千絵理の嫌気

高広 亮

千絵理の嫌気

「今月のMVP生徒はまたもや、ちーに決定でーす!」


 休み時間の教室で、数人の女子が輪になって騒いでいた。騒ぐと言っても、中心にいる一人を皆が褒め称えるという中々珍しい光景だ。


「ちー、この前勉強教えてくれてありがとね。追試ヤバかったからホント助かったよ」

「ウチもウチも。部活の助っ人、ちーってばレギュラー以上に活躍してたじゃん」

「ああ~ちー様~お願いだからそのスーパー女子高生パワーを私たちに授けて下さいまし~。美人で性格も良くて何でも出来るあなた様のような人間になりたいのです~。ついでにMVP生徒に選ばれたい」

「ついでじゃないでしょ。アンタMVPの副賞がメインでしょそれ」


『ちー』と呼ばれる女子生徒は、彼女らの称賛を受けて困ったように笑っていた。特に皆が話題に出す、新聞部主催の投票イベントの事について訂正する必要があった。

「皆ありがとね。でも、えっと、今回のMVPに私選ばれてないよ?」


『MVP生徒』――その月、皆から一番多く感謝された生徒に与えられる称号だ。

 もとは新聞部が部誌に興味を持ってもらうために始めた小さな投票イベントだったが、今では全校生徒の毎月のちょっとした楽しみとなっている。

 何しろMVP生徒に与えられる副賞は学食の食券五日分。成長期真っ只中な高校生からすれば結構嬉しい賞品で、ほぼ全員の生徒たちが(主に飢えたハイエナと化した運動部たちがヨダレをまき散らすくらいの熱量で)注目している。


 そのMVPに今回で初となる、通算三回目の受賞が期待されているとあってクラスの皆は『ちー』に注目していた。当の本人は持ち上げられるのが申し訳ないのか、困り顔で否定していたが、

「えー絶対決まってるって! バレー部の先輩も今回ちーに入れるって言ってたもん。ほらこの前の練習試合でメッチャ感謝してたじゃん。おかげでライバルぶちのめす事が出来た~って。先にカレシ作られた恨めしさで夜も眠れないとかなんとかって――っと」

 楽しそうな会話を予鈴の音がさえぎった。中心にいる『ちー』が慌てて立ち上がり、皆を先導していく。


「ごめん皆、話はまた後でね。急ご、美術室遠いよ」

「うわーそうだった! アタシたちこそスンマセーン!」

「つーか何でウチの学校美術室だけ無駄に豪華で広いの? 専用棟まであるし、おかげでそこまで行くの毎回大変なんだけど」

「あー私先生から聞いた。ウチの美術部って結構昔は盛んで、その名残らしいよ」

「え、でもウチの学校に美術部なんてあったっけ?」

「だから〝昔〟の話ね。今はもう部自体ないんじゃない?」

「ハイそこお喋り終わり! もーすぐにこれなんだから」

 緩みそうになった空気をちーが止めて、今度こそ彼女たちは教室を出ていった。さっきまでの賑やかさが嘘のように教室が静かになる。


 だが、ガタと。

 椅子を引く音が一つだけ響く。

 女子生徒が一人だけ残っていた。

 小柄な容姿をさらに小さく縮こまらせて、彼女は先に行ったクラスメイトたちの後を追う。少し先を歩く賑やかな集団と対称的に、彼女の周りだけ暗く影が下りているようだった。

「……あーもう、人の机の前でうるさい。それに、無くなってないっての」


 彼女は――千絵理は、口の中だけで呟く。前を歩く『ちー』こと千里の周りにあふれているキラキラした空気と、自分自身とを比べながら。

「幽霊部員じゃなくて現役美術部員がここにいるっての。……他に部員いない一人だけの部だけど」

 言いながら、千絵理は思う。

 同じ『ちー』でも違い過ぎて、これでは確かに、誰にも気づかれない幽霊として扱われても仕方ない。






 放課後は、部活の無い生徒からすれば暇すぎる時間帯だと千絵理は思う。

 特に自分のように、友達も少ない趣味も無いとくれば取れる選択肢は必然帰宅だけとなる。

「でも帰ってもすることないし……どうしよ」

 何というか、もったいない感がすごい。花の女子高生がこれで良いのだろうかという思いが妙な焦りを与えてきて、教室で一人千絵理は脳内会議を開いた。

 両手を口元で組んで、眼鏡はかけていないけど眼鏡を光らせているつもりで、どこぞのアニメの司令官よろしくシミュレーションをする。


 ではどこかに寄り道――金がないし一人で行ってもアレだ。

 図書室で勉強――そこまで勉強熱心じゃ無い。いやマズいとは思っているけども。

 なら散歩――それでこの前、筋肉痛になった。悲しすぎるかな運動音痴の運動不足。

 じゃあ部活――、


「…………」

 考えていた頭が、そこで止まる。

 本来なら、選択肢は一つしかない。少なくともつい一週間前までは、千絵理は放課後必ず美術室へ向かっていた。

 そして最終下校時間ギリギリになってから、絵の具で汚れた手を洗って帰る。

 それが千絵理という女子生徒の日常だったのに。


「ちー! 一緒に帰ろ-!」

 ビクリと、聞こえてきた声で肩が震えた。けれど呼びかけの対象は千絵理じゃない、別のちーの方だ。

 休み時間にも見た光景が再び千絵理の前に現れ、小さく、彼女は誰にも聞こえないように呟いた。

「……っさいなあ」

 結局、大人しく帰る事にした。


 だが教室を出ようとした時だった。

「あっ、千絵理ちゃん。また明日ね!」

 一瞬、呆けてしまった。

 だがそれが自分に向けられたものだと気づいて、慌てて声の方に目を向ける。

『ちー』こと千里が、気さくな笑顔で手を振ってくれていた。

「……っ! あ、……よぅ、う、うぃ」

 口を尖らせた謎の挨拶を返して、慌ててその場を後にする。足早に歩いて、歩いて歩いて学校から大分離れてからようやく息をついた。


 周りに人がいないのを確認して、

「よぅとかうぃとか何だそれ! あーもー私はラッパーかイタリア人かよ~」

 千里と自分との、埋まらない差に頭を抱えた。

 嫌になるほどだ。特に千里の方が、MVP生徒に選ばれるくらいに良い子なのも相まって。 実際千絵理は彼女に対して、尊敬の念こそ抱いても嫉みや嫌悪などの気持ちは持っていない。 本当に嫌だと感じているのは、千里を褒め称える周りの声の方だった。


 頭では、そんな風に思う事が間違っているとは分かっている。だけど『ちー』という愛称が何度も何度も褒め称えられて、その度に思ってしまうのだ。

 同じ『ちー』でも、違い過ぎると。

 面と向かって誰かから言われたわけじゃない。そもそも学校では千絵理の事を『ちー』とは誰も呼ばない。

 でも、どうしても、比べてしまう。

 何も持っていない自分と、キラキラした彼女とを。


 いつからか気になった雑音は、呼び水のように他の事も気にならせていった。

 世間にあふれる嫌なニュース、親からの小言、将来の不安、そして――全力を注いだのに少しも結果を出せなかった、一月前の絵画コンクールの事も。

「……っ」


 また、ノイズのような嫌な思いが頭を埋め尽くしていくのを千絵理は感じる。帰る足を早めて頭を振ってみたが駄目だ、こうなるともう止められない。

 原因は分かっている。自分は何も、誇れるような結果を出せていないからだ。

 なのに世間はそんなキラキラした『結果』を、至るところで見つける事が出来てしまう。見つけようと思わなくても、向こうの方から、まるで見せつけるみたいにやってくる。


 ネットの普及がその最たるものだ。ツイッターを覗けば、イイねが万を超えるような綺麗なイラストなんてごまんとある。しかもそれを描いたのが、自分より年下なんてのもザラだ。

 少し前までは、千絵理もここまで気にすることは無かった。

 けれど絵画コンクールで手痛い落選をもらってから、周りの事が気になって仕方が無くなっていた。


 自分でもこんなもの考えたくない。

 それでも、雑音の方が嫌でも頭に飛び込んでくる。

 そうしているうちに、段々と、絵が描けなくなった。

 キャンバスの前に立っても手が動かず、構図の一つも浮かんでこない。


 結果でも出せていたら、それこそ人気者の『ちー』みたいにMVP生徒にでも選ばれていたら、ここまで悩むこともなかったのだろうか。

 そう思うと、別に心の底から欲してもいないそんな称号が欲しくなってくる。

 けど、そんな事はあり得ない。あり得ないから、千絵理はこうして美術部の活動を休んでいるのだから。

 どうせ廃部寸前で顧問もやる気の無い部活だったから、誰も咎める者がいないというのも後押ししていた。


「っておーいちーじゃーん! まーた美術部サボったのか~?」

 ……いや、一人だけいた。

 自分の事を『ちー』と、幼い頃からずっと呼んでくるのは一人しかいない。果たして顔を上げると、いつの間にか着いていた自宅と、隣の家の庭でパンツ一丁で一人バーベキューをするというだらしなさを体現したような青年がいた。

「……大学サボりまくってるカズ兄に言われたくないんだけど」

「そー言うなって。それより肉食う? ちょーどさっき曲アップしたからその打ち上げよコレ」

「ヤダ。何か、毛とか一緒に焼いてそうだし」


 幼なじみの一樹だった。

 大学生になったというのにサボりまくって、買ったばかりの機材で音楽ばかりやっていると、一樹の母から母伝いに千絵理も聞いていた。

 それだけでも普通に頭を抱える内容なのに、今の千絵理は自分の現状も相まって一樹に対してどうしても気持ちが尖ってしまう。

 なのに、一樹の方は幼い頃から全然態度を変えずに接してくる。


「そーだ、ちー! 曲聞いていってくれよ。今度のは自信作でさ。俺もミクさんの調教が分かってきたっつーか、ギターの真髄が見えてきたっつーか?」

「あーハイハイいいです。素人目にも音痴だって分かる曲は間に合ってますんで。前回のあれも、なんか……例えるなら、『ぱよえーん』って感じの音だったし」

「いやこの前より上手くなってんだって俺も! この肉に賭けて誓う! ていうかほらちーもこっち来いよ。肉食えば大体人間ハッピーになれるんだぜ?」

「いりません。ていうかあんな曲作る暇あったらちゃんと学校行けば?」

「えーだって勉強やりたくないもん」

「子供じゃん……流石に超えちゃいけないラインってのあるでしょうが」

「ふっふっふ、しかしな、おかげで作曲の腕は格段に伸びたぞ? オレはな、やりたくない事に時間を注ぐほど愚かでは無いのだよ! だがやりたい事からは目を逸らさない! それがオレこと一樹様のモットーだからな」

「……バカじゃないの」

「ハハハー何とでも言うが良い。それよりほら、ちーも絵描かねえなら時間あんだろ? ならちょっと食ってけよ。知らねえのか肉ってのは元気の源で」

「ばっかじゃないのッッ!!!!」

 考えるより先に鞄を投げつけていた。

 もう我慢の限界だった。


 ただでさえ頭の中がゴチャゴチャしているというのに、そこに何も考えていないような一樹を前に、千絵理の気持ちは止まらなくなっていた。

「何がやりたい事からは目を逸らさない~よ! 嫌なものを見ないようにしてるだけの言い訳じゃん! カズ兄みたいなテキトーな人間見てるとムカツクの!」

 完全に八つ当たりだった。その自覚もあった。けれどぶつけられる人間を前にすると、こうも止められなくなってしまう。


「急に音楽に目覚めたとか言って、大学も行かずに毎日毎日そうやって……おばさんに悪いとか思わないわけ? そのくせ、いっつも楽しそうにして、ムカツクくらい前向きだし、こっちには気軽に話しかけてくるし……顔合わせる度に心配までしてくるし……ッ、知った風な口聞かないでよ! いいかげんうるっさい! 耳ざわりなのよ!」

 全てを一気に言い切って、それで全身を焼くような熱が少し引いてくれる。

 けれど頭の中はまだゴチャゴチャしたままで、一樹が焼いている肉の音が最高に皮肉ってくるようだった。

 だが言われた当の本人は、

「前向き、か。そう見えてんなら良かったよ」

 怒るでもなく、静かに笑っていた。


 それどころか、幼い頃から変わらない兄としての顔で言ってくる。

 全てを見透かしたような顔で。

「ちーは今、前向けてねえのか?」

「っ!」

 言葉に詰まった。

 大学もサボって、だらしなくて、おまけにパンツ一丁でバーベキューをしているような男の、たった一言で。

 うつむいて、唇を噛みしめたままもらすので精一杯だった。

「……ホント、ムカツク」

 一樹に対しての言葉じゃなかった。

 絵を描きたいと思っているのに、前を向きたいと思っているのに、それを邪魔してくる周りの雑音に対しての言葉だ。


 これが無ければ描けるのに。

 本当は、前を向きたいと思っているのに。

 耳をふさいでも雑音は頭の中に響いてきて、千絵理の歩みを邪魔してくる。

 それが、何より腹立たしくて仕方ない。


「けどさ、そのムカツク事を言い訳に使うなよ」

 なのに、幼なじみの兄は確かにそう言ってきた。

 責めるでもなく、傷つけるために言い返してくるでもなく、ただ淡々と千絵理の奥にあるものを見据えたまま。


「この前のコンクールは残念だったな……。だからすぐに切り替えて、前向きになれとかは言わねーよ。でもよ、前向けないままで良いから描いてみろよ。あれで千絵理の全部が否定されたわけじゃねえんだからさ」

 一樹の言葉が、頭に響いた。

 それだけで、埋め尽くしていた雑音が一瞬消える。

 胸の中から自分を溶かすような熱を感じて、喉と口元が震えた。その上、目頭も熱くなってきて――けれど、ハッと千絵理は思い直す。

 素直さより、意地の方が勝ってしまった。

「っ、知ったような口聞かないで!」

 捨て台詞を吐いて、足早に自宅の中に入った。

 最後まで、一樹の静かな視線を背中に感じていた。






 ――どれくらい自己嫌悪におちいっていたことだろう。

 部屋のベッドの中で腐っていると、不意にノックの音が聞こえてきた。

「何アンタ、家間違えたの?」と母親が千絵理の鞄を持ってきて、それで思い出す。一樹と喧嘩した時に投げつけたままだった。

 一樹が持ってきてくれたのだろう。母から鞄を受け取って、そして気づく。

 鞄のサイドポケットに、固い感触がある。


 母が部屋から出ていき一人になってから見てみると、CDが入っていた。ケースには、付箋が貼ってある。

 見慣れた汚い字で、『聞いてみ』とだけ書かれている。

 誰からのものかは言われずとも分かって、だから最初は意地を貼る気持ちが浮かび上がった。だがさすがにあんな風に八つ当たりをした手前、無視出来るほど千絵理も神経が太いわけではない。

 それに、何となく気になったのだ。


 パソコンに入れると、曲のデータが一つだけ入っていた。きっと一樹が言っていた、上がったばかりの新曲だろう。

 どうせまた、素人の下手くそな曲を聞かされるのだろう。

 けど喧嘩した手前、ちゃんと聞いて自分なりに感想でもまとめようかと、そう思って、

「え――」

 その認識が、甘かったと思い知らされた。


 まず最初に思ったのは、「あり得ない」という否定の思いだ。

 つい二月前、一樹は新曲を出したと言って自分に聞かせてきた。だが出来は酷いもので、素人目にも音程が合っていないと分かる曲だった。

 それこそ音楽というより、ノイズを聞かされているような感覚を覚えたほどに。

 けれど当時は音楽を始めてからまだ一ヶ月というから、それも仕方ない出来とも言える。

 だから新たに渡されたこの曲も、換算すれば作曲経験三ヶ月の、素人の曲だ。

 なのに、


「こんなに、上手くなるものなの……っ!?」

 一樹が今回渡してきた新曲は、前回より遥かに高いクオリティの音楽だった。

 確かにまだつたない部分はあるだろう。それこそプロの曲と比べればハッキリと違いは出てしまうに違いない。

 それでも、ちゃんと聞ける。

 雑音なんかじゃない。ギターやピアノ、ドラムやベースの音がそれぞれ調和して、ボーカロイドの歌声を見事に引き立てている。

 ちゃんと音楽として、聞いている千絵理の心を揺さぶっている。

 少なくともこの曲は、それくらいの力を持っている曲だった。


 いっそ別の誰かが作ったものだと言われた方が、納得出来るほどだ。

 けれど前回未熟なままの曲を聞かせてきた事からも、一樹は下手に自分を取り繕うような事はしない。何よりそんなつまらない事をしない人間だという事は、幼なじみの自分が一番よく知っている。

 だからハッキリと分かる。

 これは、一樹の作った曲だ。

 ほんの二ヶ月前は、ただの雑音しか作れなかった人間の、渾身の力作だと。


「……バカはどっちだっての」

 まるで『ウサギとカメ』だ。

 自分が一つの失敗に囚われて燻っている間に、素人同然の一樹はこんなにも前を行っている。 曲のクオリティもそうだが、何より一樹の成長具合が如実に語っている。

 どれだけ、音楽に対して真摯に向き合ってきたかを。


 周りと勝手に比べて、それらを雑音と決めつけて、前に進めない言い訳に仕立て上げて絵を描くことから逃げていた千絵理とは違って。


 今さらながら、千絵理は気づかされる。

 本当に考えたくなかったのは、そんな掃いて捨てるほどどうでもいいような雑音の

事なんかじゃ無かった。


 弱くて情けない、今の千絵理自身の事だった。


「――――っ、は」

 正しく自覚した途端、あり得ないほど自分の事が恥ずかしくなって、なのに口から漏れたのは叫び声でも泣き声でもなく小さな笑い声だった。

 けれど一樹と喧嘩したときとは違って、今度は止めようとは思わなかった。

 清々しいほど、脱帽ものだ。

 気づいてしまえば、何のことは無い。

「ただ、頑張れば良いだけじゃん」

 ふと、一樹の言葉が頭を過ぎった。

 聞いた時はふざけているようにしか聞こえなかったのに、今は確かな重みを感じた。


『オレはな、やりたくない事に時間を注ぐほど愚かでは無いのだよ! だがやりたい事からは目を逸らさない!』







 ――コツンという小さな音が、夢現だった一樹の意識を浮上させた。

 寝ぼけ眼にスマホで時間を確認すると、まだ朝の五時だ。

「んぁ~こっちはさっきまで曲作ってたっての……」

 もぞもぞと布団に潜り込んで再び寝ようとしたところで、再びコツンという音が意識に引っかかる。

 顔をしかめたまま音の出所を探すと、窓に何か当たっているようだ。雨でも降り出したのかと思って、今度こそ無視して寝ようとする。


 だが今度はスマホの方が邪魔をしてきた。メッセージアプリの通知音がして、画面にメッセージが表示される。腹立たしげに確認するとこうあった。


『下りてきて 次投げるの小石じゃなくてハンマー』


「ばっか! ちーお前何やってんだ!」

 慌てて玄関から外に飛び出ると、案の定千絵理がそこにいた。まだ朝五時だというのに制服を着て、もう学校に行くようだ。


「んだよ~オレ寝るとこだったんだけど。なに、行ってらっしゃいのチューでもしてほしいんか? ならちょっと待ってろリップクリーム塗ってくるからその後で」

「違うわよバカズ兄!」

 叩きつけるようにして千絵理が何かを渡してきた。

 見ると、昨日鞄を返すついでに入れておいた新曲のCDだ。


「聞いた。返す」

「ああ、ハイハイ」

 学校に行く前に返そうという事なのだろう。律儀な所は昔から変わっていない。

 だがこれで話は終わったと思ったが、彼女はまだ何か言いたげに口をもにょらせている。

 ――本当に、幼い頃から変わっていない。

 一樹はあくびを一つして、頭を少し目覚めさせてから聞いた。


「千絵理、どーしたの」

 努めて優しく言うと、千絵理は口を尖らせて睨みながら、

「アタシ、今日から朝練やる」

「さいで。そーいや前は毎日やってたもんな」

「……負けないから」

 この場合はおそらく、こちらに対して言ったのではないのだろうと一樹は理解していた。


 きっと、彼女が彼女自身に対して言った言葉だ。

 だからそれ以上追求するのは野暮というものだろう。黙って見送ってやるのが一番良い。

 その上で一樹は、


「うんうん、ちーちゃんがちょっと前を向いたようでカズ兄ってば嬉しいなあ~っ! でもあんまり無理し過ぎないようにねえ~? ちーは昔っから真面目すぎて一回悩むととことんまで悩んじゃうもんね~。そのくせ負けず嫌いだからよく考えこじらせちゃうし。あ、さらに言やあ臆病なのに繊細だから誰かに助けて欲しいって言えないよな。昔から俺に助け求めてたけどそれも苦手で察して的な感じで今日も」

「そう言うカズ兄はデリカシーがなさ過ぎ!!!」

 つい面白くてからかうと、千絵理は鼻息を荒げて歩き出してしまった。


 しかし途中で立ち止まり、振り返って、

「カズ兄こそ、ちゃんと学校行ってよ。もったいないじゃん。それだけで皆から色々言われるの。……あんなに良い曲、作れるんだから」

 言うや否や千絵理は顔を赤らめて逃げるように去って行くものだから、一樹はつい吹き出してしまった。


 彼女の背を見送って、見えなくなったところで空を見上げる。

 雲はほとんどなく、朝焼けの綺麗な空がそこにあった。

 今日はきっと、一日晴れ渡っている事だろう。

「あー……しゃあねえ。大学行くか~」

 今日からちゃんと行けば、何とか留年を免れるだけの単位は取れるだろう。

 寝不足で頭がふらつく中、今日の授業がなんだったかを思い出して、それからげんなりした。

「うげ、ディスカッション授業のやつじゃん。めんどっ! 考えたくね-!」





 時刻は五時半。

 熱血な運動部数人と用務員だけで、学校にはほぼ人がいない。

 その上普段から人が来ないとあって、美術棟はまるで廃校舎のように静まりかえっていた。

 だからこそ、集中できて良い。


「……よし、描くよ」


 だだっ広い美術室の中で、ただ一人、白いキャンバスの前に千絵理は立つ。

 絵の具も筆も水も全て用意した。あとは描くだけだ。

 深呼吸して、絵筆を取り、そして描き始めようとして――


「ああ、もう」

 また、頭の中がゴチャゴチャしてくる。

 とりとめの無いことから、ハッキリと嫌だと感じた事まで。

 大量のノイズが頭を埋め尽くして邪魔してくる。

 決意したものの、そう簡単に変われるはずもなく、千絵理の手はこれまでと同じように止まってしまう。

 それでも、


「目の前の事だけを、考える……!」


 意識して呟いて、さらにはこれまでと違う行動にも出た。

 鞄からイヤホンを取り出し、耳につける。単純な策だ。頭の中がノイズで満たされるなら、こっちから別の音で満たしてやるまで。

「ホントは駄目だけど、もう良いや」

 校則で禁止されていて、先生に見つかれば一発アウトだ。それでも今は誰かが決めた決まり事よりも、自分が決めたやるべき事を優先したかったから。


 何の曲を流すか考えて、ふと、昨日スマホに入れた一樹の新曲を思い出した。

「……やっぱ、良い曲じゃん」

 流れ出したアップテンポな曲が、頭の中に響き渡る。

 それだけで、頭の中のゴチャゴチャしていたものが洗い流されていくような感覚を覚える。


 けれど、まだだ。

 まだ本当にやるべき事をしていない。

 絵筆を強く握りしめ、もう一度深呼吸する。


 今度こそ、千絵理は絵を描き始めた。


 それでも描く度、思い出したように頭の中には嫌な記憶が浮上してくる。

 特にコンクールでの落選の事は、強く強く、何度も千絵理の意識を引き戻そうとしてくる。

 けど、もう、その事について考える事はしない。

 頭に浮かぶなら、勝手に浮かべば良い。

 今はただ、目の前の、本当に向き合いたいものの事だけを考えていく。


 考えて。

 描いて。

 迷って。

 また考えて。

 また描いて。

 ふと自分の長い髪が邪魔だと感じて。

 手に持った絵筆を下ろしもせずに、髪を縛って。

 また描いて。


 描いて。描いて。描いて、描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて――


 そして、これまでの腐っていた時間は何だったのかと思うくらいに。


 あっさりと、その瞬間は訪れた。


「――出来た」


 呟くと同時だった。

 響き渡った予鈴の音が、千絵理の意識を急に現実に引き戻した。

 時計を見るといつの間にかもう始業時間近くになっている。一瞬で消えたような時間の流れに驚きつつも、そこでふと、妙なざわめきが後ろから聞こえてきた。


 頭に響くノイズなんかじゃない、現実としての声だ。怪訝に思って聞きっぱなしにしていた曲を止めて、後ろを振り向く。

 その瞬間、千絵理は自分を包むノイズの正体を、ようやく知った。

「えっ」


 ほとんど人が来ないはずの美術棟に、なぜか大勢の生徒達が詰めかけていたのだ。しかも皆、美術室の入り口や廊下側の窓から千絵理の方を見ている。

 視線にこもっていたのは、驚きや、好奇心といった感情があふれるキラキラしたものだった。


「あっ完成? 完成じゃねアレ」

「ヤバーい! ライブペインティングっていうの? アタシ初めて見たんだけど」

「凄かったな。いや、その、絵もだけど……色んな意味でっつーか」

「だな、メッチャ笑いながら描いてたぞあの子。ちょっと怖いくらいだったんだけど」

「狂気的というかなんというか……恐ろしい子!」


「えっ、えっ! ええっ!?」

 聞こえてくる彼らの言葉で、ようやく千絵理は自分がどんな様子で描いていたのかを正しく認識する。辺りを見回すと、美術室の壁も床も天井に至るまで、色取り取りの絵の具が飛び散りまくっていた。


 集中していておぼろげな記憶を探ると、確かに千絵理自身、聞いていた曲に気分を押される形でヒートアップしていたような気はする。それこそ誰かがライブペインティングと言ったように、筆だけじゃ足りないと、手で直接描いたり果ては絵の具を染みこませた水を思いっきりぶちまけたような気が……

「いや、まさか……こんな事になってたなんて」


 自分の行動に自分で引いていた千絵理だったが、そこで良く通る声が響き渡った。

「千絵理ちゃん、凄い! こんな絵描けたんだね!」

 人気者の方の『ちー』の、千里だった。

 興奮した面持ちの彼女につられて、千絵理も自分の絵に意識を戻した。


 改めて見ると、自分でも驚くほど絵が〝生きて〟いた。

 いくつもの鮮やかな絵の具が走り回っていて、小さなキャンバスが狭苦しいと言わんばかりだ。事実、床や壁、そして天井に至るまで縦横無尽に飛び散った絵の具も合わせて、美術室全体を含めて一つの作品のようになっている。

 教室中を使った、極彩色の作品。


 そんな千絵理の作品を見て、彼女は抑えきれない高揚を叫ぶように言ってきた。

「千絵里ちゃん、私、千絵里ちゃんに投票する!」

 一瞬何のことか分からなかったが、すぐに千絵理も気づく。

 毎月のMVP生徒を決める、新聞部主催の投票イベントのことだ。


 千里が言ったことで、他の生徒たちも思い出しように口々に話題にする。

 自分で言うのも何だが、何となく、千絵理は選ばれる気がしていた。

 確かに以前、MVP生徒になれればと思った事はある。

 だが今回のは、結果を求めて描いたわけじゃない。ただ目の前の絵の事だけを考えたくて、そうなるように動いただけだ。

 けれど、まさか結果が後からついてくるとは思わなかった。


 むずがゆくて、でも嫌な感じじゃない気持ちを覚えた時だった。

「ってうぎゃあああああ!? なんだこの絵の具だらけの教室はああああああ!?

 騒ぎを聞きつけてきた先生が、ものっすごい表情で叫んでいた。しかも「誰がこんな事を!」という怒号に、見ていた周りが一斉に千絵理に視線を向けてくるものだから最悪だ。

 どっちにしろ顔も制服も絵の具だらけで、言い逃れできるわけがないが。

「くぅおらお前! 教室中汚しただけじゃなくイヤホンつけっぱとはいい度胸だなおいコラああああああ!」

「あっ」

 絵の具で汚した事だけじゃなかった。

 絶賛堂々と校則違反の真っ最中だった。


 生まれてこの方、悪く言えば地味だが、良く言えば品行方正な学園生活を送ってきたが、どうやら初めて生徒指導室のお世話になりそうだ。

 この先控えているであろう説教、それに取るかもしれないMVPや、刺激を欲している生徒たちからの質問攻め。

 ついでに言えば、多分親伝いに耳に入るだろう一樹がこの事でいじってくるだろうと思うと気が重くなる。


 けれどもう一度自分の描いた絵を見ると、少しだけ、「まあ良いか」と言う気持ちにさせられて、


 千絵理は、少しだけ笑って呟いた。


 描いている間ずっと、その歌声で背中を押してくれていたような〝彼女〟への感謝も込めて。


「あーあ。ホント色々と……考えたくないなあ」


                                 了

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