別の話題に移る。いつもならそれでおしまい。の筈だった。
だが、一つ。知らない顔が見えた。
教室に居るのは俺と彼女の二人だけ。
ならばきっと、その顔は俺の見たことの無い彼女の顔だ。
だからこれは、俺の知らない話の続きなのだとすぐに分かった。
「逃げた後のことは分からない。でもね、逃げなかった時のことはよく分かっちゃうの。嫌だよね、ホント」
あぁ、初めて彼女の涙を見てしまった。
天上の園で禁断の果実を齧ったアダム達だってこんなに重い罪悪感を感じなかっただろう。
どうして、と今更ながらに思ってしまう。
諦める事に慣れている筈なのに、内心は散々、諦めた方が楽なのにと思っていた筈なのに。
少女の頬を伝う朱がどうしようもなく心を揺らす。
この手を取らなければ、彼女は壊れてしまうのだろう。どこか手の届かない場所に行ってしまうのだろう。
気が付けば、俺は涙を流す彼女の傍らに立っていた。割れた窓から見える街が忌々しく輝いていた。
「ゴメンな、カナタ。俺も連れて行ってくれ」
少女の細く震える指先を、包み込むように優しく手を取る。
こうして、俺たちは大っ嫌いなあの街から逃げ出した。
廃墟ビルの崩れた隙間から陽が差す。
地面を這う光は赤みがかっている。
その光が床で寝ている人物の影を長く伸ばしている。
「ほら、起きろ、飯だぞ」
ドサリ、とコンビニで買った弁当を袋ごと少女の前に差し出す。
一ヶ月前とは打って変わって消耗が色濃く顔に出ていた。
きめ細やかな肌は痩せ細り、靡く髪はその煌めきを鈍らせている。
「いつもありがと。私も働きに出れればもっとマシになるのに……」
「それは言わない約束だろ」
「でも……」
「明日も早いんだ。そんな事言ってる暇があるなら早く食え」
「うん……」
「なぁ、俺たち、本当にこれで良かったのかな」
半額シールの貼られた惣菜パンを口に運んでる途中、ふと、そう思った。
弱気なカナタを見たせいか、少し先の未来をを考えてナーバスになってしまったのだ。
カナタに連れられるまま、あの街を出て、見つかりそうになりながらも色んな街を転々として、今は郊外の廃ビルに転がりこんでいる。俺たちに余力なんて無い。
盗んできた金もそろそろ底を尽きかけてるし、ただの廃墟にインフラが通ってるわけもなく、いつからあるとも知れない貯水タンクから生活に必要な水を確保しなきゃいけない。そんな限界の生活に一学生風情が耐えられる筈もない。
カナタの顔色が何よりの証拠だ。
一応、運良く近くに住んでいた、カナタが頼れる唯一の親戚に必死に頼み込んで、学生の身分を隠して内緒で働かせて貰ってはいるが、このままずっとバレずに居られるとも限らない。
そもそも今の職場自体が奇跡で他に行くアテなど無いのだ。
俺たちに残されてるのは今の道だけ。
だけど、もし、別の道を歩んでいたら。
あの時別の選択肢をしていれば。
きっと、他の未来が……。
「無いよ。だから私と来たんでしょ」
俺の思考を先回りして返す。
「私の捜索、まだ続いてた?」
こくり。俺は黙って頷く。
どんな風にだとか、貼り紙やニュースがどこまで広がってただとか、そういうことは敢えて言わなかった。
言えるわけもない。
まさか、一ヶ月も経って俺の捜索願が出されていないなんて、俺自身が信じたくなかったんだ。
我が事ながら甘い考えに吐き気がする。
全部諦めてる、なんて言いながら、あのクソみたいな家族すら未だに諦めきれていなかったらしい。
俺とカナタの価値が明白にされてるみたいで、この現実をカナタに見せたくなかった。
カナタに自分の存在の矮小さを見せたくなかったのだ。
だからこそ、カナタだけが捜索願を出されている状況を利用してカナタを外に出さなくて済む口実を作れたのは不幸中の幸いだろうか。
「飢えてるね」
「何に?」
「何もかも、全然足りないって顔してる」
久しぶりに彼女が微笑んだ。
あの、見てるだけで辛くなりそうな微笑みだ。
「飲んでみる?」
カナタが首元の衣服をはだけさせ、白い柔肌が顕になる。
「急にどうした」
「本の真似」
彼女が指さす先には一冊の絵本。
街を抜け出す時に持ってきたもので唯一残っているものだ。
廃ビルに来る前、一度、隠れ家がバレそうになって急いで夜の闇に紛れて逃げた時。
彼女は何よりも真っ先にその本を大切に抱きかかえて走ったのを覚えている。
本のタイトルは『魔女の今日』。
かつて天才と評されたカナタの母親が描いた最後の絵本だった。
『──────むかしのむかし、とある王国には魔女がいました。
魔女は自分の血を分け与えることでどんな奇跡だって起こせる魔法が使えました。
その魔女はとっても優しくて、いつだって魔法で国中みんなを笑顔にしてました。
中には、いじわるする人たちもいたけれど、みんな魔女を尊敬していたのです。
中でも、その国の王子さまは魔女に夢中!毎日のように通っては魔法の手解きを受け……』
そうやって物語は続き、中盤では魔女の血を飲み魔法が使えるようになった王子は魔女と共に国中の問題を解決し、無事に魔女を妃として迎え入れようとする。
だが、それを良しとしない者達によって魔女は命を失ってしまい、王子と魔女のお腹に宿った赤子だけが残されてしまうのだ。
そんなある時、王子は魔女への深い愛故に、狂ってしまう。
『そうだ!かんたんなことなんだ!
魔女様が居ないなら魔女様を作り出せばいいんだ!』
王子は愛する魔女を失った悲しみのあまり、子どもに対する愛を忘れてしまったのだ。
それに加え、魔女は死んでも魔女の血の魔法が無くならず王子はその力で子どもを魔女に変えてしまう。
『所詮は子ども。あの人じゃない。
ならばあの人から受け継いだ魔法で子どもをあの人にしてしまえばいい! 』
こうして魔女に変えられた子どもは、生前の魔女のように魔法で人々を救うようになる。
傍から見れば自分達を救ってくれた魔女の復活に思えるが、その実は、王子に人生を醜く歪められてしまった悲しき子どものお話。
その後も最後まで子どもは魔女のままであり、王子が親の心を取り戻したり親子の絆が蘇るなんて展開も無く、ただただ後味の悪さだけが残るお話。
それもそのはず。
この話は完結していないのだ。
カナタの言うにはもう一冊、『魔女の明日』という続編があったという。
だが、ついぞ二冊目が世に出回ることは無く、物語は終わってしまった。
カナタの見つけたメモによれば、魔女の残したメッセージと最後の魔法で子どもは本当の姿を取り戻し王子の目も覚めるストーリーらしかったのだが、その物語が描かれる事は無く、この物語も完結しないまま終わってしまったのだ。
「ママはね、ホントに凄い人だったんだよ。毎日、色んな人からファンレターが届いてさ、そんなに期待されてるのに易々とその期待に応えるどころか飛び越えちゃうんだもん」
日に日に手紙の量が増えて大変だったんだからといつかのカナタは熱っぽく語っていた。
数多くのファンを持つ天才絵本作家。その作家が子育てを経て至った境地で数年ぶりの新作を出すというのだから、当時の注目度がどれだけのものだったか想像に難くない。
だが、「本当の愛とは何か」をテーマに描かれた作品は皮肉にも、一冊目が出た途端、その表面的な惨たらしさだけを取り上げられ、白日の元で嘲笑された。
困惑、失望、興醒め。当然、作者であるカナタの母親に多くのバッシングが飛び、心からの愛は心無い言葉達によって潰された。
中には、惨たらしさだけではないと感じた人からの応援の言葉もあったと言うが、一体それがどれほどの足しになろうか。
少しの善意を呑み込み隠すほどの悪意の濁流は誰よりも深い絶望となってカナタの母親を自殺にまで追いやった。
それが、『魔女の明日』が世に出なかった理由であり、カナタの父がショックで狂った原因でもある。
カナタの父は妻に先立たれたショックと連日届く罵倒の言葉に相当精神を削られていたのだろう。
その日から、カナタは魔女に変えられた。
俺が再会した頃には、昔のような活発な性格も太陽のような笑顔も残されてはいなかった。
妖艶な色香を帯びてるような、それこそまるで何かに取り憑かれてるような、ミステリアスな印象すら受ける魔女に変わっていた。
それがあの絵本にまつわる全てで、カナタを縛る呪いの全てだった。
「なんだかくすぐったいね」
少女の首筋がすぐ目の前にある。
俺は静かに舌を這わせ、歯型が付くことすら厭わずに噛み付いた。
「痛ッ」
少女が苦悶の声を漏らす。
口の中に鉄の味が広がる。
数秒後、彼女の首筋から口を離すと、まるで吸血鬼にでも噛まれたみたいな痕があった。
「どう?魔法は使えそう?」
「全然無理そうだ」
「なんだ。つまんないの」
互いに冗談を交わしてそのまま眠りにつく。
魔法が使えたならどれだけ良かっただろうか。
この生活を変えて、美味しい食事も、倒壊の心配のない住居も、暖かい寝具も全てが手に入るだろうな。
そんな妄想が頭に浮かんで掻き消えた。
だとしても、もし、本当に魔法が使えるようになったとしても、俺は魔法を使わないのだろう。
なぜならそれは、この生活の終わりを意味してしまうのだから。
魔女に明日なんて無い。
現代の魔女は、これからもずっと世界に怯えて今日を生きるだろう。
大人に嫌われた俺は、これからもずっと見向きもされないまま今日も生きてしまうのだろう。
俺たちが望むだけの明日はいつまでも訪れることは無い。
今はただ、現代の魔女に明日が来ないことを祈ろう。
きっと、その日が来るまでなら俺は彼女を理由にして生きていけるのだから。
現代魔女に明日はない 兎紙きりえ @kirie_togami
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