となりの“トロル”

八百羽つぐ

第1話

 三十三年間住んできた限りでは、所沢にクマが出た記憶はない。

 武蔵野線の車窓を眺めていると、地球が実は平面なのではと思えるぐらいには、この街は平たい。武蔵野台地に乗った人口三〇万のベッドタウンにクマが隠れ住む余地はない。

 それなのに、僕たちは駅から徒歩一〇分の場所で、巨大なクマのような生き物に銃を向けていた。

「ぜひ、味を知りたいです」

 イタリア製の自動拳銃を両手で構えながら、フィンランド生まれの彼女、モナはつぶやいた。

「モナ。フィンランド語でクマのこと、なんて言うの」

「クマはkarhu、カルフ、です」

 今夜は雲一つなく、ぽっかりと浮かぶ月の灯りでずいぶんと明るい。目の前の生物がはっきり見える。でっぷりとした体格で2メートル以上はあるように見えるその生物は、毛は鼠色、腹は白く、小さな月の輪が横に並んでいる。動物園でも図鑑でも見たことのない、けれどもやけに見覚えのある模様と配色。羽さえあれば、むしろミミズクにも似ている。人間さながらに二本の足でまっすぐ立ち、とぼけたような表情でこちらをぼんやりと眺めている。

「じゃあアレのこともそう呼んでくれない?」

 僕の提案を、「いいえ」、即座に退けて、モナは恐れる様子もなく、きらめく緑の瞳を細めて笑った。

「あれはtroll。ヤパニ・トロルですよ」


 子供の頃の夢はラノベ作家だった。アニメや漫画も好きだったが、読みふけったのはラノベだった。後ろの席にあらゆる願望を実現する女の子がいたら。異界の神々の契約者がエミオで買い物していたら。巨大ロボットが西武園に隠されていたら。物語の舞台を自分の世界に置き換えるのが好きだったし、自分の世界を物語として楽しんでもらえればもっといいと思って、何度も賞に応募して、落ち続けた。だんだんと生活への危機感と無力感が夢よりも大きくなっていき、同時に何を書けばいいのか、何が書きたかったのか分からなくなっていった。一文字も書けなくなったある日、僕は就職し、転職を重ね、今の職場に行きついた。宇宙人、魑魅魍魎、UMA、都市伝説、超常現象、この世のありうべかざる事象すべてが守備範囲の和製メン・イン・ブラック。ラノベの設定みたいな職業が、僕の仕事だ。


 あまり気乗りのしない任務だった。ある企業の施設内に、空想上の生き物が捕らわれているという。浄水場の広大な跡地に建てられたその施設は、東京から埼玉へと昨年移転してきたばかりの大出版社の新本社屋だった。オフィスだけでなく、漫画やライトノベルの専門図書館をはじめとするミュージアムやパビリオンを設けた一種のテーマパークだ。

 第一に、その出版社に僕は公募原稿を送り、はねられ続けたということ。第二に、自宅から歩いて徒歩五分の場所にあること。二つの理由で受けたくはなかったのだが、命令は絶対だ。

 目標は、敷地内でも一際目を惹く岩塊のようなミュージアムの地下。巨大な石棺にも思える威容を誇り、はっきり言って東所沢の景観からは浮いていた。正面もコーナーも意図的に排し、どの角度からも同じ見え方をしない摩訶不思議なデザインが特徴とさまざまなメディアで取り上げられていたが、これが認識阻害の結界として機能しているのは明らかだ。先行した潜入班からは案の定、存在しないはずの地下フロアが広がっており、なんらかのラボやファクトリーとして機能していると連絡が入っていた。

 僕とモナの役割は潜入班のバックアップだった。犬の散歩に立ち寄ったご近所さんといったイレギュラーを遠ざけること。とは言え、日付が変わり、武蔵野線の最終が終わってもしばらくは穏やかなものだった。施設の隣にある公園から聴こえてくるスズムシの鳴き声をBGMに、僕は相棒のモナと小声でたわいもない話に花を咲かせていた。

 モナは、良く言えばグルメ、悪く言えば雑食の女の子だ。食べられそうなものは何でも食べたい。この仕事では空想上であるはずの生き物に遭遇することも多く、彼女はそのたび「味が知りたい」とぼやいた。もちろん食べるなんてご法度。制止を振り切りドラゴンをひとなめして始末書を書いたこともある。「リアルダンジョンめし」とからかったら「バイブルです」と胸を張っていた。

 午前二時を回り、あるアニメ映画の有名なパン料理に調味料はかかっているかと意見をぶつけあっていたところだった。ミュージアムの一角で影がわずかに揺れたのが見えた。

 僕は暗闇の先に銃口を向け、モナは地下の仲間と通信を交わした。建物内は今のところ異常なし。

 鬼が出るか蛇が出るか。判断を間違えれば潜入班が危険にさらされる。神経をとがらせる僕の前に現れたのが、のしのしと短い二足で雄大に歩く、彼女が言うところの“トロル”だった。


「小さき時、DVDで観ました。とても素敵で、すごくおいしそうだったのが印象に残っています」

 照準はぶらさず、モナは肩で器用によだれをぬぐう。ジビエとして熱い視線を送る彼女の瞳は文字通り輝いていた。ダイアスポアのような褪せた緑色の虹彩が光を帯びている。《妖精の目》だ。

 電撃も瞬間移動も使えない僕とは違い、モナには生まれつきの異能が備わっている。この世の不思議をふとした拍子に視認してしまう能力。目標が見つからなかった場合に備えて、彼女はここにいる。潜入班に配置されなかったのは、未知の存在と予期せぬ遭遇を避けるためだ。

 モナの《妖精の目》はオンオフの効く力ではない。だから僕は、事前に我が町の郷土史に目を通し、昨晩は祖母に昔話を尋ねた。学生時代に読んだきりの国木田独歩の代表作まで読み返した。図書と口伝と自分の経験に基づいて、モナが所沢土着の妖怪変化と出くわすことはまずないと踏んでいたのだが、甘かった。

 僕もモナも、目の前の生き物の正体を知っていた。昭和三〇年代の武蔵野を舞台にし、僕が生まれた年に公開されたアニメ映画、そのタイトルにもなっているキャラクターそのもの。

 これまで目にしてきたのは、古典や伝承の中の生き物だけだった。まさか、監督が存命の作品から飛び出てくるとは思ってもいなかったのだが、二十一世紀生まれの彼女にとって、生まれる前からある作品は既に古典。聖地の森の奥に昔から住んでいる生き物なのだ。

「フィンランドでも“トロル”に会いました。その時は祖母に、決して食べるなと厳しく言われました」

 昔を懐かしむように彼女は言う。

「なのでhattivattiをかじりました」

「食べてるんじゃないよ」

「ruokasieniのような味がすると思いきや、日本のハモ、に似た風味でした」

「いいもん食べてるんじゃないよ」

 母国で彼女がかじったというのも、やはり有名な物語の中の生き物だ。子供のたわむれなら許されるかもしれないが、この仕事では保護か駆除の対象。現に司令部からは、決して手を出さずそのまま観測を続けよと指示されている。

「やはりフィンランドより、日本の“トロル”の方が、食いでがありそうです」

 猛烈な食欲を向けられているとは露知らず“トロル”は暢気なものだ。“トロル”はミュージアムの方を向き、屈伸運動を繰り返している。

「……何してるんでしょう?」

「確か、植物を一気に成長させるシーンがあったと思うけど」

「この下、種一つなさそうです」

 モナは赤いスニーカーのつま先で石造りの地面を小突く。黒いスーツとスニーカーの取り合わせと同じくらい、石とコンクリートの中にたたずむ“トロル”も不釣り合いだ。緑の深い野山にこそいるべき存在であるはずなのに。

「見ていて、はがゆいですね」

 モナのつぶやきで我に帰り、思わず彼女の顔を見る。ふくれっ面でつむいだ言葉は、“トロル”に向けられたものか、それとも。

 彼女の気持ちは痛いほど分かる。このグルメな相棒は、極上の食材を見つけるのにうってつけの目を持ちながら、決して味わうことは許されない。僕だってそうだ。子供の頃空想し続けた光景を、物語として作り上げようとした光景を何度となく目にしているのに、今僕が叩くのはキーボードでなく撃鉄なのだ。目の前にいるのに、掴めない。

 僕はもうそれでもいい。割り切っていける。けれど一回りも年下の少女の望みさえ、諦めろとしか言えないのは、大人としてあんまり情けない――。

「……待てよ?」

 僕は目の前のミュージアムを見やる。どんな内容かは分からない、けれども途方もない夢想の産物であるだろう石棺。

 目の前の生き物がはじめてされたのは僕が生まれた年だ。それでもこうしてモナの目の前に現れ出でた。ということは、今から三十三年後、所沢で、ずっと昔から暮らすな生き物がはじめて見つかっても、はないはずだ。その生き物が、そう、たとえば極上の蜜を生み出すとしたらどうだろう。捕獲の際に勢い余ってぶつかって、こぼれた蜜がうっかり口の中に入ったとしても、始末書で済むのではないか。

 そしてその生き物の出典は、アニメに限らず、漫画や、ライトノベルでも成り立つのではないか?

「あのう。何がおかしいですか?」

 僕の顔を覗き込むように首をかしげて、彼女が問う。僕は“トロル”さながらに歯をむいて笑みを作る。

「仕事中の妄想。暇つぶしだよ」

 そう言いながら、頭の中ではこの街を舞台にした物語が湧き出している。文豪に描かれ、森の妖精が暮らし、何の因果かライトノベルの聖地になり、僕が生まれ育ったこの街に連なる与太話。やろうと思えば案外、夢は叶うのかもしれない。

「モナ、何が食べたい?」

 僕の唐突な問いを、仕事終わりの朝食の話ととったのだろう。モナは即答した。

「おいしければ、なんでも」

「なんでもいいが一番困るよ」

 喜んでくれるなら、僕だってなんでもいいのだ。せいぜいこの街に住み続けて、この仕事をし続けて、レシピを増やしていかなくては。

 僕はミュージアムに銃口を向け、両肘を軽く跳ね上げてみせた。まるで架空の銃声が聞こえたかのように、“トロル”が大きくいなないた。

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となりの“トロル” 八百羽つぐ @8000tsugu

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