第11話 ~ 自ら選んで進む未来 (2)~

 携帯電話の呼び出し音が鳴ったので画面を見ると、その日は事務手続きの変更があったのか、事務所からかかってきた電話だった。彼女からの電話だと嬉しいな、と思いながら通話ボタンをタップした。

 「こんにちは、いつもお世話になっております。加賀オフィスの本田と申します。今、お電話大丈夫でしょうか?」

 “彼女からの電話だ!”目の前が嬉しさで明るくなる。興奮して瞳の瞳孔が倍に開いたのだろうな“と、先日の失敗もあったので妙な冷静さも装う。

 「お世話になっております! もちろん大丈夫です」と答えると、電話の用件を伺った。

 いつも通り、淡々と事務処理電話かなあ、と思っていたのだが、以前の彼女の“ザ・事務電話”とは異なり、その日の電話は親しみやすいトーンだったので、単なる事務手続き変更の電話だったにもかかわらず、今までとは全く異なった感じが嬉しくてたまらなかった。


 そんな電話口の彼女の雰囲気を思い出しながら、何かに期待して事務手続きの為に、彼女のいるオフィスに訪れた。もちろん、過度の期待をすれば、期待とは裏腹な対応でショックを少なからずとも受けるかもしれないので、気を引き締めてカウンターに向かう。時間は丁度お昼時、以前にこの時間に訪れたところ、お昼の時間帯だからだろうか、事務所に訪れる人も少ないし事務所にいるスタッフも少ない。何かに期待してはいけないと思いつつも、ついつい期待してしまう。


 「こんにちは」彼女から挨拶をされた。驚いた。

 

 今日の彼女は、柔らかい雰囲気と親しみを持ったトーンで、“ザ・事務手続き”ではない感じだった。

 「こんにちは、本田さん」少しでも彼女に近づきたい、そんな気持ちから挨拶の言葉の後ろに彼女の名前を加えた。

 一瞬、驚いた表情で自分を見る。

 「本田さん? ですよね。いつも事務手続きでお電話いただく」

 「あ、はい」

 「いつも、電話連絡ありがとうございます」

 「いえ、とんでもない」

 そう言うと、彼女は下をうつむいた。

 “そんなに悪い感じじゃないよな? そもそも御礼言っただけだし、失礼にあたることも、ないよな”彼女の反応に気を付けながら、必要書類を彼女に手渡した。

 いつも通りに、彼女は淡々と事務手続き処理を済ませ「こちらが受付控えの書類です」と言って、いくつかの書類をカウンター越しに差し出した。

 書類と一式を彼女の手から受け取る瞬間、互いの手に持つ書類を通して彼女から何かを感じた。書類から顔を見上げて彼女の顔を見ると、彼女も自分を真っすぐ見つめていた。


 全ての時間が止まった。一秒が永遠に感じる瞬間だった。


 “何か言わないと”スローモーションの世界で、スーパーコンピューター以上の速さで思考回路があれこれ巡る。


 「あの、差し支えなかったら、連絡先教えてください」


 ほんの僅かな瞬間の時間だった筈だ。でも、数分、数十分の時が経った時空にいた気分だった。そして、その言葉が、その瞬間に算出されアウトプットされた結果だ。

 だが、神は我を見放した。幸運の女神は微笑まなかったのだ。

運悪く次の順番の人が、カウンターにやってくる。“残念だが、今日もここまでか・・・”そう心の中で嘆くと、彼女が小声で「後ほど戻ってきてもらえますか」、と微かな声を発した、と思う。耳を疑ったが、間違いなく彼女は言った筈だ。何故なら、その言葉を伝えるときの彼女の表情や仕草が脳に記憶され、それが何度も何度もスローモーションで再生され、脳裏へ焼き付けているからだ。


 「あ、はい」と返答をした時、彼女に目に映った自分は、間抜けな表情ではなかったことを祈る。


 後ろに並んだ申請者にカウンターを譲ると、彼女は淡々と次の申請者の事務処理を始めた。何事もなかった様にオフィスを後にし、いつも通り屋外の休憩スペースに置いてある自販機でコーヒーを購入し、休憩コーナーの椅子に腰を掛けた。


 “後からって、いつ行けばいいんだろう”


 オフィスの出入り口は、申請者が出て行ったと思えば、また入って行く。コーヒーを飲みながら暫く見ていたが、人の流れが途切れることがない。自販機で買ったホットコーヒーがすっかりと冷めてしまい、最後の一口は美味しくなかった。腕時計を見ると、午後1時を回っている。

 すると、彼女が建物の裏から回り込む様にしてこちらに向かって歩いて来た。

 椅子から立つと、ほんの数歩、彼女の方に向かって歩き出し、立ち止まった。正面に立つ彼女との距離は2mにも満たない。

 「こんにちは」先ほども挨拶しているのに、彼女に何て声を掛けたらいいか分からなくて、咄嗟に思い付いた言葉が“こんにちは”だった。

 「あ、どうも」そう言って、彼女は会釈をした。

 まあ、場所はオフィス前の休憩スペース、彼女は恐らく遅いお昼休憩で建物の裏から回って、この自販機スペースに来たというシチュエーションなら、“こんにちは”の挨拶も、他人から見れば自然な流れなのかもしれない。と、自分を正当化して元気づけた。

 「あの、本田さん、連絡先交換しませんか?」

 すると彼女は、手に持っている携帯電話の画面をタップして、こちらに見せる。

 「これ、私のメッセージアプリのQRコードです」

 そう言って、携帯電話を差し出してきた。

 「ありがとうございます。じゃあ、読みますね」携帯電話のアプリを開き彼女のQRコードを読み取る。続けて「取り急ぎメッセージおくりますね」といってメッセージを送った。

 『今井俊介です、宜しくお願いします』すると、彼女からの返事も直ぐに来た。

 『本田結衣です。よろしくお願いします』

 嬉しさで、顔の筋肉が緩んでニヤけてしまう。

 「本田結衣さんって言うんですね? 連絡先交換してくれてありがとうございました」そう言うと、彼女はいいえと短く返事をした。緊張で場が持たない。

 「えっと、仕事のスケジュールがあるので、行きますね」

 すると彼女は、申し訳なさそうな表情をして「ごめんなさい、待たせてしまって」と謝って来た。

 「あ、気にしないでください。時間には余裕あるので、全く問題ありませんから」それじゃあ、と会釈すると、車を停めてある駐車場の方へ向かった。本当は、この後にスケジュールは何もない。

 車に乗り込むと、携帯電話のアプリを開き直ぐにメッセージを打った。

 『本当に気にしないでくださいね。それよりも、連絡先交換してくれて有難うございました。それだけでも、待っていた甲斐があります!』一瞬、“待っていた、なんて言ったら、嫌味っぽいかな”と気になったが、他に思い付く気の利いた言葉が見つからなかったので送信した。と、同時に彼女からのメッセージも入って来た。

 『本当に待たせてしまって、すみませんでした。次の予定ありますものね、気が利かなくて申し訳ありません』

 貰ったメッセージを読んで、その場での誤魔化しとはいえ嘘をついたことに胸が痛んだが、あの場を離れるには妥当な理由ろうと思い直し、車を走らせた。



 その日のことは、彼女の連絡先を貰いメッセージで改めて自己紹介できた嬉しさで一杯だったことを、今でも鮮明に覚えている。



 それから、彼女とメッセージの遣り取りが始まった。直ぐにでもお茶でも飲みに行きませんか?とか、誘い出したかったのだが、何故か彼女から深く踏み込んでくることがなく、何かを閉ざしている様な感じがするので誘う様な雰囲気になれなかった。二人の間の会話は、もっぱら何てことない趣味の話や、ここ最近で観たい映画や小説など、当たり障りのない話題が中心だった。

 ”何がダメなのかな、どうして彼女との距離を縮めることができないのだろう?“

 彼女と連絡先を交換し、お互いに少しずつ距離を近づけていると思っていたが、何かが突っかかり前進できずにいた。


 そんな遣り取りでも、何故か会話は飽きることが無く続いた。彼女とのメッセージで、一つだけ分かることがある。少なくとも、彼女は自分を気にかけてくれている。好意的に思っているかもしれない。彼女からのメッセージには、そんな想いが何となく伝わってくるからだ。

 そんなある日のメッセージも、いつもと同じように『最近みた映画で、時間と空間のトリックを描いたSF映画があって、すっごく面白かったから時間がある時にでも観て、おススメの映画です』などと映画の話をしていた。

 それがいつからか、映画の未来的な話から自分たちの将来的な話にすり替わっていた。

 『今井さんは、いままで付き合った人で”結婚“とか意識したことなかったの?』

 過去の出て行った彼女のことがフラッシュバックして、気持ちが少し沈んだ。話すべきか迷ったけど、もし彼女とこのまま関係を近づけて続くようなら、いずれ分かることかも知れないし、それが今なのかもしれない、そう思って彼女と話を続けた。

 『あるよ。以前付き合っていた彼女と、そういう未来も考えていたけど、踏み切れずにいたんだ』

 『それで、その彼女とは別れたの?』

 ズバリ追及されたくないところを、彼女が質問してきた。やはり女性は感が鋭い生き物なのだろうか。

 『うん、まあ、そういうことになるかな。結局、煮え切れなかった自分の気持ちに彼女は不安を覚えたのかもしれない』

 『なんで、その時、彼女さんを引き留めなかったの?』

 『引き留められなかったからかな。彼女に結婚というキーワードを突きつけられた 時、仕事を言い訳に逃げてしまった自分がいたから』

 彼女の既読マークがつく。それまでテンポよく会話をしていたのだが、急に彼女からのメッセージが来なくなって会話が途切れた。

 “何か不味いこと言ってしまったかな。それは、あくまでも以前の自分のことであって、今の自分は異なるのだが・・・・。誤解させてしまっただろうか。言い訳した方がいいかな・・・・”

 時計を見ると、時刻はまだ大人が寝る様な時間ではない。寝てしまったってことはないよな。

 『男の人って、みんなそうなのかな』

 最後にメッセージを送ってから1時間後に彼女からのメッセージが再び送られてきた。彼女も似たような境遇があるのだろうか、ふと確認してみたくなった。

 『本田さんも、同じようなことがあったの?』


 テーブルに置いてある、すっかりと冷めたコーヒーを飲む。あの日の冷めたコーヒーとは異なり、カップに残っていたコーヒーを一気に飲み干したが、何の味も感じられなかった。


 彼女には付き合っている人がいて、そして、その彼との将来に不安を持っているということだった。付き合って3年の恋人だが、結婚のことで意見が合わないらしい。

彼女の話を聞いていて、複雑な気持ちだった。一つ目は、彼女には恋人がいるということ。二つ目は、彼女の今の境遇が昔の自分の状況とオーバーラップしたことだった。彼女とメッセージをしていて、急に切なさがこみ上げてきた。

 『そっか、そうなんだ』

 『あの、なんかごめんなさい。今まで黙っていて』

 『付き合っていた人のこと? あやまらないで、本田さんが悪いわけではないから。自分が訊かなかったってこともあるし』

 それは事実だ。ろくに確認もしていない自分が悪い。勝手に盛り上がっていたのも自分だし・・・。


 彼女は再び、ポツリポツリと今の気持ちを話し始めた。


 『恋人の彼、仕事で忙しいから、今は色々と彼に訊くのは遠慮しているってこと?』

 彼女は、彼との将来については、今は喧嘩にもなりたくないから我慢することにしたらしい。

 『あのさ、それって彼の負担にならない様に思って、彼の状況が落ち着くのを待っているってことだよね』

 『うん。いつか、彼も落ち着くと思うから、その時まで待てばいいのかなって・・・・』

 どうかな、果たして状況は変わるのだろうか。男性だから何となくわかることもある。恐らく彼は変わらない。

 『でも、』そう言いかけたメッセージを送ってきた彼女は、恐らく彼が変わらないことを薄々と気づいているのだろう。

 『もうずっと待っているから、もうこれ以上待つのは無理かな・・・彼は真剣に考えてくれていないのかもしれない』彼女のメッセージ通りだろう。幾らでも似た様な話はある。

 『どうかな?彼氏さんともっと話すべきだと思うけど』良い人ぶってメッセージを彼女に送った。

 彼女とメッセージをしていて、昔の自分を思い出し、彼女に寄り添い励ましてあげたいと思う反面、彼と別れさせて自分に振り向かせたいというジレンマに陥る。自分でも、何がしたいのかよく分からない。

 だが、彼女と麻美は違う。彼女はかつての自分の恋人ではない。だから、結衣と麻美をオーバーラップさせて、彼女の困難を応援し、彼とのゴールインを後押しするキューピット役になるのはごめんだ。

 因果応報とは、こういうことを言うのだろうか。過去の自分を呪った。

 その日、最後に自分が送ったメッセージに対して、彼女からの返答はなかった。既読マークだけがついているだけで、その翌日も、彼女からのメッセージはなかった。

だから、敢えて自分からも何もメッセージを送らなかった。



 翌々日に、いつも通りの日常ルーチンワークで、オフィスに行って彼女に事務手続きの書類を渡した。あんなメッセージを遣り取りした後だったこともあり、お互い少しぎこちない感じだった。

 「大丈夫?」そっと彼女に小声で声をかけてみた。

 「大丈夫です。すみません、なんか、迷惑でしたよね・・・。ごめんなさい」

 そう言って、彼女は笑顔を見せるが、瞳の奥は悲しさを堪えているように思えた。

 そんな表情を見せられると、切なくて、彼女を見ていたら堪らず、


 「僕ではダメですか? 僕があなたを護るから、それじゃダメですか」


 彼女を真っすぐ見つめて、彼女の心の奥深くまで届くよう願いながら、彼女に訴えた。

 周りに人はいたが、彼女だけに聞こえるように、この想いを伝えた。

 

 彼女の顔から笑顔が消えた。書類を整理している彼女の手が震えていた。


 「こちらが受付書類です。ありがとうございました」


 彼女は書類をカウンターの上に並べて置いた。すると、自分の顔を見ることなくオフィスの奥の方へと行ってしまった。

 その瞬間、今まで聞こえていた周りの音が静まり、自分の鼓動だけが鳴り響く世界に飛んだ。

 誤ったことを口に出して言ってしまったのだろうか。直ぐに後悔をした。

 ただ、その時を境に、彼女を想う気持ちが理性の境界線を越えて溢れだし、彼女を彼から奪いたいという気持ちを初めて強く抱いた。


 それから、彼女と連絡を取ることはなかった。自分からも、彼女に何をこれ以上言ったらいいのか分からず、連絡が取りづらい気持ちでいた。

 そんな状況だからだろうか、時々、別れた彼女のことを思い出していた。今なら、当時の彼女の気持ちが分かる気がした。

 相手に追いかけられ、相手に愛を尽くされる恋愛は楽だ。そして、愛されている方は、それに気づかない自己都合ばかりに目が行ってしまうのかもしれない。

今の自分は、彼女を追いかけている。彼女ためなら、という自己犠牲も厭わない。今の彼女が、それを気づかせてくれた。と、同時に、前の彼女には、何だか申し訳ない気持ちになってしまう。もし、いつかどこかで会えるなら、あの時のことを謝りたい。

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