好きの矢印

砂鳥はと子

第1話 変化



 妹に嫌われているような気がする。去年の夏にできた一つ年下の血の繋がらない妹から、私は嫌われている。共に暮らして一年近くも過ぎたというのに。


 私の義妹いもうと杏奈あんなは母の再婚相手である義父の連れ子だった。


 すれたところのない、おとなしそうな優等生。それが初めて杏奈に会った時に抱いた印象。


 杏奈は親の再婚には特に反対というわけでもなく、受け入れてるように私には思えた。


 何とか母と私を家族として迎え入れてくれたのだろうとほっとしたものだけど、それは表面的なものだった。母とは上手くやっているので、杏奈が嫌いなのは私だけ。


 私の方が年上なのに、いつも杏奈の顔色を伺っている。これ以上嫌われたくないから。きっとそんな私の姿も、彼女からしたら鬱陶しいのだろう。


 杏奈が私だけを嫌う本当の理由は分からないけれど、彼女の感情を逆なでしているらしいことだけは悲しいけど伝わって来る。


 両親の帰りが遅い日は私がご飯を作ることがある。母が作り置きしていれば二人でそれを食べるけど、私が作ると三回に一回は拒否される。私にとって目下の憂鬱案件の一つだった。


「杏奈ちゃん、ご飯できたよ」


 また今日も断られるのかとびくびくしながら、私は杏奈の部屋の扉をノックした。


 返事がないので、私はまた呼びかけようか、ノックしようとして手が止まる。


 嫌な顔をした杏奈が浮かんだ。上げた腕が自然と下がる。扉の前でおろおろしている自分が情けない。


「何?」


 ふいに扉が開いて、私はびっくりして後退あとずさった。わずかな扉の隙間から、杏奈の感情が読めない目が私を見ている。


「ご飯できたけど、食べる?」


「⋯⋯⋯⋯」


 うんともすんとも発しないまま杏奈は部屋から出て来ると、私のことなど見えてないかのように、すたすたと居間に向かってしまう。取り敢えず、食べてはくれそうで緊張していた体から、ふっと力が抜けた。


 杏奈は居間のテーブルにつくと、やはり特に何を言うでもなく無言のまま箸を取った。


 私は着けていたエプロンを慌てて外して椅子の背もたれにかけると、杏奈の向かいに座った。


「いただきます」


 私は手を合わせて、食べ始める。


 杏奈は黙々と私が作ったハンバーグを口に運ぶ。


「あのね、杏奈ちゃん。お義父とうさんからね、杏奈ちゃんはハンバーグが好きだって聞いて。特におろしポン酢のソースが好きなんだよね? だからね、作ってみたんだけど、どうかな?」


 杏奈はこちらも見ず、皿に目線を落としたまま、ハンバーグを一口サイズに切り分ける。


「けっこう自分としては上手く作れたかなって思ってて⋯⋯」


 空いた間を埋めるために私は矢継ぎ早に言葉を発する。


「この間バイトしてる書店でレシピ本買ってね、他にも杏奈ちゃんが好きなおかず作れたらいいなって⋯⋯」


 杏奈はすっと顔を上げると、涼し気な瞳を私に向ける。少し怒っているようにも見えるし、呆れているようにも見えるし、何も思うことがなさそうでもある。


「⋯⋯うるさくて夕飯に集中できないんだけど」


 ぼそりと杏奈が呟くと、つけっぱなしの居間のテレビからどっと笑い声が上がる。


 何だか駄目な自分を嘲笑われたみたいで、途端に恥ずかしさが込み上げた。


「ごめんね杏奈ちゃん。そうだよね。うるさかったよね」


 こちらをちらりと一瞥した杏奈は、つまらなそうな顔のまま食事を再開する。私も黙々と食べるしかない。


 こうして夕飯を食べてくれても、話が弾むこともなく、ただ沈黙だけが夜の海のように横たわるだけ。


 いらない、と突っぱねられるよりはマシだけれど。


 先に食べ終えた杏奈は食器を片付けると部屋に籠もってしまった。私は重苦しいため息を一つ吐き出して、テレビから流れて来る歌を聞きながら食器を洗う。


 杏奈は母や義父がいれば家事を手伝ってくれるけど、二人きりだと何もしてくれない。 


(私と二人でいるのが嫌なのかも)


 せっかく親の縁で姉妹になったのだから、もっと仲良くなりたい。けれどそんな気持ちを抱いているのは私だけ。


 そう思うと寂しくて、自然と涙が溢れてきた。私は服の袖で涙を拭うと、食器を洗うことだけに意識を向けた。

 

 


 私と杏奈は同じ学校に通っている。私のことが嫌いなわりに、杏奈は何故か同じ高校を選んで受験した。今年の春から学校では先輩後輩としても過ごしている。


 とは言っても杏奈は私と姉妹になったことを知られたくないらしい。親が再婚したということも隠しておきたいようだった。


 杏奈は名字が変わらないので、上手いことやれば友だちにはばれないだろう。


 私の名字は乃木のぎから吉田よしだに変わった。


 これが逆だったら姉妹と勘付かれたかもしれないが、幸いありふれた名字になったせいか、口外しなければ気づかれることもなかった。


 杏奈に避けられているので、校内でたまたま遭遇しない限り顔を合わせることもない。一年生と二年生の校舎も別なので、滅多に会うこともなかった。


 もちろん登下校だって一緒にはしない。


「杏奈ちゃん、一緒に学校行こうか?」


 そう誘ったこともあるけれど、

「何で? ありえない」とにべなく返されて終わった。


 だから朝が来て家を揃って出た後は、別々に学校へ向かう。お互い自転車通学だが、同じルートを走ることはない。


 朝、いつものように私はマンションの駐輪場へ行き、杏奈が走り去ったのを見届けたところで自転車を出す。


 杏奈が向ったのとは違う道へ進み学校へとこぎ出した。


 雨の日なんかはバス通学に切り替わるけれど、そんな日の杏奈は一足先に家を出てバスの時間をずらす。


 いつだって私たちの時間は重ならない。


花音かのんー!」 


 家を出て四つ目の信号で青に変わるのを待っていると、同じ中学出身の綾美あやみたきくんに遭遇した。二人は中学時代から交際していて、高二なった今でも仲良しだ。


「花音相変わらず一人で登校してるんだね。友だちいないの?」


 綾美は付き合いの長い気楽さで胸にぐさりと来るようなことを言う。


「失礼な。別にいいでしょ」


「いやいや、誰かと待ち合わせしてるんだろ。ほら、なぁ? 俺ら邪魔かも」


 滝くんが気遣わしげな顔をしている。私も彼氏がいて隠れて一緒に登校してると変な勘違いをしているらしい。


「誰とも待ち合わせしてないよ。邪魔でもないから」


 私は慌てて否定しながら、本当はいつか杏奈と行ける日のために、あえて一人で登校しているのだとは言えない。


 何となく三人で学校へ行くことになった。学校へと続く坂道に差し掛かり、私たちは自転車を押しながら歩いた。


「そう言えば花音、妹ちゃんとは仲良くやってる?」


「えっ、妹? あー、うん。まあまあ」


 綾美と滝くんには私に妹ができた話はしている。ただその妹が同じ学校であることは話していない。


「まあまあって、頼りないなぁ」


「仲が悪いってわけではないから」


 何とも嘘くさい台詞を吐いてしまった。だけど本当のことを話すわけにもいかないし、表では程よく仲良し姉妹ってことにしておきたい。


 学校に着いて私たちは校舎の北側にある駐輪場へ自転車を停めに行く。

           

 停めて鍵を抜いたその時だった。珍しくこんな時間にスマホから着信音が鳴る。


「電話?」


 私のリュックに目をやりながら綾美が聞く。スマホを見ると母から電話だ。


「二人とも先に行ってて」


 綾美と滝くんに断り、私は何事かと慌てて出る。


「もしもし、お母さん。何? 何かあった?」


『花音、いきなりごめんね。杏奈ちゃんがお弁当持っていくの忘れてて』


「え、お弁当を!?」


 今日のお弁当は私が作ったものだ。


 わざと持って行かなかったような気がして、胸のあたりが変にざわざわとする。


『さっき杏奈ちゃんに電話したんだけど、電源切ってるみたいで。あの子お財布持って行ってるのかしら? お母さんこれから仕事でそっちに持って行けないし、もし杏奈ちゃんがお金持ってなかったら、何か買ってあげて』


 うちの学校には購買もあるし、学校の側にコンビニもある。お弁当を忘れてもお金さえあればお昼の調達は可能だった。


「財布持って来てるかは分かんない。取り敢えず聞いてみるね」


 朝からこうして試練が増えてしまった。


 避けられている杏奈に会って確認しなくては。


 私は小走りで昇降口まで行き、杏奈のクラスがある校舎まで向った。どこか寄り道していなければ、私より先に学校に着いているはず。


 杏奈のクラスである一年三組の教室まで来た。後ろの出入り口から中を伺う。杏奈は窓際の最後部の席にいて、すぐに見つかった。リュックから教科書を出して机にしまっているところだ。


 さて、どうやって声をかけようか迷う。


 絶対杏奈に嫌な顔をされるのは分かっているから。何とか視線で気づいてくれないかと、杏奈の横顔を穴が空けられそうなくらい見つめる。それが伝わったのか、杏奈がこちらへ振り向いた。目が合う。杏奈が息を飲むのが分かった。途端に顔を真っ赤にして、私のところへ来ると腕を掴まれて廊下の奥へと引っ張られる。


「どういうつもり!?」


 非難の目をした杏奈に睨まれる。


「ごめん、あの、さっきお母さんから電話があって⋯⋯、杏奈ちゃんお弁当忘れてない?」


「お弁当⋯⋯? で、忘れてたとしてそれが何? いちいち私のところに来るようなこと!?」


「杏奈ちゃんスマホの電源切ってるみたいだったから。ほら、忘れてたらお昼なくなっちゃうし。お母さんが杏奈ちゃんお財布持ってなかったらって心配してて」


 杏奈は雑に私の手を離すと踵を返して教室へと足早に去ってしまった。

 どうしようと、私は少し逡巡してからまた一年三組の教室まで行く。杏奈はリュックの中をまさぐっている。かと思いきやそのリュックを引っ掴んで教室を出て来た。私の前を素通りして、階段を降りて行く。


「待って」


 私は急いで後を追いかけた。


 昇降口は登校して来た生徒たちで賑わっている。そこを逆走し杏奈は靴に履き替えると外へ飛び出す。私も上履きから靴に履き替え後を追った。


 駐輪場でやっと杏奈に追いつく。


「⋯⋯杏奈ちゃん、待って。どこ行くの?」


「何でついて来るの? お弁当を取りに戻るの。見て分かんないわけ?」


「取りに戻ったら遅刻になっちゃう。お金持って来てない? 私あるから貸すよ」


 私は背負っていたリュックをおろして財布を取り出そうとするけど、杏奈は自転車に鍵を差している。


「お金なら持ってるからいらない」


「えっ、持ってる?」


 私は事態が把握できなくて、体が止まる。お金があるならお弁当を取りに戻る必要はない。

 

「そこどいて、邪魔」


 杏奈はエメラルドグリーンの自転車で私を押しのけるようにして通路に出した。

 

「家に戻らなくてもコンビニや購買で買えば⋯⋯」


「コンビニ高いし、購買混むから。それに⋯⋯」 


「それに?」


「⋯⋯玉子焼き」


 聞こえるか聞こえないかの小さな声で杏奈は呟くと、自転車に跨り私の制止を振り切ると走り去ってしまった。


 玉子焼き。私が今朝お弁当用に作った。


『杏奈ちゃん、お弁当に入れて欲しいおかずある?』


 家族のいる前なら杏奈は私を無視しない。だから今朝珍しく家族四人が揃ってるタイミングでそれを聞いた。


『⋯⋯特には』


 だけど返答は相変わらずそっけない。


『杏奈ちゃん、遠慮しなくてもいいのよ。花音は料理得意だし、何でもリクエストしていいんだから』


『せっかく花音ちゃんが作ってくれるんだから、何かお願いしてみたらどうだ、杏奈』


 母と義父が後押しする。


『⋯⋯じゃあ、玉子焼き。⋯⋯玉子焼きがいいかな。だし巻きの』


 杏奈は私を探るように目を見て言う。


『分かった。任せて』


 私は笑顔を向ける。


 だし巻きの玉子焼きは以前、母に教えてもらって作ったことがある。難しい食べ物でないことに、私は胸を撫でおろした。


 こんなことくらいで今更杏奈の心象がよくなるということはないだろう。それでもちゃんと私に作ってほしいものを選んで答えてくれた。


 朝から私は張り切って玉子焼きを作った。少しでも杏奈に喜んでもらいたくて。


(玉子焼き食べたいって思ってくれてた⋯⋯?)


 さっきわざとお弁当を忘れたなんて考えてしまった自分が嫌になる。


 私は昇降口に戻って、隅で杏奈が戻るのを待つことにした。


 次々と生徒たちが私の横を通り過ぎてゆく。


「あれ、花音誰か待ってるの?」


 クラスメイトたちに声をかけられる。


「まぁ、ちょっとね」


「何、何? 彼氏と密会か?」


「花音いつの間に彼氏なんてできたの?」


「全然そんなんじゃないから!」


 からかうクラスメイトに苦笑して、私は生徒がだんだんと減ってもその場に立っていた。


 朝のホームルームが終わりそうな頃合いになって杏奈は姿を表した。息を切らしながらこちらへ走って来る。


「杏奈ちゃん! よかった。戻って来なかったらどうしようかと思っちゃった」


「何でいるわけ?」


「そんなの、杏奈ちゃんを待ってたからに決まってるでしょ」


「⋯⋯バカじゃないの」


「うん。そうかも。お弁当あった?」


「⋯⋯あったけど」


「そっか。ありがとうね。お弁当取りに行ってくれて。無駄にならなくてよかった」


「⋯⋯食べ物を粗末にするとバチが当たるから。おばあちゃんの教え守っただけ」


 杏奈はどこか照れくさそうな顔をして先に校舎へ入ってしまった。私も慌ててついて行く。


 私はつんけんされても、杏奈がしてくれた行動が嬉しくて、心の中に温かな空気が流れ込む。自然と口の端がゆるんだ。


「杏奈ちゃん、優しいね」 


 そんな私を見て杏奈は呆れた視線をよこす。


「ニヤニヤしないでよ。気持ち悪い」


「えへへ、ごめんごめん」


 少しだけ、それは本当に少しかもしれないけれど、杏奈と距離が縮まったような気がした。

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