『クイーンズ・ギャンビット』 ウォルター・テヴィス 小澤身和子 訳

『クイーンズ・ギャンビット』

 ウォルター・テヴィス 小澤身和子 訳


 エリザベス・ハーモンは八歳の時に母親を事故で失い、孤児院〈メスーエン・ホーム〉に引き取られる。子供を管理しやすくするために安定剤を処方するような施設で暮らしていたベスだが、地下室で用務員のシャイベルがひとりで指していたチェスに魅せられ、差し方を習う。地下室に訪れる度にベスはチェスの腕をあげ、最初はベスのことなど相手にしなかったシャイベルを負かすまでになる。施設の大人たちの目を盗み、授業や礼拝の時間にぬけだしてチェスを打ち続けていたベスは地元高校のチェスクラブメンバーを圧倒するほどの力をつけてゆく。しかし、すでに依存気味になっていた安定剤を盗み出そうとしたことから罰を受け、チェスを遠ざけられたが十三歳の時に転機が訪れる。子供のいないウィートリー夫妻の養子になることが決定し、施設の外にでることになったのだ。

 ベスの保護者になったウィートリー夫人はアルコール依存症気味でベスのことはほぼ放置気味、法律上の父親になったウィートリー氏は妻にもベスにも関心がなく家によりつかない。勉強のできる地味な女子でしかないベスには学校で居場所があるわけでもなく、チェスへの飢餓感を募らせる。そんな日々、苦労して手に入れたチェス雑誌経由で賞金付きのチェスの大会が開かれることを知る。養母に黙ってチェスの大会に出場を申し込んで出場し、大人の男性ばかりのプレイヤーを倒して優勝する。

 それを切っ掛けにベスの実力と才能を知ったウィートリー夫人がマネージャーとなり、ベスは全米で行われるチェスの大会に出場しては他の出場者を打ち負かし、自分の階級を上げ、大金を稼ぐようになる。

 勝ち続ければ自然に注目されるようになり、国内外で名うてのチェスプレイヤーと過酷で孤独な一局を指し続けることにもなり、当然歯が立たない相手も現れる。マネージャーとして雑務を請け負ってくれたウィートリー夫人と死別し、たった独りになったベスは安定剤のかわりにアルコールに依存するようになる。チェスを通じて恋人のような存在も現れるが長続きはせず、一手一手を考える苦しみや才能が無くなるかもしれないという不安から酒に溺れること等様々な困難や苦しみにぶつかりながらも、ベスはチェスを差し続け、十九歳でソ連のトッププレイヤー・ボルゴフと対局するプレイヤーへと成長するのだった。



 世界規模で大ヒットしたというNetflix配信してドラマの原作小説。各種動画配信サービスとはどことも契約していない時代に取り残されている人間なので、原作小説を買った。便利すぎると却って使わなくなるのが目に見えているサービスの会員になるよりも原作を読む方がいい。サブスクは結構プレッシャーなので。

 元々は1983年に出版された小説で、ドラマ化によりベストセラーランキングに数十年ぶりにランクインしたんだそうな。作者は『ハスラー』、『地球に落ちてきた男』の原作者ですでに故人。どちらも内容は知らないけどタイトルだけ耳にしたことがあるので、解説をそれを知って驚いた。近年刊行された小説だとばかり思っていたので。



 ストーリーはというと、偉大なチェスプレイヤーのエリザベス・ハーモンが、チェスを初めてから壁にぶつかることもあっても勝ち続け、時代のトッププレイヤーと対局するまでを語る、かなりシンプルなものになる。

 しかしラストシーンのベスの年齢が十九歳なことを思うと、フィクションのキャラクターであるとはいえその人生の濃密さにクラクラせずにはいられない。私生活においても二十そこそこで並の人間が四、五十年かけて体験するような人生のイベントもこなしているぞ、エリザベス・ハーモン。


 シンプルなストーリーに反して読み心地が濃いのは、一回の勝負の時にプレイヤーにのしかかる重圧や恐怖や高揚感がつぶさに書かれているからかもしれない。

 孤児の女の子が大の男相手に勝ち続ける痛快さが序盤から中盤には勝っている。しかし、実力をつけてトッププレイヤーとの挑戦権を得ると同時期にたった一人で生きていかねばならなくなった後半からの展開は、面白いだけではすまないものが増えてゆく。特に私生活上のトラブルも振りかかってチェスの勉強がままならなくなるところなど、こちらもその煩わしさが想像つくこともあって読みながら軽めのダメージを食らってしまった。

 妻や家族に生活をまかせている男性のトッププレイヤーだって、毎日毎日チェスについて考え続けても勝てるかどうかわからない勝負の世界。養父母のことも家のことも財産トラブルも、雑務も全て自分でこなさなければならないベスのストレスはいかばかりか。想像するだけで吐きそうだし、そりゃ薬やアルコールに依存したくもなるというものですよ。


 頭が使い物にならなくなるかもしれない恐怖に怯えても、高ぶった神経を治める安定剤やアルコールに逃げずにはいられない。逃げ出したくなっても、天涯孤独なベスには逃げる場所はない。勝利して得られる賞金はベスの生活の糧であるだけでなく、自分の人生を誰にも口出しされずに生きることを保障することに不可欠なものである。逃げ出すという選択はあり得ないのだ。


 こう書いてしまうと、エリザベス・ハーモンという人は運命に翻弄された苦難の人だったかのようである。しかし、別にそんな悲壮な人などでは全くない。

 ベスはチェスが好きだし、対戦した相手を打ち負かすことはもっと好きだし自分が負けるのは大嫌いなのだ。

 チェスプレイヤーである自分も好きだし、チェスで稼いだ賞金を自分の好きなように使うことも好きで、ちょっと地味な外見がコンプレックスで、対戦相手の外見チェックもするしイケメンがいれば心浮き立つようなところもある、結構俗っぽい人である。

 ゲームの相手は完膚なきまでに叩きつぶしたいので、ドローなんて結末も有り得ない。だから勝つしかない。そういう人でもある。

 だからこそ、どれだけしんどくても怖くても地獄をみるかもしれなくても、盤で相手と向かい合うのだろう……。そう思わせるものがエリザベス・ハーモンという人にはあった。

 孤児院時代から大人たちに矯正を強いられても、自分が欲しいものは自力で手に入れてきた。その積み重ねで生きてきた人だから、きっと「逃げる」という選択肢が彼女には備わっていないのだろう。チェスについても、チェスに関する知識も、お洒落を楽しんだり高級レストランで食事することも自分の家も、戦うことで全て手に入れている。戦いを回避して得た二級品に囲まれ妥協して生きていたくはない。死ぬほど苦しんでも絶対に勝ってやる。

 そう言わんばかりな生き様には、ただただ圧倒されるしかないのだった。ぼくにはとてもできない。


 こんな風に書いてみると、まるでバトル系の青年漫画に出てくるキャラクターのようである。

 果たしてこんな、柴田ヨクサル漫画に出てきそうな苛烈な人だったか(ヨクサル漫画は『エアマスター』しか読んでないので例えに出していいものかどうかでも悩んでしまうけども)? と自分でさえ首を傾げてしまったけれど、いややっぱり結構強烈な人だったよ、エリザベス・ハーモンは。


 ついつい主人公についてばかり語ってしまった。以下は本作の好きな所など。

 まともな身寄りがいない未成年の天才チェスプレイヤーとしての苦悩は書かれていても、頭が良くて男性と肩を並べて活躍する女性の物語にありがちな「女性なのに賢いせいで不幸になるか苦悩するハメになる(頭の良さが煙たがられて失恋する。仕事か家庭かの二者択一を迫られる。主婦になったらすり減る才能に悩み、仕事を選んだら家庭について悩む、有能なら職場の男性に疎まれるなど)」というエピソードがない所も非常によかった。

 彼氏のような存在もできることはできるが後腐れなく別れる。女の子に負かされて口惜しがる男性チェスプレイヤーもベスがもっと強いプレイヤーと戦うことが決まったら進んで勉強相手になってくれる。実際のチェス業界も果たしてそうなのか? ちょっと理想化してるんじゃないか? たまたまベスが才能あったから人間扱いしてくれてるだけじゃないか? という疑いもないじゃないけれど、ベタベタしない風通しの良さは感じられた。

 孤児院時代の友人である黒人女性のジョリーンも、1983年に刊行された小説の登場人物だと思えばかなり先進的なキャラクターなように思う。今読むと若干マジカルニ●ロっぽさも感じないわけではないけれど、助けを求めるベスの力になってくれる件は読んでいて嬉しい所だった。

 ただ、そこよりも好きなのは、酒浸りだったウィートリー夫人をマネージャーにして全米各地のチェス大会に出場する少女時代の件だったりする。ベスにチェスの才能があることを知るまでほとんどネグレクト同然の扱いを強いていた人なので、この義理の母娘の関係が続いていたらそのうち破綻していただろうなと想像つくものの、この二人があちこちを旅しながら高級店で買い物をしたりレストランで食事したり雑談で盛り上がるなどラグジュアリーで楽しいひと時をすごしていた所にはどうしてもテンションがあがる。


 肝心のチェスについてのことが後回しになっていたけれど、チェスの知識などなくてもゲームの状況や対戦相手の心理がわかるように、ゲームの展開にハラハラするように書かれていたの何気にすごいんじゃないかと思った。原文ではどのような文体でどのように語られているのかは分からないが、訳文は平易な文体でするする読める。



 総じて満足感の高い小説だったけど、一つだけ言わせて欲しい。

 エリザベス・ハーモン、お前、最初の大会に出る時に「借りた額は優勝した賞金から返す。それに、今後チェスの大会で得た賞金のうち10%を支払う」っていう約束でシャイベルさんからお金を借りたじゃないか……? なのに踏み倒したとはどういうことか? 賞金だって一度も払ってないじゃないか……?

 シャイベルさんは最初から戻ってこないお金としてベスに貸し付けたようだし、氏もベスの快進撃を喜んでいたらしいけど、でもせめて借りた分だけは返しなよ……?

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