脆弱な糞野郎め、地獄を見よ

神﨑らい

蜘蛛の部屋

 ブドウの粒みたいに膨れた腹は、頭が融合した胸部に繋がっている。二列に並んだ八つの目、奇妙に動く触肢、驚異的な顎と牙。胸から伸びる、わらわらと蠢く四対八本の歩脚。体躯の全てが細やかな毛に覆われ、独特で不気味な模様を放っている。

 あのおぞましさと言ったらない――。

 殺虫剤を噴射すれば、あの長い八本脚をじゅっと縮め、苦しげにもがき出す。でっぷりとした腹を踏み潰せば、水風船が弾けるように黄色い吐瀉物に似た臓器汁が飛び散るのだ。

 思い出しただけで身の毛がよだつようだ。ヤツの存在は視界に入れてはいけないし、記憶から呼び起こすのもいけない。きっと後悔する。解けない警戒は、あなたから永遠に安らぎを奪っていく。



 ああ、なにをしている――私はそう怒鳴り付けた。ヤツを取り逃がすなどあってはならない。絶え間ない焦燥感に冷静さを見失う。私は再び声を張り上げた。

「まだか、まだか、まだなのか――? いい加減にしてくれ! いつになったら仕留めるんだ? この、役立たず――!」

 グズが、ノロマが、尻を拭いたちり紙女め――逆上したままに毒を吐き捨てる。私の憤慨は、この役立たずが事を済ますまで続いた。



 なぜだか私はボロい床で寝入っていた。こんな場所で寝ていたことを焦るより、寝床が悪かったせいで身体が痛いことの方が、先行して私の思考を奪っていた。

 薄く目蓋を持ち上げると、視界の端に黒い影が横切るのが見え、はっと頭部を持ち上げて影の主を探す。蜘蛛だ――私はわっと悲鳴を上げ仰け反った。五センチくらいのアシダカグモだ。まだ小さく幼いそいつにさえ、ぞっと肌が粟立つ。

 幼い頃からこの節足動物だけは苦手なのだ。虫やそれに付随する生物も得意ではないが、こいつだけはどんなに小さかろうと、映像や写真、玩具であっても無理だ。部屋で遭遇した日には、妻がヤツを退治するまで近づけないし、落ち着けない。

 本当に身の毛もよだつおぞましさだ――私は一、二度身震いし、凝り固まった身体を静かに起こす。そっとヤツから距離を置いた。

 一刻も早くこの部屋を立ち去らねばならない。だが、見渡しても見渡しても扉どころか窓の一つもない。明るいグレーのクロスに囲まれた、異質な閉鎖空間だった。ここはどこだ。なぜ、どうやってここへ来たのか、どこから入ったのか検討も付かない。

 おういと声を上げてみる。室内を虚しく反響するだけで誰からの返事もない。ヤツがサササ――っと壁を這った。声を上げたことがいけなかったのか、八つの脚を、蛇腹がのたうつように蠢かせ俊敏に動き回る。堪らず叫んで逃げ惑った。

「誰か――! 誰かいないか! 助けてくれ。ここから出してくれ、頼む――!」

 渾身の力を込め叫んだ。誰か! 誰か、誰か、誰か――何度叫んでも、どれだけ大声を出しても応答はない。

 ヤツの動向を見張っていた目の端に、別な影が動いた。もう堪らなかった。手のひら程の蜘蛛が壁を這っている。私はなす統べなく戦慄するがまま、女みたいな悲鳴を上げて一番遠い壁に背を張り付けた。

 鼓動は変な風に跳ねるし、膝は笑う。情けなくも涙が込み上げそうだった。目を見開いたまま動けず、呼吸を荒くして壁に張り付き続ける。

 ふと、頭上から小さな蠅取蜘蛛が降りてきて、伸ばす糸を私の眼前で止めた。どうして叫ばずにいられようか。一センチ程度でも蜘蛛は蜘蛛だ。私は憐れに身を翻し、転げるように三匹から離れた。

 なんて嘆かわしい――脚が震えすぎて立っていられない。意識をしっかり持っていなければ、ヤツらが私の顔を這うかもしれない。服の中へ入ったらどうする。そんなことがあっては二度と生きて目覚められないだろう。

「助けてくれ。助けて、助けてえ。ユキエはいないか? ユキエ、ユキエ――」

 我ながら素晴らしいビブラートだ。しょんべんを漏らしそうに憐れな声で、必死に妻を呼んだ。情けない男ね――お馴染みの快活な応答はなく、本当に涙が溢れてきた。

 なぜ彼女はいないのだ。亭主の危急に駆け付けない妻など、役立たず以外のなんであろうか――そんな風に胸中で毒づき、不安と苛立ちと恐怖にぐっと奥歯を噛んだ。

 ああ、歯がゆい。近頃の彼女はいつもこうだ。私がこんなにも恐怖に駆られ、苦痛を感じていると言うのに、ヤツの始末に手こずりやがる。ノロノロと重い腰を上げ、ハエたたきを片手に右往左往するのだ。これまでは目を見張るほどの手際のよさで、ヤツの体躯を捕らえていた。ハエたたきや丸めた新聞で、ほんの一瞬だけ風を切り、叩き落とすのだ。脚の一本も外すことなく、絶対に腹を潰したりはしない。落とした八足はサッとちり紙で包み取り、ゴミ箱の奥へと押し込んでいた。

 その頼みの妻は、ちっとも姿を現す素振りを見せない。私は絶望の淵に立たされているのだ。背に腹は代えられない。どんなに情けなかろうが、虚しかろうが、私がすがり付ける相手は妻しかいないのだ。

「ユキエ、頼むから来てくれ――、ユ、キエ――?」

 震える声はそこで止み、縄で首を絞められたように息が詰まった。全身が硬直する。

 私は、指先をハンマーで叩き潰されたくらいに絶叫した。喉を引き裂かんばかりに叫び続け、全身の穴と言う穴から体液を垂れ流した。

 壁に穴が空いていた。壁に穴が空いているのだ。その直径約五センチの穴から、ヤツらがわらわらと湧いている。大きいものになると私の両手を開いて並べたくらいあった。そんな大きなものまでが器用に一本ずつ脚を潜らせ、部屋へと侵入してくる。

「ひいいいいっ――――!」

 恐怖に戦き悶絶する悲鳴をほとばしらせ、私は逃げ惑った。壁を掻きむしりクロスを剥ぐ。爪が弾け飛んでも、幾重もの筋を血で描こうとも、指先の痛みなど取るに足らない。みるみるうちに背後の壁が黒く塗りつぶされていくのだ。カサカサともトントンとも脚音を立て、壁や床、天井までもを這い回る。あのおぞましい生物が、私との間合いを詰め、迫り来ている。

「来るなっ! 来るんじゃない――! 頼む、来ないでくれええエ――っ!」

 瞬く間に、無数の蜘蛛が部屋に溢れた。長い脚を絡め合い、膨れた腹をぶつけて犇めき合っている。私は狂い泣き叫んだ。慟哭の砲口を、血を吐く絶叫を上げ続けた。

 壁を伝い床を這い、逆さになるなども意に介さず間合いを詰めてくる。穴からは水が湧くごとく、わらわらと黒い塊が這い出てきて、サッと離散し私に向かい迫ってきた。

 ひいええっ――と、嘆かわしく悲鳴を上げ、足裏を床に擦り付けて足首をくねらせ、必死にヤツらを足払う。足の踏み場なんてありはしない。もう、堪らなかった。

 蜘蛛同士が擦れ合い、サラサラと不吉な音色を奏でている。天井から雨でも降るかのようにボトボト落ちてくるし、スラックスの繊維に爪を掛け、うぞうぞと脚を這い上がっても来ていた。死に物狂いでそれらを蹴散らし、腕や肩、頭に降ってきたヤツを払い落とす。

「うぎゃあああアアアアア――――っ! うんぎゃあっ! ひぎええいっ!」

 言葉など全て忘れた。私は獣のようによだれを飛ばし、悲痛な絶叫をほとばしらせ暴れた。

 頬を撫でられては、踊るように舞うように乱れ狂って手をバタつかせ、不器用なカエルのように妙な動きで足を踏み鳴らした。床を踏み鳴らす度に数匹の蜘蛛を踏み潰す。初めて気が付いたが、私は靴を履いていなかった。

 足裏の皮膚を通し、繊細な感触が脊髄を流れて脳を突き抜けた。絨毯に皮膚が触れたと思えば、熟れすぎたバナナのようなぐぢゅぐぢゅとした感触と、どろっと溶ける粘液の感触とが一度に訪れる。あまりのおぞましさに身を震わせ、逆の足を踏み締めれば、イチジクを踏み潰したように気色悪い汁が飛んだ。

「ぎぃやああアアアっ! ヤダヤダヤダっ! うわあああああああああああああ――!」

 涙や鼻水、唾液や汗に留まらず、糞尿までもを撒き散らし、降ってくる蜘蛛を叩き落とし、足首の高さまで折り重なり犇めくそれを踏み潰す。髪をまさぐられては、激しく髪を掻き混ぜ頭皮を掻きむしった。

 なぜ私がこんな目に――なぜ、なぜ、なぜ。こんなにも惨い仕打ちを受けなければならないのか。なぜ私が。なぜ蜘蛛なのだ。違う生物であればもう少しはマシだった。こんなにも恐怖に苦痛に絶望を感じずに済んだはずだ。なのに、なぜ蜘蛛なのだ。よりにもよって何故、蜘蛛なのだ――。

「ひぎゃあっ――! ひいっひいっ!」

 私は狂気に悲鳴を上げ、バカになったように乱れ躍り狂った。それしかできなかった。暴れていなければ――じっと耐えるなどできやしない。冷静な対処などできやしない。狂わなければ堪らないのだ。

 スラックスの裾から、襟元から、袖口からヤツらは遠慮なく侵入し、我が物顔で私の素肌に密着する。私の柔らかい肌を爪で掻き、体躯を覆う毛氈で撫で付けてきた。髪の中を這い回り、耳を撫でてはゴショゴショと耐え難い音を奏でる。

 殺してくれ――言葉とはならず、筋肉の収縮により眼球を圧し潰し、鼻血を噴射させた。脳天を突き破る程の、絶望に狂い泣く絶叫を鳴り渡らせ続けるのだった。

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