空を見上げて②
4月1日、コンクリートジャングルの長崎に転勤して初めて出勤したのはいいのですが、当たり前のことかもしれませんがなんだか違和感のある、なじめない一日でした。仕事以前に、文房具がどこにあるかとか、昼ご飯はどうやって頼むのかも知らず、ファックスやコピー機にも慣れないで身動きとれない状態の僕の周りを、慣れた人たちが入れ替わり立ち替わり僕よりも明らかに一段階速いテンポで動き回り、軽快なやりとりをしながら、時にはその中に笑いを交えながら業務をこなしているのを見るにつけ、トレンディードラマの第一話目の短い時間で登場人物を無理矢理全員紹介し尽くそうとしているオフィスのシーンを見て、結局なんにも覚えられないでいるような気持ちになりました。
何もしていないくせにとりあえず疲れて定時に職場を後にしました。 駅前の施設に寄りました。
そこで本を買い、その後家に帰ろうと高架広場を渡って反対側に出ると、国道沿いに『西坂公園(二十六聖人)』と書かれた案内が見えました。僕は長崎に長く住んでいたわりにはよく考えたらグラバー園も行ったこともなければこの二十六聖人も見たことがない。これから何年か再び長崎に住むようになったこの機会にいろいろ訪ねてみよう。このまま家に帰っても長崎の初日としては物足りないし、とりあえずちょっと寄ってみようかな。ふと思いました。
長崎駅前の国道の喧噪からほんのちょっと坂を上って中に入っただけで、ほどよく遠くに都会の光が見えて、さらに反対側を向いて見上げてみれば緑濃い森の上にきれいな星空がありました。翌々日には人生の節目ともとれる三十歳になる身でもあり、景色を見つつ少々感傷に浸りながら歩いていました。
こんな静かな一角があったのか。西坂公園、知らなかった。やっぱり寄ってみるものだな。そう思いながら公園の隅っこにこの公園の歴史についての説明書きのある看板があったので今度は立ち止まって読んでいました。
「ご旅行ですか?」
初老の男性が僕に話しかけてきました。
「え、あ、はい。そうです。」
旅行ではなく、なんとなく寄ってみただけとは説明するのが面倒くさかったので生返事をしていました。
「どちらから?」
しまったと思いながら、思わずとりつくろって学生時代に住んでいて知っていた地名をとっさに挙げました。
「神戸からです。」
「へぇー、実は私も神戸出身なんですよ。今は長崎に住んでいるけど。神戸はどちら?」
「灘区です。」
「へぇー、私もなんです。灘区のどこらへん?」
「んーと、六甲道駅の近くだったですけど。」
「へぇーっ。結構近くね。ほら、あそこに黄色い看板のラーメン屋さん見えるでしょ。あそこの主人も神戸出身よ。同じ同じ。すごいでしょ。ところででもあなたは神戸からなのにイントネーションは九州ですね。」
しまったと思いながら、さらに嘘を塗り固めてとりつくろって、
「まあ、今は神戸ですけどもともと九州だからでしょうかね。」
「九州はどこ?」
「あのー、じゃあ佐世保です。」
「佐世保はどこ?」
「えーっと、昔なんでよく分からないんですけど、矢峰の方。」
またもやとりつくろって一昨日まで住んでいたところをさも昔のように言ってみました。
「本当?僕もそこすごい近くなんだよ。すごいなあ、こんな偶然初めてだ!」
無理矢理手を取られて握手させられました。なんで握手しないといけないのかよく分かりませんでした。ふと気がついたらいつの間にか体は引き寄せられたか向こうが寄ってきたのか分からないうちに僕は男に抱きしめられていました。後で考えてみればとても手慣れた感じだったなと思います。
「いやー、すごいすごい。すごい偶然だ。あのー、せっかくの機会ですから、ドライブ行きませんか?公園のすぐ下に車置いているんですよ。平和公園とか見たことないでしょ。あそこは夜は格別よ。」
よく考えたらこっちが言ったことにうんうん話を合わせているだけだし、ラーメン屋さんが本当に出身地が一緒なのかどうかは全く保証がない。何ですぐそばに車を置いているのかも分からないし、何よりもそこまでされる理由もないのに抱きしめられているし抱きしめ方は初老の男のイメージに比べて異常に力が強いしこれは様子が変だ。夜は格別よってそんなこと別にどうでもいいし、または意味の取り方次第ではどうでもよくないし、とにかくドライブはうまく断らなければ。そう思いました。
そう考えているうちに男の片方の手が僕のお尻をぐっと握り、なんだか揉んでる感じになってきました。その手を阻止しようと必死にお尻に力を入れました。男はそれでも手を止めませんでした。今考えれば手を使って阻止すればよかったなと思います。しかしあわてて冷静な気持ちを失っていたのと、両方の二の腕をがっちりかためられていたため気が回りませんでした。僕の斜め下にある顔がはぁはぁ言っていました。抱きしめられたままそっと視線だけを動かしてその表情を見てみました。おそろしいほど気持ち悪い形相が見えました。冗談ではない、いよいよだと思い、 「いや、いいです。行きません行きません。」
と言って一生懸命体を動かしやっとの事で異常に強い男の抱擁を振りほどきました。そのときもよく考えれば手も使えばよかったのに体をくねくねさせて振りほどきました。
「なんでよ。行こうよ。いいじゃない!」
男はむきになった変な言葉遣いで言いました。迫力にひるんでしまい、思わず、
「あの、いや、まだ泊まるところ探さないといけないから。ドライブ、行けないです。」
こんな目にあっていてもまたとりつくろったことを言ってしまいました。
「ドライブしながら探そうよ!」
また男が迫ってきたので一生懸命手で振りほどきながら、
「あ、JR九州ホテルがある。あそこに行ってみることにします。近いから車いらないです。じゃ、ちょっと行って来まーす。」
とまたまたとりつくろったことを言って、一瞬の隙を見て一目散に走って男を振りきりました。 諏訪神社の近くまで走り続け、ここまで来れば大丈夫だろうと思いました。 趣味が異なる男性に言い寄られたようだ。なんでこんなひどい目に遭わなければいけないんだとがっくり来ているところでふと携帯電話を見るとメールの着信がありました。昨日まで佐世保の職場で一緒だった、同じ階の隣の課だった同期からでした。 『今、長崎来ているんですけど。』 やっぱりこういうときに頼るべきは友達だ。この沈んだ気持ちを一緒に会って聞いてもらおう。すかさず返事のメールを打ちました。 『今どこ?何で来てる?』 帰ってきた返事に希望は打ち砕かれました。 『いや、エイプリル・フールなのでちょっと送ってみただけなのでそんな普通の反応されても。なんか長崎行って面白くなくなりましたね。』
ここで今敢えて一発いたずらをかまさなくてもいいじゃん。なんだか悲しくなってあっという間に目に涙が溜まってこぼれそうになり、年甲斐もなく泣いては駄目だと思って思わず夜空の方を見上げてしまいました。
その二十七時間後、男に抱きしめられた気持ち悪い感触が忘れられないまま、沈んだ気持ちで人生の節目を迎えました。
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