恋は軟体動物
「魚の名前をできるだけたくさん書いてみてください。今から一分。はい、スタート。」
小学校五年の理科の時間でした。みんな一生懸命ノートに知っている限りの魚の名前を書き始めました。みんな最初は勢いよく書くのですが、徐々に鉛筆が止まり始め、あとは思い出し思い出し、少しずつしか書けない様子でした。僕は九つ書けました。
「はい、やめ。一分たちました。それじゃあ、何個書けたかきいてみようかな。はい、みんな起立。」
みんな立ちました。
「まずは、一つも書けなかった人、座って。」
いくらなんでもそんな人いないよ、とみんながどっと笑いました。誰も座りませんでした。
「じゃあ、次は、一つの人、座って。いない?じゃあ二つの人?三つの人?」
まだ座る人はいませんでした。先生はひとつずつ数を増やして聞いていきました。
「じゃあ、七つの人?」
何人かが初めて座りました。僕は九つ。いくらなんでも七つは少なすぎだろうに。ニヤリ。僕は優越感のあまり思わずいやらしい笑顔になり、座った人を立った目線から見下ろしまいました。
「八つの人?」
さらに何人かが座りました。また僕はいやらしい笑顔をしてしまいました。
「九つの人?」
僕を含めて多くの人が座りました。僕が一生懸命魚の名前を思い出した限り、世の中にはこれ以上魚はいないはずでした。だからみんなで座って終わりのはずでした。しかし、驚くべきことに、男の子三人に女の子一人、四人もまだ立っている人がいました。女の子は僕の席の左斜め後ろの子でした。先生は続けました。
「十個の人?」
誰も座りません。
「十一個の人?十二個の人?」
十二個で男の子二人が、十三個で男の子一人が座り、結局十四個で一番になったのは女の子でした。みんなへぇーっと感心しました。
「じゃあ、一番の人に魚の名前を聞いてみましょう。」
斜め後ろの女の子は自分のノートを読み始めました。
「サメ、タイ、サンマ、イワシ、・・・」
先生は女の子が読み上げた魚の種類を黒板に書いていきました。女の子は読み上げ続けます。
「・・・タコ、イカ・・・」
女の子がタコ、イカと言った時点でクラス中からざわめきが起こりました。タコとイカは魚ではないのではというざわめきでした。そして、もちろん、一つの僅差で女の子に敗れた男の子は黙っていませんでした。
「はいはいはい!先生!おかしいです!意見があります!」
女の子が読み上げている最中に立ち上がったうえに挙手して先生に猛烈にアピールしました。先生は、
「こら、意見はあとで聞くから、ちょっと待て。座れ。す、わ、れ。」
と言って彼を抑えました。女の子が魚の名前を全部言い終わって、先生も黒板に書き上げてから、先生はちゃんと座った彼をあらためて当て、発言の機会を与えました。男の子は興奮気味に言いました。
「タコとイカは魚じゃないと思います。」
「そうでーす。」
クラスのみんなも同意しました。女の子は困った様子でした。先生は訊きました。
「今、タコとイカは魚じゃないと言う意見がありました。では、誰か反対の意見ありませんか。」
誰も手を挙げませんでした。女の子はしょんぼりしていました。男の子は勝ち誇った顔をしていました。そのとき、なんだか、僕は思わず手を挙げました。
「お、意見ある。」
先生に当てられました。もう、後には引けませんでした。今、当時のことを思い返してみても、そんな行動に出てしまった理由のうち、女の子を助けようと思ったからというのは一割かそれ以下だったと思います。僕は今でも過去でも、そんな困っている人を助けきれる人間ではありません。理由の九割かそれ以上が、実は自分も、タコとイカと書いていたからでした。しかも、僕の場合、タコとイカを引くと、さっきまで見下していた、ビリの七つになってしまいます。しかも後で実はビリだったということが分かるのはとても格好悪いことです。そういうわけで、追い詰められてつい手を挙げてしまったのでした。
震えながら僕は立って意見を言い始めました。
「タ、タコとイカは魚だと思います。だ、だって、魚屋に売っていて、それと、刺身にします。」
クラスからは何の反応もありませんでした。先生はちょっと間をあけて、
「じゃあ、今の意見に賛成の人手を挙げてください。」
と、言いました。僕は教室を見回しましたが、誰も手を挙げていませんでした。びっくりしたのは、左斜め後ろの女の子も手を挙げていませんでした。先生は、誰も手を挙げておらず、挙げようとしている人もいないことを、じっくりと確認したうえで、
「どうやらほとんどの人がちゃんと知っているみたいですね。中学校で詳しく習うのですが、タコとイカは、軟体動物と言って、魚ではありません。」
と言って、黄色のチョークで、黒板の「タコ」と「イカ」に大きく丸で囲みました。バツをしないところが、優しさなのかな、今考えてみると。
授業で恥をかいただけでは終わりませんでした。どこのクラスにもでしゃばりな女の子はいるものですが、やはり僕のクラスにも、絵に描いたようなでしゃばりな女の子がいて、休み時間、女の子の隣りの席に、座ってきました。でしゃばり女は背中を向けて座っている僕にわざと聞こえるように、大きな声で、女の子に向かって話し始めました。
「ねえねえ、あいつ、あんたの好きなんじゃないの?たった一人で助けようとするなんて。絶対そうよ。ねえ、どう思う?好き?」
振り向いて、文句を言ってやりたかったのですが、なんて言ってやればいいのか言葉が思いつかないまま振り向く一瞬のタイミングを逃してしまい、結局、振り向ききれませんでした。かといって、逃げるようなのでその場を立ち去りも出来ず、聞こえているのに聞こえていない振りをしなければいけない、とても中途半端な状況になりました。
その問いかけに対して彼女は、でしゃばり女の大きな声で気を引いたクラスメート全てに説明がつくように、同じくらいかそれ以上の大きな声で叫ぶように言いました。
「あんなの好きなわけないじゃない!魚屋?刺身?バッカじゃないの?」
振り向いて、文句を言ってやりたかったのですが、なんて言ってやればいいのか言葉が思いつかないまま振り向く一瞬のタイミングを逃してしまい、結局、振り向ききれませんでした。かといって、逃げるようなのでその場を立ち去りも出来ず、聞こえているのに聞こえていない振りをしなければいけない、とても中途半端な状況になりました。その問いかけに対して彼女は、でしゃばり女の大きな声で気を引いたクラスメート全てに説明がつくように、同じくらいかそれ以上の大きな声で叫ぶように言いました。
「あんなの好きなわけないじゃない!魚屋?刺身?バッカじゃないの?」
その日は、なんだか分かりませんが、もう、居ても立っても居られなくて、残りの授業は手につかず、帰りたいけど帰れず、何をしたらいいのか分からず、困ってしまって仕方がないので掃除の時間に全速力で雑巾掛けを何往復もしました。雑巾掛けの勢いのまま、壁に激突してガラスのように砕け散ってしまいたい気分でした。 一割ぐらいは助けてあげたい気持ちがあった僕を、自分だってタコ、イカと書いていたくせに自分の立場を百パーセント守るために切り捨てて、挙句の果てに僕が何も申し込んでいないうちから失恋したことにまでしやがった彼女に向かって、振り向いて言ってやればよかった台詞が今なら何通りも思い浮かびます。
今でも、急にあの日の様子を鮮明に思い出し、魚の名前を知らなかった無知な僕にではなく、その場そのときに、気の利いた台詞のうちの一つも思いつかなかった僕に対して、とてつもなく悔しさがこみ上げるときがあります。そしてそんなときにはなんとなく、気持ちを落ち着かせるために部屋や職場の机の掃除を始めます。
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