それでよかった

瀬尾 三葉

それでよかった

 言葉があるならそれでよかった。

 テレビで華やかに笑うアイドルのかっこよさも、まぶたの上に乗せるラメの化学物質の可愛さも、好きな人のために髪型を整える胸のときめきも、何もわからなくてよかった。

 言葉は現実から乖離した物語を提供してくれる魔法で、それを堪能するには現実世界を生きる自分なんてみじんも必要ないのだ。

 思えば、昔からそんな風に世界を眺めている節があった。

 教室という小さな箱で覇権を争いあう二桁にも満たないクラスメイトを馬鹿馬鹿しいと思っていたり、声が大きいだけの子どもを「元気だ」と言って可愛がる大人にどうしても気に入られたいと思えなかった。

 物事を一歩遠くから冷めた目で傍観する私は、次第に物事の方からも疎まれるようになった。

 体が大きくなるにつれ、人間関係に友達だけでなく恋人や肉体関係のみの友達、という複雑な選択肢を増やしていく彼らはまるでおとぎ話の住人だった。私は彼らを横目に、知らない誰かが書いたおとぎ話をひたすらに読んだ。

 言葉があって、文字になって、物語が出来上がるならこれ以上に満たされることはないと思った。私は誰よりも深い場所に行ける。誰よりも数奇な体験ができる。誰よりも魅力的で、誰よりも強い人間になれる。本を一ページめくるだけで。

だから、みんなと同じように世界を見てみたいなんて少しも思えなかった。

私に欠けているものなんてない。そうやって大人になった。

ただ一度だけ、他人の目で世界を見てみたいと思ったことがある。

中学二年生の時のことだ。

当時すでに他人の常識が自分のそれとはかけ離れていると悟っていた私は、価値観のすり合わせなんていう無駄な努力は放棄して、最低限の学校生活を送っていた。

周囲は図書室に入り浸る私を「変わり者」とラベル付けし、遠すぎるが傷をつけ合わなくてすむ距離を飛び越えてこようとする人は一人もいなかった。それが心地よくて、薄ら寒い自由の中をいつも一人で泳いでいた。

空気の乾いたある日。日課のように放課後の図書室に向かっていた私は、渡り廊下に人影を見つけた。体育館へと繋がる雑草の茂った日陰で、鈍い音を立てて誰かが動いている。

人が蹴られているとわかったのは、廊下を歩き出してからだった。複数人がリズムよく人間の肉を攻撃する音が聞こえて、その後に同じ高さのうめき声が引きつった笑い声にかき消される。廊下からでは、顔ははっきりと判別できなかった。

いじめだ。友達のいない私にもわかった。

一瞬、足が止まった。そして再び、歩き出した。

私は彼らの世界には存在しない人間だ。そして彼らも、私になんの関わりもない。彼らはこの世界を文字のないおとぎ話のように生きていて、私はそれを読むことができない。

関係ない。関係ない。お互いに。

ほんの少しだけ早まった鼓動を無意識に振り切るように、早足に廊下を通り過ぎようとした。誰か来た、という薄いナイフのような声と、止まった殴打の音と、舐めるような視線を、俯いてやり過ごそうとした。

図書室に続く扉まであと数歩のところで、目が合った。廊下とそこから外に出るスペースを仕切る塀の隙間から、二つの目が私を捉えていた。

地面にめり込むように倒れた双眸は濡れて弱く光り、その惨めさで必死に私を求めているように見えた。

助けて、と文字が浮かんだ。

後にも先にも、文字でない言葉が文字になったのはこの時だけだった。

私が次の一歩を踏み出すまでの短い時間でその文字は再び始まった肉がぶつかる音に揉み消された。

とても長い一瞬だった。

走って、逃げた。

激しい心臓の収縮と上昇する体温は、図書室に駆け込んでからもしばらく収まらなかった。目を閉じても二つの光が見え、文字が浮かんでくるような気がした。

図書室を出た時には、廊下には誰もいなくなっていた。

あんな風に誰かを求め、他人に忘れられない一瞬を刻むことができたら、と大人になった今でもたまに考える。

小説を書くことを仕事にしたのは、ほんの少しだけ彼のせいかもしれない。

せめて自分の書く物語の中では、そんな体験ができたらと。

あの一瞬がいつまでも私の中から消えない。

言葉があればそれでいい。それはいつからか、忘れられない刹那を封じるための呪文に変わっていった。

一人は寂しい、と時々私ではない私が言う。

物語の中の人間は、誰も私に話しかけてはくれない。

私は、本当は言葉が欲しい。

私だけに向けられた言葉が欲しい。

にゃーお、と机の下で声がした。三年前に拾った白猫が大きな瞳で私を見ている。古い木造建築の平屋は、相場よりずいぶん安くて長いこと私の都になっている。鍵が閉まりにくいという防犯上の致命傷はあるけれど、この辺りは人の少ない田舎で、昼も夜も人間の気配をあまり感じない。

「どうしたの、ノブ」

 柔らかな毛玉を抱き上げる。雨に濡れて路上で震えていた初対面の頃より、だいぶ重たくなった。健康な証拠だ。今の私にとって唯一のおとぎ話でない他者はノブで、それはノブにとっても同じことを意味する。ノブは外出を好むタイプの猫ではない。

「お腹すいたの、ご飯にしようか」

 時計は正午を示していた。書きかけの連載を切り上げ、担当編集にメールを打ってから席を立つ。最近はメディア化された作品もいくつか出てきたからか、読者からの問い合わせやイベントの要望も増えてきたらしい。私は積極的に露出を望みはしないけれど、最近はそれを求められているなら応えたいと思うようになってきた。

変わったな、と独り言ちる。昔のように妙に捻くれた姿勢でいることも、他者を必要以上に生活から排除しようとすることもなくなってきたように思う。棘を失い丸くなってきた自分を喜ぶべきか、悲しむべきか今のところまだわからない。

 集中していた神経を分散させるために、テレビをつける。連続強盗犯が捕まっていないというニュースの後、キャスターが明るい声で文学賞の選考結果を読み上げていく。日本で最も注目される賞で、私はこの最終選考まで残って惜しくも落選した。自分は先生の作品が一番好きです、次は獲りましょう、と結果報告の電話で息巻いていた担当編集の声が蘇ってすぐに消えた。テレビを消す。

 にゃー、にゃーとノブが珍しく大きな声で鳴いて、玄関の戸を引っかく音が聞こえた。

 どうしたの、という私の声は最後まで続かなかった。

 男が立っていた。

 白いTシャツを着た細身の男が逆光を背負って私の家の玄関に立っている。俯いた顔やだらんと下がった両手からおぞましいほど重い空気が漂っていて、全身が凍ったように動かなくなった。

「よぉ」

 片方の口角だけを上げて笑って見せた男の目に、震えが走った。

 この男は。

「なあ、俺のこと覚えてる?忘れちゃったか。そうだよな、俺みたいな社会のゴミ、あんたみたいな大先生が覚えてるわけないよな」

 靴を脱がずに廊下へ上がってきて、男は私との距離を詰めた。自嘲を含んだ男の声が鎖のように私を縛り付けて、後ずさりができない。男はみるみるうちに私の目の前まで迫って、言葉を吐いた。

「覚えてないなら思い出せよ。俺だよ、中学生の時、あんたが見捨てたいじめられっ子だよ。目合ったの、ほら、思い出せよ」

 忘れてなどいない。覚えているに決まっている。渡り廊下で私に縋ってきた、彼だ。その彼が私の家にいる。どうして。

 足がもつれて尻もちをついた。歯の根がかみ合わずにかちかち鳴る。瞬きすら恐怖に感じる気迫が殺意だと本能が悟る。

 逃げなければ。

 必死に後退しようとする私を見て、彼は乾いた声で笑った。膝をつかずにしゃがみ、私と目線を合わせる。錆びた鉄の匂いや何かが燃えた匂い、食べ物が腐ったような匂いが混ざって鼻孔に充満する。

「怖いか?俺もあの頃は全部が怖かったよ。殴られても蹴られても、誰も助けてくれねえし。だんだん俺が悪いのか?って思うようになったよ。そんなわけないのにな。ガキだったんだなあ、俺も」

 彼が私の目を見た。あの時と同じ、弱い光を放つ目で、私だけを見ている。

「なんでいじめられてる俺が悪だと思ったんだろう。いじめる奴と見て見ぬふりする奴が正しいのか?そんなわけないよな。俺は悪くない。悪いのは俺以外だ。じゃあ悪い奴はどうならなきゃいけない?…罰を受けなきゃいけないよな。幼稚園生でもわかるこの世のルールだ」

 一瞬、光が消えて彼の息が聞こえた。もう一度目が合ったと同時に私は手首を掴まれ、床に押し倒された。

 彼の顔が見えない。重力で垂れた髪と影に隠れて、彼の表情が、見えない。

「だから俺は一人ずつ罰を与えることにしたんだ。長かったよ。こんなに時間がかかっちまった。先月でもう全員だと思ったんだけどな、たまたまテレビであんたの顔を見てさ。それで思い出したよ。ああ、あいつも俺を見捨てたって」

 彼の体重が手首に乗って血管を締め付ける。息が止まりそうなほど痛くて、涙が頬を流れた。

「…なんで泣いてんだよ。小説家になったんだってな。立派なもんだ。なあ、俺に教えてくれよ。…なんであの時俺を見捨てた!なんであんな目で俺を見た!ふざけるなふざけるなふざけるな!助けてくれないなら俺を見るんじゃねえ!お前だって友達ができやしない暗い女だったくせに!なんでお前じゃなくて俺がいじめられたんだ!」

 ふざけるなと私の上で彼が喚くたびに体重がかかって全身の自由が奪われていく。

 ふざけるな。

 ふざけるな。

 ふざけるな。

 言葉を繋げるならそれでよかった。

 他人に忘れられない一瞬を刻んでみたい。

 彼の指が喉にかかった。

 彼は今、私と現実の世界を生きている。

 視界の隅が黒くなって彼の顔がぼやけていく。

 最後に一度だけ、彼の目を見たい。

 その目で助けてと言葉にしてほしい。

 それは、私だけに向けられたものだ。

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それでよかった 瀬尾 三葉 @seosanpa

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